11、誓いの言葉


 一回裏の爾志の送りバントにより先取点を得た阪野二高だったが、0−1で試合は膠着していた。一進一退を強いられる、誰もが息を呑む試合展開に誰も目を離せない。次第に試合は投手戦へと形を変えて行った。

 『バッター一番、蜂谷君。背番号6』

 六回の裏を迎えた。
 裕は三度目の打席になる。ニ打席目に三振の屈辱を味わい迎えた打席。

 「お願いします!」

 東光は、戦いの形を変えた。
 お陰でヒットを打っても点数に繋がらない。現在ツーアウトだが、ランナーはいない。裕の独壇場だが。

 一球目、インローの直球。
 内に突き刺さるようなストレートに手が出ない。審判のストライクが聞こえた。
 朝倉からの返球を受け取った如月はすぐに構える。前進守備。バント警戒で一球ごとにファーストとサードがダッシュして来た。ダウンスイングと言うのはゴロを打つのに効果的な打法で、高く上がる事はほぼ無い。さっきのピッチャー頭上に上がったのはただの偶然。そんなものに頼っちゃいけない。

 転がれば間に合うだろうか?この警戒の中で。
 流石に間に合わないだろう。

 裕は構えた。もう一点、もう一点が欲しい。

 二球目、インハイの直球。
 バットはボールの僅か下を空振った。ツーストライク。

 三球目、インハイからアウトローに逃げて行くシンカー。
 一球目と二球目の直球。ボールも無くあっという間に裕は打ち取られた。
 メットのツバを下げて表情を隠しながら裕はベンチへと戻って行った。



 「…三振かよ。」

 すれ違い様に俊が呟いて行った。裕は苦笑して左手にグローブをはめる。言い返す言葉も見つからない。
 俊の本気の言葉では無い事くらい解るが、少しだけ落ち込んで裕はグラウンドへと向かった。

 試合は七回を迎えた。
 東光の攻撃は四番の朝倉から。ランナーがいないとは言え、一点差で勝っているこの状況のプレッシャーは大きい。特に朝倉を相手にしては。

 だからこそ、一点を取りたかった。
 裕は帽子のツバを上げてバッターボックスの朝倉を見つめた。



 『七回表、東光学園の攻撃。バッター四番、朝倉君。背番号2』



 応援が大きくなる。ここまでホームランを何本も打って来た朝倉。点差はたったの一点。
 もしも、試合の最後までランナーが一人も出なかったらこれが朝倉の最後の打席になる。

 「お願いします!」

 朝倉は構えた。
 爾志はサインを送る。朝倉に足は無い。ただ、一発がある。その一発を打たれたらもう同点だ。裕が足で掻き回してようやく掴んだ一点が返されてしまったら危ない。

 一球目は、アウトローの直球。朝倉は動かなかったが際どいコースでストライクを一つ取る。
 二球目は、インハイ。これも直球。対角線のピッチングは打者も打ち辛いが投手も投げ辛い。だが、俊なら平気だ。朝倉のバットは空振った。

 ツーストライク。
 三球目はインハイの直球。ボールになる。朝倉は動かない。カウントは2−1と整った。

 (くそ…。来るか?高速スライダー!)

 俊の決め球である高速スライダー。カウントを整えられて俊の高速スライダーが打てた選手はいない。
 朝倉もその一人。その読み通りの高速スライダーは朝倉のバットを避け、驚くほど綺麗に爾志のミットへと突き刺さっていった。


 「ストライクッ!バッターアウト!」



 その頃、兵庫ではすでに地区大会の決勝が終わっていた。
 そして、浅賀恭輔は三年連続の甲子園出場を決める。報道陣が騒がしく出口に張り込んでいた。

 朝間高校の浅賀を中心とするチームが現れた瞬間、沢山のシャッターが切られた。眩しくて、思わず手で目を隠す。
 次に襲って来たのは大勢の記者の質問。

 「優勝おめでとうございます!三年連続の優勝ですね!コメントをどうぞ!!」
 「……甲子園優勝までとっといて下さい。」
 「大阪の明石商業も甲子園出場をついさっき決めたそうです。何かありますか?」
 「……当前の事です。」
 「甲子園に向けての意気込みはありますか?」


 「…いつも通り、勝つだけです。」



 七回の裏が終わり、八回を三者凡退で抑えるとついに最終回がやって来た。0−1でいつひっくり返ってもおかしくは無い試合。お互いの攻撃力を見れば尚更。
 東光学園は長打で点を取っていくタイプ。逆に阪野第二高校は守備の隙を縫うようにコツコツ点を取っていくタイプ。そんな中で重要になるのはランナー。特に、一番打者で全国一の俊足を持った走者。



