9、試合開始! 夏の甲子園予選が開始され、すぐに試合は始まった。勝っても負けても終わってしまう大会。夏の暑い日差しの中行われた試合を順調に勝ち進む阪野第二高校。 気付けば、地区大会の試合はあと一つ。つまり決勝まで上り詰めていた。 陽炎の昇るグラウンドは暑くて眩暈がした。裕は熱を持った金属バットを地面に置いて額の汗を拭う。暑さと疲れで足がふら付いた。 だが、それに気付かせないように、すぐにバットを構える。安定した自然体のフォームは裕特有のもので、マネしようとして出来るものではない。頼りない背中を頼り甲斐のあるものに見せる魔法のようにも思えた。 『本当に整ったバッティングってのは、芸術品なんだ。』 中学の顧問が言っていた事を今頃になって漸く理解出来るようになった。俊は正面に立つ裕をまっすぐに見据えると球を高く掲げて投球した。 バッティングの練習は普段通りのメニューで、裕のバッティングピッチャーは割と俊が当たっていた。 キン、と言う澄んだ音。この音が好きだった。この音が脳を支配し、心の中に染み渡る。特に試合中は。高校野球をやっていると改めて思うのだ。気持ちがいい。晴れ晴れとする。 「…ラスト。」 裕は言った。向こうで俊が頷く。 多分、ここで俊の一番が来る。最後の一球は何時だって俊の最高の球が来る。決め球となる超剛速球か、俊の得意とする変化球か。 今回は後者だった。俊の決め球の一つ、高速スライダー。横滑りの球は裕のバットを避けるようにして通り過ぎて行った。 大きく息を吐いて裕はメットを脱ぐ。 「ありがとうございました。」 軽く頭を下げて裕はバットを肩に担ぐ。丁度裕が最後だ。このまま続けたら誰かしら倒れるかも知れない。区切りもいい事だし裕は辺りを見渡して大きく息を吸い込んだ。 「…休憩ー!」 彼方此方から“ありがとうございました。”の声。それぞれバッティング練習の片付けを軽くして、それが終わると水分補給やら日陰で寝転がるやらそれぞれの休憩を始めた。 裕は一口、スポーツ飲料を飲み下すと日陰に座り込んだ。 正面に広がるグラウンド。ここであと何日間試合が出来るだろうか。緑の見なれたバックネットには所々穴が空いていて、踏み慣れた地面はイレギュラーの多い地点、雨の日の状態、土の感触。殆どを熟知している。 もっと、ここで野球をしたい。そんな事は不可能だって解ってはいるけれど願わずにはいられなかった。こんなにいい仲間と巡り合えたのにもう終わってしまう。 「お疲れ。」 「おお。」 呟くように言って俊が近くの日陰に座る。 「…何、見てんの。」 「え?グランド。」 「へぇ。」 聞いておいてどうでもよさそうなのはいつもの事だ。裕は小さく笑う。 「グランドなんか見て楽しい?」 「いや…。昨日の試合思い出してた。」 昨日の準決勝。4−0で勝利した試合。 「…相手、泣いてた。」 審判のゲームセットの声が聞こえた瞬間の相手高校の絶望した表情を忘れない。忘れちゃいけない。あの瞬間に、あの学校の一学年の夏が、野球が終わったのだ。夢が終わった。 その結果を生み出したのは間違い無く自分達。勝利の裏には敗北がある。当然の事で、仕方が無い事なのにどうしても残酷だと思ってしまう。 「当たり前だろ。…負けた。つまり、終わったんだから。」 「ああ。俺達が、終わらせた。」 「悔やんでんのかよ。」 「まさか。」 後悔なんてしていない。トーナメントなんだ。勝たなきゃいけない。 こうやって勝つ度に、何人の夢を踏み潰して来たんだろうか。 「たださ、俺、恐いんだよ。」 「何が?」 「俺達がそうして来たように、俺達もそうやって…。」 裕は俯いた。 「終わらないよ。」 突然の声。裕が顔を上げるとそこには監督の右京がいた。 右京は長い黒髪をポニーテールにして阪野第二高校の野球帽を被っている。 「終わらせない。君達の野球はまだまだ終わらせないよ。」 「監督。…俺だって、このチームで負けるなんて考えられませんよ。でも。」 ――最後の最後まで行って負けた時、最後に勝っても何も残らなかった時。それまでの道のりで敗者にさせてしまった彼等は恨むだろうか。自分は、後悔しないだろうか。それが、恐い。 「大丈夫。」 右京は笑った。 