7、最後の夏



 静かな部屋。テレビだけが騒いでいる。裕と俊はそのテレビに釘付けになっていた。テレビの向こうは生放送で春の甲子園の決勝戦が行われていた。…そう、今終わったばかりである。

 「…やべぇな。」
 「ああ。やべぇ。」

 テレビに向かって話し掛けるように二人は画面から眼を離さない。
 決勝戦。もう、毎年恒例となってしまった兵庫の朝間高校と大阪の明石商業との試合。

 「…勝てるかな、俺ら。」
 「…ああ…、勝ったら伝説だよ。」

 二人は顔を見合わせる。そして、一斉に笑った。

 「…なるか、伝説!」
 「なるっきゃねぇだろ!」

 二人はそのままドタバタと部屋を出て行った。その手にグローブと白球を握り締めて。



――甲子園球場。
 スコアは4−0で、兵庫県朝間高校の勝利。すでにお決まりとなった結果に観客は何処か納得したように帰って行く。残った勝者の朝間高校がグラウンドを均していた。
 ベンチに座り、休んでいた浅賀の前に影が落ちた。

 「……何や、エイジ。」

 浅賀はゆっくりと顔を上げた。そこにはやはり、笹森がいた。

 「ナイピッチ。」
 「敵に何を言うとんねん。」
 「…俺は、思った事は包み隠さん主義やねん。」

 笹森は微笑んだ。だが、それとは打って変わって浅賀は不機嫌そうにしている。

 「…お前、変わたな。」
 「どう言う意味でや。」
 「最ッ悪な意味でや。」

 浅賀は馬鹿にするように、口の端を吊り上げて笑った。

 「何でやねん。」
 「お前のプレイには、必死さが無い。」

 笹森は黙った。

 「絶対勝とーて気が無いねん。次勝てばええか、みたいな。やから、いつまで経っても俺に勝てへんねん。」
 「…お前は、いつでも必死でやっとんのか。」
 「当たり前や。一度しか来ん今やで?今必死にやらんで、いつ必死にやんねん。」

 浅賀は立ち上がり荷物を纏め始めた。笹森は立ち尽くす。

 「…言うとくけどな、今戦わん者に次は来んで。夏は、裕が上がって来るやろな。」
 「あいつは必死て言うんか?」
 「見たら解るやろ。勝ちとーて勝ちとーてピリピリしとったやんか。」
 「でも、あいつは負けたやろ。」
 「あれはアイツの自爆や。焦り過ぎ。」

 浅賀は楽しそうに笑う。そして、荷物を纏まると立ち上がった。

 「…あ、お前も必死なトコあったな。」
 「何がや。」
 「裕の本塁滑り込み止めたトコ。あの二回はお前本気やったなぁ。…やから、何とか勝てたんや。」

 そう言い、浅賀は帰って行った。クックッ、と楽しげに笑いながら。その笑い声が笹森の頭の中に残った。



 (…さぁ、ここまで誰が上がって来んねやろ。)

 努力をしても勝てるとは限らない。だが、努力しない者は認められない。
 笹森は、大人になった。甲子園決勝まで上り詰めて、負けても泣かなかった。決勝まで勝ち進むのが当たり前で、負ける事が普通になってしまったんだと思う。
 勝っても負けても泣く事なんて無い。それが大人なら、一生子供のままでいい。

 (裕は、気付いとるかな。)

 最後の最後に届かなかった本塁。伸ばした手を握り締めて流した一筋の涙を。誰も気付かない砂埃の中、自分さえも汗と共に拭い去ったあの涙を。

 (……来いや、裕。ここまで。)

 浅賀は球場を出ると、空を見上げた。そこにはただひたすらに青い空が広がっていた。



 …必死やった…か。何で、俺はそんな簡単な事に気付かんねん。
 入学前から強豪校だった明石商業。そこに入学し甲子園に行くのが普通になってた。俺はいつまでも地区予選なんかにもたついてる裕にイライラしとった。やけど、そんなん当たり前や。
 あいつは俺らと違て、フツーの高校に入学したんやからな。
 最初の一年は実力が認められずにはじかれる。次の一年で大きく一歩を踏み出す。…そうや。あいつはたった一年で甲子園まで来よった。十分凄いんや。

 (…最強か。)

 天才は最強になれない。
 俺が言うた言葉や。それが真理ならば恭輔は最強にはなれん。そして、恭輔の言う通り裕が最強ならば誰も裕には適わない。

 (でも、負ける訳にはいかんねん。)

 最後の夏なのだから。ここで負ける訳にはいかない。最後の最後に一発綺麗に咲いて終わりたいと思うから。何よりも、誰にも負けたくないから。

――一度しか来ん今やで?今必死にやらんで、いつ必死にやんねん。

 もう、一度しかないんだから。



 ゴロリと寝転んだ山の中で裕は空を見上げた。空と言っても、葉の隙間から合間見える小さな空だったが。俊の秘密の練習場に来たのは久しぶりだった。二年前の、兵庫から神奈川に引っ越して来た日の事が薄っすらと脳裏に蘇った。弟の瑠を連れて何時間も町をさ迷って、キャッチボールする俊と脩に出会って。気付けばもう二年も前の事。懐かしさよりも、寂しさを覚えた。
 大きく息を吸い込む、そして吐き出す。調子に乗って全力投球のキャッチボールを二時間以上も続けたものだがら、肩が重い。ぜいぜいと呼吸は乱れている。
 ひゅう、と。風が吹き抜けた。