 最終回、九回の表。東光学園の攻撃、打者は一番から。

 『バッター一番、荒居君。背番号8』

 荒居はバッターボックスに立ち、バットを構える。正面の投手は、如月と並ぶ怪物投手。天才に有りがちな精神面での弱さが無い。マウンドでどんな状況にも表情を変えずにひたすら投げて来た。
 この投手が崩れる事は無い。なら、己の力を一杯にぶつけるしか無いだろう。

 (×ゲームになんてさせない。)

 一球目、アウトハイの直球を見送る。まず、ストライクが一つ。
 球威は衰えない。
 二球目、インローの直球。タイミングが僅かにずれたが、球はバットを掠って後ろに弾け飛んだ。ファール。

 (いい感じに荒れてんのかと思ったら、ちゃんとコントロールしてやがる。)

 荒居はバットを短く構える。裕ほどの俊足は無いけれど、足はある。
 三球目、真ん中から逃げて行くカーブをバント。打球は三塁側に転がった。荒居は走り抜ける。

 「裕!間に合う!!」

 三塁線ギリギリに転がして、自分でもいいバントだと思ったのにショートが処理しちまうのかよ。
 だが、足は止めない。

 裕は一塁の禄高へ向けて投げた。その時だった。

 ポキッ

 と言う軽い音。右手の小さな痛み。送球は自分でも驚くほどの緩いスピードだった。

 「セーフ!!」

 わっ、と東光の応援が沸いた。
 裕は自分の右手を見つめる。握って開いて。何の問題も無い。さっきのは聞き違いだろうか。ちっ、と小さく舌打ちをして皆に簡単に謝る。
 その違和感に裕はまだ気付いていなかった。

 ノーアウトランナー一塁。

 『バッター二番、松嶋君。背番号4』

 二番打者の松嶋と言うと、一打席目のショートライナーが思い出される。この打者の特性とすれば、打ち方がレベルスイングになりがちと言う所。地面と平行に打つから、強いライナーが飛ぶ。だけど、下手をすれば野手の正面に行く。
 失敗したのがさっきの一打席。

 一球目、インコースの直球。それを、松嶋はフルスイング。僅かに上を打った打球は地を這うような鋭い打球になった。
 ランナーはスタートする。ショート前に来た球を裕は追い掛ける。が、跳ねた。


 (…イレギュラー…!)

 打球は跳ね上がった。

 「サードカバー!!」

 爾志の怒声にも近い声が響く。荒居は二塁を蹴る。だが。
 パンッ、と軽い音がした。打球はショート、裕のグローブの中。着地して座り込んだまま二塁の新へ向けて投げた。慌てて荒居は戻り、セーフ。

 「ナイスキャッチです、先輩!」

 那波が嬉しそうに言った。

 「先頭出したのは俺の責任だからね。」

 そう言って裕は立ち上がった。だが。
 カクン、と膝が抜けるような感覚がして再び座り込んだ。いや、尻餅をついた。

 「…何してんすか?」

 那波に手を引っ張られ立ち上がる。もう、膝が抜ける感覚は無い。
 何かがおかしい。だけど、それに気を取られている場合じゃなかった。



 『バッター三番、岸部君。背番号六番。』

 ノーアウトランナー一塁二塁。
 岸部は左打者。送りバントが成功するとは思えない。多分、打ち上げてくる。

 一球目、アウトからインハイに来るカーブ。
 ここは望み通り打ち上げてもらおう。詰まらせて併殺出来れば最高だ。

 だが、岸部は動かない。

 「ボーッ!」

 (…今のがボールかよ。)

 心の中で審判に舌打ちしながら俊に返球する。焦るのはお互い様だ。呑まれた方が負ける。一点差しかないのだから。

 (お前に頼んでもいいか、裕。)

 爾志はサインを送る。俊ではなく、ショートの裕に。
 岸部が打ち上げるとしたら思い切り犠牲フライだろう。試合を延長戦にはしたくない。

 (ショートにゴロを打たせる。ゲッツーに出来る一番安全な場所はショートだ。)

 ただ、今日の裕は不調のようだ。らしくもない凡ミスをしたり、何もないところで転んだりする。疲れているのかもしれない。足に来たのかも。でも、そんな甘い事言ってたら呑まれる。

 (お前は倒れちゃいけない。キャプテンなんだから。)

 裕は爾志からのサインを受け取ると笑った。

 (俺に掛かってる。ミスは敗北に繋がる。)

 唾を飲み下す。
 爾志が心配そうな顔をしていた。なんて情けないキャプテンなんだと思う。だから、もう誰にも心配なんて掛けさせない。

 (見極めろ。間違うな。気付かれるな。)

 「ボーッ!」

 やがて、カウントが増えてワンストライク、ボールツー。

 (次は入れてくると思うだろ。)

 次はちゃんと入ってる。スピードのあるゴロを打たせる。
 インローの直球。岸部は振り切った。打球は予定通りショートゴロ。裕が走る。ランナーもスタートした。

 (ここは通さないッ!)

