14、正体


 三回戦当日は夏らしく暑くてよく晴れていた。
 アルプスは次第に埋まり、試合直前にはもう満席に近かった。

 試合前の練習を終え、裕はベンチに座った。
 万年地区予選止まり。そう呼ばれていた阪野第二高校は見る見る内に強くなり、甲子園常連高校と呼ばれる日もそう遠くないように思う。
 だからこそ、忘れてはならないのだろう。かつて阪野二高で起こっていた暗黒の時代を。
 年功序列制で身動きが取れずにいたかつての一、二年生。何時になっても終わりが見えない中で終止符を打ったのは今から三年前。裕達、今の三年が入学する一年前の事。当時の二年生で後に主将を務めた尾崎晃平が年功序列制を撤廃し、実力至上制へと変えた。
 苦汁を嘗め続けて来たのだから、それをやり返してやりたいと思うのが人間なのに尾崎はそうしなかった。
 結局、彼等は二年間の空白のせいで地区予選を最後に引退して行った。彼等がこの甲子園に立つ事は無かった。
 次の時代を受け継いだのは裕達の一つ上の先輩。赤星啓輔前主将だった。彼も尾崎の志をしっかりと受け継ぎ、実力至上と言うものを崩す事は無かった。
 そんな彼等は一年前の今頃、甲子園に出場したがコールド負けと言う哀しい結果を残して去った。


 だから、俺達は勝たなければならないのだと思う。


 裕はアルプスを見渡した。
 恐らく、この席の何処かに尾崎先輩も赤星先輩も。それ以外の先輩も来ている。
 彼等は、悔しい思いをし続けて終わった。
 それでも、後輩の裕達には恨み言一つ言わなかった。


 (春、あの人達は準決に勝ち進んだ俺達に誰よりも嬉しそうに笑って拍手をくれた。)


 あんなに優しい人を他に知らない。あんなに凄い人を他に知らない。
 先輩の有りがたさを、知らなかった。

 「裕、試合が始まる。」

 俊がそう言った直後に試合開始のサイレンが鳴った。
 その後を追うように試合のコール。

 『只今より、慶徳学院と阪野二高の試合を始めます。』

 裕は大きく息を吸い込む。
 肺が空気で満たされて行くのが解った。

 「行くぞッ!!」
 「「おおッ!!」」

 裕達は走り出した。
 グラウンドの中心に向かって。正面からは慶徳学園が走って来る。その先頭にいるのは武藤。


 「これから慶徳学院と阪野二高の試合を開始します!両校礼!!」
 「お願いします!!」


 帽子を取って顔を上げ、振り返ってベンチに戻ろうとしたその刹那に武藤の目を見た気がした。
 その、煌煌とした眼光を。
 それでも、裕は振り返らない。仲間と同じくベンチに向かって走った。


 先攻は慶徳学院。


 「しまってこーッ!」


 グラウンドの彼方此方から声が飛び交う。
 バントの構えをする慶徳の一番打者に前進守備。

 「ストラーイクッ!」

 一球目スコアのストライクのランプが一つ点灯した。
 爾志が俊に返球する時に何気無く慶徳のベンチが目に入った。

 (…武藤…。)

 やはり、ベンチから身を乗り出して武藤はいた。バッターへ声援を送っている。
 だが、それだけじゃなかった。まるで、裕を睨んでいるみたいに。

 (中学三年の最後の大会の逆転負け…。あれを恨んでいるのか…?)

 その出来事の為に、ただそれだけの為に武藤はこの高校三年間野球をやって来たのだろうか。
 そう考えた時、裕の胸に漠然とした不安が込み上げた。

 (武藤にとって…この試合は一体どんな意味を持つんだろう…?)

 審判のストライクの声が聞こえた。



 ノイズの混ざった聞き辛いラジオ。父親から借りた古いラジオはおんぼろと呼ぶに相応しかった。
 浅賀は沸き返る応援の中で試合を見つめながら耳を澄ます。聞き慣れた中年解説者の声が聞こえて来た。

 『このバッターは非常にバントが巧く……。』

 ようやく聞こえて来たのはいいが、大して興味のある情報で無かった事に浅賀は舌打ちした。

 (そんなんはどうでもええねん。)

 もう一度耳を澄ます。
 試合はもちろん進んでいる。慶徳は一番打者が三振、今は二番打者。

 『先ほど入った情報によると、慶徳のキャプテンと阪野二高のキャプテンは因縁らしいですよ。』

 ポロ、と言った言葉に浅賀は食い付く。

 (因縁?何の事や。)

 『因縁…と言いますと?』
 『今から三年前の中学生の全国大会で彼らは決勝で対決しているんですよ。』
 『三年前と言いますと、中学三年生ですか。』
 『はい。歴史に残る大逆転の試合だったそうです。』

 (…あの試合…。)

 ふ、と面影が過った。
 ベンチから見た、マウンド上の敵のピッチャー。左のサイドスローを。

 (あれが…アイツなんか!?)