 「……あ。」

 カバッと起き上がって風の吹いて行く方向を見つめた。当然風なんて見える訳じゃ無い。ただ、小さな祠が立っているだけ。何だか解らない像の置かれた祠。

 「何?」

 俊は裕がへばってからも相変わらず、黙々と薄汚れたブロック塀に全力投球している。ピッチャーなだけあって体力は流石のもの。いや、裕がただ単に馬鹿なだけに過ぎないが。

 (風が変わった…。)

 漠然とした何かが胸の中に飛び込んだ。その正体が一体何なのか、考えるまでも無い。
 馬鹿にもなるだろう。とうとう、来てしまったのだから。



 「――夏が、来た。」



 ポツリと裕が呟く。俊は、はぁ?と不機嫌気味に言い捨てる。だが、生暖かい風・柔らかな匂い・胸を揺るがす空気。全てが裕の感覚と言う感覚を鋭くさせる。ゾクゾクする。

 「…いきなり、意味解んねぇな、お前。」

 呆れたように俊が言った。だが、裕の表情はそれを聞いてか聞かずか次第に笑顔になっていく。
 意味なら、この風が、匂いが、空気がくれる。それだけで戦える。グラウンドに立ち、何点差だったとしても勝つ勇気をくれる。

 無性に走り出したくなる。息の続く限り。足が動く限り。

 だが、このキャッチボールで疲れた体ではそう遠くへは行けなそうだ。裕は気持ちを落ち着ける為にもう一度大きく息を吸い込んだ。
 すると、丁度裕のジャージのポケットに突っ込んであった携帯から着うたが流れた。面倒臭そうに携帯を開くと、そこには番号が表示されているだけで、名前は無かった。イタズラ電話かもと思いながら何の気無しに電話を受ける。

 「はい、蜂谷です。」
 『――桜庭か?』

 ドクンと心臓が高鳴った。咄嗟に携帯電話を持っていた方の手に力が篭る。
 “桜庭”と言ったか?裕の事をそう呼ぶ者は少ない。まったく知らない者なら解らないだろう。知っている者なら“蜂谷”と呼ぶだろう。
 気が焦る。だが、まだ解らない。ただのイタズラかも知れない。
 しかし、裕のその期待にも近い思いは裏切られる。

 『桜庭…裕だな?』

 これはもう、決定的だ。イタズラなんかじゃない。

 「誰だ…?」

 声が震える。聞き覚えのあるような、無いような声。いや、確かにある。思い出せないだけだ。思考を必死に巡らせるが応答は無い。その様子に気付いた俊が「誰?」と問う。

 『俺を忘れたか。…俺はずっと、覚えてたのにな。お前を倒す為に。』

 深い憎しみのような言葉。だけど、殺気がまるで無い。ただ、話している。こんな声を、昔何処かで聞いた。

 『俺だよ、…武藤直人。中学三年の最後の大会の決勝で、お前の満塁逆転ホームランで負けたチームのピッチャーだった。』

 記憶の糸が、繋がる。
 入道雲の浮かぶ青い空。溢れかえる観客。ツーアウト満塁で迎えた最終回。ツーストライクで追い詰められて、最後の落ちた変化球を…ホームランした。中学最初で最後のホームラン

――優勝…、おめでとう。

 マウンドに作られた涙の跡。日に焼けた肌に肉刺だらけの固い大きな手。
 何もかもが昨日の事のように思い出された。

 「あの時の…ピッチャーか…。」
 『思い出したのか?』

 武藤は笑っていた。

 『電話番号学校に聞いた。…テレビで、浅賀恭輔が“神奈川の阪野第二高校にいる最強打者”って話しをしててピンと来たよ。ああ、きっとそれが桜庭の事なんだってな。ま、笹森も言ってたし。』
 「わざわざ掛けて来てくれたのか?」
 『応援なんかじゃないけどな。これはただの宣戦布告。』

 電話の向こうで、武藤の真剣な表情が浮かぶ。

 『甲子園に俺は行く。…春は準決勝敗退でお前のトコとは当たらなかったけど、夏は当たる。当たらなくても、お互いに決勝まで行けばぶつかるだろ。だから、そこまで来いよ。』
 「お前の学校って。」
 『…埼玉の、慶徳学院高校。言っておくけど、野球の名門だよ。』

 埼玉の慶徳学院の、武藤直人。

 『今度は俺が勝つ。だから、それまで負けるなよ。』

 電話は、プツッと音を立てて切れた。ツーツーと寂しく音を立てる携帯を呆然と裕は見ていた。

 「誰?」
 「…武藤直人。」
 「へー。有名人じゃん。」
 「そうなの?」

 俊は盛大にため息を吐く。

 「お前は兵庫の浅賀と大阪の笹森とかしか視界にしなかったかも知れねぇけど、他の学校も少しくらい気にしろよ。武藤直人って言ったら、あの埼玉の名門高校慶徳の主将で投手じゃねぇか。新聞にもでかでかと報道されてるよ。」
 「へえ…。上手いんだ。」
 「当たり前だろ。全国ベスト4だぜ?」
 「ふうん。」

 ゾクゾクする。舞台が、整っていく。
 裕は立ち上がった。そして、傍に転がっている硬球を握り締めた。



――絶対にまた、グラウンドに戻るから。だから、勝負しような。

――お互いに決勝まで行けばぶつかるだろ。だから、そこまで来いよ。

――早く本気になって上がって来い、蜂谷裕。



――…最強の打者に告ぐ!俺達は約束の地にてお前を待つ!!…早くここまで上がって来い。



 勝たなきゃ、いけない。
 でもそれは決して義務に近い使命感じゃない。勝ちたいから勝たなきゃいけない。そういう思い。

 裕は握り締めた硬球を、振り被ってブロック塀にぶつける。鈍い音が響いた。
 最後の夏が、始まる。