8、終わりの始まり


 最後の夏が来た。
 ザワザワとユニホームを着た人達がごった返している。球場ではこれから、全国高等学校野球選手権の神奈川大会の開会式が行われる。その入り口近くで裕はしゃがみ込んでいた。

 「…あっちぃな。」

 俊が独り言のように呟いた。パタパタと胸元を前後に動かして僅かな風を呼び込む。その苦労を足蹴にするように日はますます強くなる。
 帽子を深く被って壁に寄り掛かり裕は下を見ていた。背中のコンクリートが冷たくて心地いい。黒のアンダーシャツや帽子が太陽熱を吸収するから暑い。

 「どした、裕。体調悪いのか?」

 爾志が俯く裕の顔をひょいと覗き込む。

 「いや…暑いなって思って。」
 「ったく、バテてんのかよ。」

 爾志は裕の頭の上に手を乗せる。ズシリとした重量感。

 「お前は今日、この神奈川大会の代表なんだぞ?」

 去年の優勝校である阪野第二高校は今日の大会の入場行進で先頭を歩く。更に、主将の裕はその更に先頭で旗を持って行かなければならない。そして、組み合わせ抽選会で引いた一番…選手宣誓。

 「…解ってるよな?」

 裕は頷いた。

 「お前がいなきゃ始まらねぇんだ。…だから、お前は胸張ってけ。間違い無くこの神奈川一の学校の主将なんだから。」

 爾志は笑う。裕は微かに微笑んで確かに頷いた。
 沢山のものが重い。立場も責任も。それでも、不思議と辛くなかった。裕はゆっくりと立ち上がった。



 トランペットやら、ドラムやらの音が重なって響く。開会式の始まる最初の合図。女の子の声が聞こえた。

 『選手入場』

 放送が響いた。それを合図に足を動かす。
 この行進も最後。例え勝ったとしてももう二度とする事は無い。
 『いっちにー』の声が彼方此方から聞こえる。その中で一際小さな裕は旗を持って進む。数え切れないくらい沢山の人の視線を感じる。その視線が言う。「なんて、頼りない背中だ。」って。
 そんな視線を今まで幾つ浴びて来ただろう。裕はそんな事を考えた。


――だから、お前は胸張ってけ。


 爾志の言葉が蘇る。
 誰に馬鹿にされても、誰に罵られても、誰に認められなくっても。ここに立つ意味なら今まで歩いて来た道が教えてくれる。だから、迷う必要なんてない。落ち込む事もない。

 『選手宣誓。県立阪野第二高校野球部主将、三年蜂谷裕君。』

 名前を呼ばれドキリとした。だけど、大丈夫。



 「…宣誓。僕達はスポーツマンシップに則って、己の力の限りプレーし、甲子園と言う夢の舞台へ挑む事を誓います!」



 感動的な事は言えない。考えてきた宣誓の言葉なんて飛んだ。だから、簡単な事でいい。
 夏が始まった。



 「…はぁ〜。」

 禄高が盛大に息を吐く。余程疲れた様子だった。

 「禄高疲れたのか?」
 「当たり前だろー。一生の内にこんなに行進する事なんてねぇよ。」
 「そうだなぁ。」

 裕はからりと笑った。

 「裕もお疲れ。言っとくけどな、禄高。お前よりコイツの方が疲れてるに決まってるだろ。」
 「そんな体力馬鹿と俺を一緒にしないでくれー!」

 爾志と禄高が言い合っているのを見ながら裕は一層楽しそうに笑っていた。
 そんな阪野二高ナインの傍に監督の右京が近付いた。

 「じゃ、これから学校戻って練習ね。蜂谷君、メニュー解ってるよね?」
 「はい。」

 それだけ言うと右京はいなくなってしまった。残された裕が部員に呼び掛け、学校まで引率する。
 行進で疲れたレギュラーメンバーも重い腰を上げて歩き出した。

 「あー。練習かー。」
 「何だ?そんなに疲れたのかよ。」

 新が吐き捨てるように言い、鼻で笑う。

 「いや。って言うかさ、俺達そんなにキリキリ練習しなくても行けると思うんだよね。」
 「…そりゃ…。」
 「甘ったれるなよ。」

 先頭にいて今日の予定を確認していた筈の裕が振り返らずに言う。

 「去年や春と同じだなんて思うな。道なんてねぇんだ。毎年一回戦負けだったチームが優勝する事だってあるし、その逆も然りだ。」

 禄高は口を閉じ、固く結ぶ。
 そう、忘れてはいけないのだ。一昨年の夏、尾崎達の率いたチームは悪いチームじゃなかった。なのに、たった一人の、一年に負けた。その学校だって甲子園じゃ一回戦負けだ。