 帽子を被っていてよく解らないが、確かに似ている。
 あの時のピッチャーが、そこにいる。

 『勝敗は阪野二高のキャプテン…蜂谷君の勝利だったそうです。二死満塁でのホームランで…。』
 『それは凄いですね!』

 わいわいと試合そっちのけで盛り上がる解説者の声を遠くに浅賀は慶徳のベンチを見つめていた。
 凡フライでツーアウト。あと一人でチェンジになる。そうすれば、あの男がマウンドに上がる。

 『更に、』

 解説者の力の入った声で浅賀は現実に戻った。

 『蜂谷君の母校、兵庫県の大崎中学はあの浅賀君と笹森君の母校だそうです。』
 『え?では…彼等はチームメイトと言う事ですか?』
 『そうです。当時のキャプテン、そして四番は蜂谷君だったそうです。』

 その瞬間、アルプスからの目がショートに向いた気がした。
 ラジオを聞いているのは浅賀だけじゃない。浅賀はニィ、と笑う。

 『四番…。もしかして…浅賀君の言っている最強打者と言うのは…。』

 (…予想の通りや。)

 浅賀は声を殺して笑う。

 (誰も、夢にも思わへんかったやろ。あんな小さいヤツが最強やなんて。)

 試合は丁度スリーアウトチェンジとなってグラウンドに散っていた阪野二高の選手がベンチへと駆け足で戻って行く。ショートから飛び出して行く小さな背中を見ながら浅賀は笑った。



 『一回裏、阪野二高の攻撃。バッター一番、蜂谷君。背番号6』

 裕はバッターボックスに立った。
 今だ嘗て無い程静かに。そんな様子をベンチから見ていた俊は小さく舌打ちした。

 (あいつ…余計な事考えてんじゃねぇだろうな。)

 試合に身が入っていないのか、と嫌な汗が流れた。
 そんな状態で勝てる相手じゃない事くらい嫌と言うほど、誰よりも解ってる筈なのに。
 何でこんなに不安なのかと言えば、裕の目がやけに虚ろで、表情が無いから。



 「来たな、桜庭。」
 「…今は蜂谷だ。」

 裕は顔を上げた。

 「武藤…。お前、俺を倒す為に野球やって来たのか?」
 「そうだよ。」
 「何で…?あの試合の結果を、未だに?」
 「……お前は、本当に馬鹿だな。」

 武藤の鋭い眼光が突き刺さった。

 「お前には解んねぇよ、永遠に。お前にはな。」

 その目が何処か哀しくて、裕は息を詰まらせた。
 武藤は構える。投げ方はサイドスロー。癖は無い。左のサイドは、左打者の裕の目前を滑り逃げて行く。
 その逃げて行く球に咄嗟に反応してバットが追う。だが、掠りもしない。

 「ストラーイクッ!」

 審判のコールが聞こえた後も、裕は数秒間動けなかった。
 140km台の速球。慣れない左のサイドスロー。今のはボールだった。

 「…一つめ。」

 ポツリと武藤は呟いた。

 (…速ぇな。)

 中学の時と同じ投手とは思えない。あの頃は今よりもスリークウォーターに近かったし、癖があった。確かにコントロールも良かったし、直球も速かったけど。

 ふ、と裕は意識を戻す。武藤のニ投目が来るから。
 武藤は俊や如月、浅賀ほど背は無い。なのに、それ以上の威圧感がある。腕を後ろに引いた瞬間に、一緒に持って行かれそうな雰囲気がある。

 (呑まれるな!)

 裕は自分の中で叫んだ。
 ギリギリと歯を食い縛る。ここで負けない。

 裕はバットを振り切った。
 球は濁った音を立ててコロコロと転がった。ファウル。

 一斉に応援が大きくなった。遠くから名前を呼ぶ声が聞こえる。

 「……ッ!」

 こんなにタイミングが取り難いとは思わなかった。
 裕は足場を均した。

 「…なぁ、蜂谷。」

 陽炎の昇るマウンドで武藤は言った。
 裕は構えもせずにそちらを見る。

 「お前、下手になったんじゃねぇの?」

 ニヤリと武藤が笑う。

 「だから、四番もサードも下ろされてんだろ?一番なんかやって。」

 その言葉が頭に来て裕は眉を顰めた。

 「余計なお世話だよ。」

 裕は構えた。
 タイミングを取り易くする為に短く持つ方がいいだろうけど、それでは届かない。ただでさえリーチの短い裕だから、外角に逃げて行くこの球を打つのは難しい。
 この球の嫌なところは、これが武藤のストレートだと言う事。

 武藤が腕を引いた。三投目が来る。次は打てる。もう二球も見たストレートなのだから、十分目で追える。
 裕はバットを振り切った。

 「ボールッ!」
 「…!」

 球の納まったミットを見つめる。場所は外角低め。

 (変化した…?)

 ただの横滑りじゃなかった。いや、滑ったと言うよりも。

 「折れた…?」

 武藤がマウンドで笑った。

 「それが、俺のスライダーだよ。」
 「これが?」

 折れるように滑って行った。

 「…俺さ、お前のその“目”には一応一目置いてんだ。この試合中に、お前なら間違い無く追えるだろうよ。」

 武藤は続けた。

 「でも、お前に打てるのか?チビのお前には届かないんじゃないのか?」

 負け惜しみのように裕は笑った。
 反論出来ないところが自分ながら情けない。

 「これで終わりだ。」

 武藤は構えた。
 すい込まれそうな威圧感、慣れないフォーム、苦手なコース。

 (…これが…武藤…!)

 パァンッ
 気持ちのいい音を響かせて球はミットに納まった。

 「ストラーイクッ!!」