「今はただ、自分の信じた道をひたすら進んで。正しさなら、今まで歩いて来た道が教えてくれるから。」 今まで歩いて来た道。 兵庫から引っ越して来た一年。沢山の問題にぶつかり、傷付き、傷付け合った二年。そして、如月のいない東光学園に勝利して進んだ先の甲子園で三年ぶりに再会した笹森に敗北した春。 正しい事なんて解らない。でも、間違っているとは思えない。思いたくない。 「…さ、練習始めましょう?皆待ってるわ。」 裕は小さく笑った。左手を後ろに置いて立ち上がろうと力を込める。その時だった。 パキッ、とも、ピシッ、ともつかない音と小さな痛みを感じてその左の掌を見つめる。左の小指に小さな違和感。ズキズキとする痛み。捻ったかと馬鹿らしく思いながら誤魔化すように手を握り締めて裕はそのまま歩き出した。 東光学園。 広いグラウンドにナイター設備まである野球の名門校になろうとしている。いや、もう名門と言って過言では無いだろう。学校ぐるみでこの学園を野球の名門にしようとしているのだ。こんなに恵まれた環境もそう多くはあるまい。 如月は大きく振り被る。高く掲げられた右手から落ちて来るかのような剛速球。朝倉のミットに飛び込んだ球は驚くほどいい音がした。 「ナイスボール!」 朝倉からの返球。 相変わらず重い球だ。春に心臓の大きな手術をした男の球とは思えない。今日も球が走っている。決勝まで勝ち進んだが威力は衰えないし、ここまで完全試合もした。コールドも二つ。 相手は宿敵阪野第二高校だが、負ける訳にはいかない。最後なのだから。 「…行くぜ。」 如月は構えた。 去年の夏の地区大会の決勝。その試合を忘れない。何としてでも勝ちたくて、反吐が出るような卑怯な手を使って戦った。でも、勝てなかった。今は、だからこそ勝てなかったんだと思う。 誰にも触らせまいと投げたあの剛速球。打ったとしても前には飛ばずに打ち上げる。打った後、その手に残る痛み。そう思って投げ続けた。 最も打てないだろうと、投げるに値しないくらいの小さく非力なバッター。振り下ろされたバットに打球は三塁線へ転がった。ランナーを帰す為に打ったゴロ。ツーアウトであと一人だったのに、二点差が追い着かれた。 ――…俺たちは甲子園へ行く。俺は俺自身の為に。 俺もだ。 祐との約束は、俺の勝手な自己満足。甲子園に行く事で罪から逃げようとしていた。気付いてやれなかったあの時の罪。 甲子園に行くのは東光学園だ。 如月の投げた球は朝倉のミットへと納まった。 「…ナイスボール!」 朝倉は立ち上がった。 「休憩にしようか。」 如月は頷いた。 防具を外していく朝倉。一年の頃は名も知らなかった一人のチームメイトだったのに、今では掛け替えの無いたった一人のキャッチャー。 「もう、俺ら最後だな。」 「ああ。だから、勝とう。」 沈黙が流れた。朝倉が言葉を探していると如月が口を開いた。 「…春、お前、俺の為に阪野二高に行ってくれたんだな。」 「知ってたのか。…蜂谷か?」 「…あの日の阪野二高のベンチはおかしかった。暗くて。だから、問い詰めた。」 「そうか…。悪かったな。お前を侮辱するような事して…。」 「そんな事は無い。」 朝倉は顔を上げた。 「朝倉、今までありがとう。我侭な俺の相手勤めてくれて。」 如月らしくない様子に朝倉は驚きを隠せない。 「…馬鹿、言うなよ。まだ、最後じゃねぇだろ。」 「そうだな。…これからもよろしく。」 夕暮れの見慣れたグラウンドに、風が吹き抜けた。 暑い日差しに目を細める。観客席には帽子は当たり前で日傘を持った女性、団扇を扇ぐ人で溢れている。アイスや清涼飲料が売れるだろうな、と思いながら裕は太陽を見ていた。この下で試合をする自分達を太陽は笑っているように思えた。 地区大会決勝。もう、決勝。ここを勝てば甲子園。負ければ当然引退だ。一か八かの試合はいつもの事で、裕はグラウンドへと足を踏み入れた。 お互いの練習が終わり、試合の準備を済ませると両校整列の声が掛かった。 「これより、全国高等学校野球選手権の神奈川大会、決勝戦。県立阪野第二高校と私立東光学園の試合を始めます。両校互いに礼!」 「お願いします!!」 甲子園への切符を賭けた試合が、始まった。 |