 「その通りだ。それに…俺達には、決定的なもんが無いんだぞ?」
 「…ああ。」

 その意味を、誰もが知ってる。甲子園に出場までした阪野二高の最大の欠点。それは、四番がいない事。人が足りない。四番に座り、ここと言う時に打ってくれるチームの主砲がいない。
 四番の経験者から選ぶならば、裕、爾志、禄高、那波。裕は中学一になった事もある四番だったが、そこに納まってしまうとチームは俊足の一番打者を無くしてしまう。爾志はキャッチャー。出来る事なら後ろの方にいてもらってキャッチングに集中してもらいたい。禄高は大事な三番打者。那波は実力もあるが、二年でこの四番は重い。

 「四番か。」

 裕は呟いた。だが、すぐに楽しそうに笑う。
 それを見て禄高は怪訝に眉を顰めた。

 「何笑ってんだよ。」
 「…いや。」

 裕の頭の中には一人の男の後姿が映っていた。

 「四番打者なら平気だ。大丈夫。」

 はぁ?と新が不機嫌そうな声で言うが、裕は何も言わなかった。そんな心中を俊だけが何となく理解していた。

――絶対に、間に合わせる。

 御杖拓海の声が蘇る。
 真っ直ぐな目で、表情で確かに御杖そう言った。間違い無く来てくれる。御杖の実力がどんなものかは知らないが、只者には見えない。
 約一年間のリハビリ。手術を受けたのは去年の夏。間に合うとしてもギリギリだ。地区予選には間に合わないかも知れない。それでも。

 「…最後か。」
 「そうだよ。だから、絶対甲子園行こうぜ。」

 ぼそっと新は呟いたのだが、禄高が言った。

 「そうは行かないんだな。」

 新と禄高の前に大きな影が二つ落ちた。そこには、東光学園のキャッチである朝倉陽治と…ピッチャーで主将の如月昇治がいた。
 如月の顔色はそんなに良くは無かったが、春に見た時とは別人だった。

 「如月。」
 「よう、蜂谷。」

 ずい、と如月が裕の前に歩み寄る。何気無く、またでかくなったなと思った。
 如月は一年の頃から大きかったが、今はもう百八十センチメートル近いのではないかと思った。ピッチャーにこの体格は武器だ。それと並ぶ大きさを持つキャッチャーの朝倉も。

 「手術成功してよかった。退院祝いも行けなくて悪かったな。」
 「何言ってんだ。敵によ。」

 如月が苦笑する。

 「…去年みたいにはいかないからよ。俺が帰って来たからには春みたいにもいかない。覚悟しとけ。」
 「はは。俺らも負けられねぇよ。色んなもん背負ってるからな。」

 お互いに背負っているものを知っている。それが本人にとってどれだけ重要で、重いのかを知っているからこそ負けられない。

 「東光学園と…、阪野二高は別の山だ。決勝までは当たらない。負けるなよ。」
 「負けるかよ。」

 裕は拳を握り締めた。
 如月は薄く笑うと、踵を返してそこを去っていく。その後姿を暫しの間見届けると、阪野二高はまた学校へ向けて歩き出した。

 「東光学園か。」

 爾志は呟く。

 「去年の夏は7−6で俺達の勝ち。」
 「懐かしいな。あの試合は辛かった。」

 逆転されて、逆転し。傷付いて傷付けられて必死に、やっとの思いで掴んだ勝利だった。まだ、裕達が二年生で赤星達が三年生だった頃。

 「で、春が4−0で圧勝か。」
 「でも、如月はいなかっただろ。」

 春選抜は如月は手術の為に欠場。あれは勝って当然の試合だった。東光学園も頼るべき主将がいなくて不安定だったから。
 だからこそ、今年は恐い。如月が帰って来たから。このままいないままに夏が終わるよりはずっといいのかも知れないけど。

 何気無く裕は太陽に手を伸ばす。掌が透けてオレンジ色に見えた。届く訳も無いが太陽に重ねて手を握り締めた。当然、何も掴んじゃいない。

 「…何してんだ?」
 「別に…。」

 もう一度。最後なんだ。甲子園に行く。如月を倒し、武藤を倒し、笹森を倒し、浅賀まで辿り着かなければならない。負けたくない。誰にも。

 裕はもう一度手を握り締めたが、ただ夏の暑い空気を掴んだだけだった。