 まず、三塁。ランナーはもう滑り込む。だけど、間に合わせる。

 「…ショートの肩なめんなよッ!」

 シュッと衣擦れの音がした。一直線に球は那波のグローブに飛び込む。滑り込む直前のランナーをタッチしてすぐに二塁へ送る。少しコースがずれたが新は難なく捕球。


 「アウトーッ!!」


 審判の声を聞くと、裕は膝に手を付いて大きく息を吐いた。

 (よかったぁ〜…。)

 ミスをこんなに恐れたのは久しぶりだった。一歩間違えば逆転なんて場面は今までに一杯あったけど、この試合では冷や汗が出るほどだった。

 「ツーアウトー!」

 俊が言った。それに気付かされて顔を上げる。俊がニヤリと笑った。
 これでツーアウトランナー一塁。危険は減った。だけど、次は四番。一発のある朝倉。


 『バッター四番、朝倉君。背番号2』


 最後の打者が朝倉。敬遠するのが一番の得策かも知れないけれど、ここで逃げる訳にはいかない。
 でも…。

 サインを送る爾志の手が止まった。敬遠するべきか、勝負か。
 誰も動けない。応援だけが賑やかで。


 「…バッチ来い!」

 禄高の声が響いた。
 それに戸惑いながら皆が続く。

 「打たしてけー!」
 「おー!来いよ!」
 「バッチ来ーい!!」

 (…空気だけで、伝わるもんだな。)

 なんだか、それが無性に誇らしくて裕は笑った。こいつ等は、この九人全員が揃って初めて一つの仲間なんだ。一人でも纏まらなかったら気付く。


 (…勝負は初球、一球のみ。)

 カウントを整えられたら焦っているこの状態でまともに打てるとは思えない。だから、一球目を叩き潰す。
 朝倉は構える。

 「なぁ。」

 爾志は顔を上げた。

 「お前等、帽子のツバの裏何て書いてある?」

 爾志は答えない。

 「俺らはさ…“挑戦”なんだよな。名門とか謳ってるのに呆れちまうだろ?でも、これはお前等に対する言葉なんだよな。」

 俺達は負けない。負ける訳にはいかないんだ。
 挑戦するのは、勝つ為。ただ、お前等に勝つ為に。

 「…俺らは、何にも書いてねぇよ。」

 爾志は言った。

 「何しろ、うちのキャプテンが今考え中だからね。」

 俺達は、ここに何も書かないまま終わらない。そして、書いた事を必ず現実のものとする。
 負けられないのは皆同じなんだ。



 最初で最後の球。
 朝倉最後の打席の最初の球。

 アウトハイの直球。



 ボール気味の直球だった。でも、身体の大きな朝倉には届く。
 その球のコースで朝倉はフルスイングした。



 キィン…。



 誰もが打球を見つめる。センター。大きい。これは絶対に切れない。
 祈るように誰もが見つめる。だけど、一足早く勝負の行方を知った者達がいた。



 「残念でした。」



 カシャンッ。
 打球はフェンスに直撃。それを、斎が同じようにフェンスに衝突しながら捕まえた。

 激しく壁にぶつかったが、斎は立ち上がってグローブの中の白球を高々と掲げた。



 「アウトー!!ゲームセット!!」



 わっ、と声が溢れ返った。






 整列。互いに向かい合う両校。東光学園には哀しみの涙が、阪野二高には歓喜の涙が。
 だけど、互いのキャプテンは表情を一切変えないで凛と前を向き佇む。

 「勝者、阪野二高。礼!」

 「ありがとうございました!!」



 「…蜂谷。」
 「如月。」

 裕が振り返ると、そこには如月がいた。まるで、散歩の途中で出会ったかのような自然さだった。
 最後の試合で負けた直後の顔ではない。

 「甲子園、勝ってこいよ。」
 「当たり前だろ。優勝以外は皆カスだ。」

 ニッ、と白い歯を見せて裕は笑った。

 「…そうだ。お前等のお陰でいい言葉見つけたよ。在り来たりだけど、これが一番しっくりくる。」

 帽子を脱いで、そのツバの裏を見せた。
 マジックで書いた四文字の漢字。誓いの言葉だった。

 “史上最高”

 「…一番だよ、やっぱり。」

 今なら、きっと神様だって味方する。俺達に敗北は有り得ないって。
 如月は苦笑した。

 「中学の…浅賀や笹森よりもか?」
 「それは比べられねぇよ。仲間は皆一番だ。」

 そんな当たり前の事に悩んでいた自分が情けない思えた。
 取捨選択なんてしないで、全部拾っていけばよかったんだ。

 「如月、ありがとう。」
 「いや、こっちこそ。ありがとう、蜂谷。」

 如月は、すぐに向こうを向いてしまった。帽子のツバを下げて歩いて行く。
 涙がポツリポツリと跡を作っていた。強がりでプライド高い如月らしく。

 最後の夏は、もう半分を終えていた。