15、仲間の意味



――お前には解んねぇよ、永遠に。お前にはな。

 裕は俯きながらベンチへと戻った。途中すれ違った二番打者の新が声を掛けてくれたけれど、裕は顔を上げる事は出来なかった。
 ただ、ひたすらに武藤の言葉が脳の中を廻る。

 (武藤は何の為に俺を追い続けたんだ…?)

 この試合は、一体武藤にとってどんな意味を持つのだろう。
 今の裕には、幾ら考えても答えを導き出す事は出来なかった。



 「武藤の球はどうだった?」

 ひょい、と顔を出して禄高が訪ねた。

 「…まぁまぁだったよ。」
 「今のはスライダーだよな?俊とは対照的なスライダーだったみたいだけど。」
 「よく見てんじゃん。」

 裕は苦笑する。
 俊の決め球は高速スライダー。直球並のスピードを出したスライダーで変化の幅は少ないが直球だと思って振れば空振ってしまう。
 武藤の決め球もまたスライダー。確かにスピードは俊ほど無いけれど、その幅は凄まじい。折れるように逃げて行くあのスライダーを楽に打てる打者がいるのだろうか。

 「…ま、俺は打つけどね。爾志、回って来るから打てよ。」

 禄高はバットを肩に担いでネクストバッターズサークルに入った。その後姿を一目見て裕はベンチの端に座り込む。さっきの武藤の悲しそうな表情が離れない。

 (中学最後のあの試合は、武藤から何を奪ったんだろう。)

 裕は俯いた。グラウンドでは新がカウントを整えられていた。次は決め球が来る。スライダーか、シンカーか。
 投げられたのはスライダーだった。裕の打席と変わらない、寸分の狂いも無いように折れて逃げる球。
 新はそのスライダーを空振りアウトとなった。

 (俺のあのホームランは、武藤に何を与えたんだろう。)

 「おい。」

 裕が顔を上げると、そこには俊が立っていた。身体の大きな俊が日の光を遮っているものだから真っ暗に見えた。

 「何、落ちてんだよ。」
 「落ちてねぇよ。」
 「じゃあ、何考えてんだ?相手のピッチャーの事か?」

 俊の言う事は図星で、裕は口をへの字に曲げた。

 「本当に、頼むからそんなくだらない事で落ちてんなよ。お前が悩む必要は無い。勝った事を後悔すんな。」
 「…俺は後悔なんてしないよ。強いヤツがいるから、弱いヤツがいる。…当然だよな。」

 俊は驚いたように目を丸くする。

 「それは違う。」

 ニッ、と俊は笑う。
 きょとんとして裕は俊の顔をまじまじと見つめた。

 「勝ったヤツが強いんだ。…弱いとか強いとか、そんなのが始めから決まってる訳が無いだろ。」

 その俊の言葉に裕は口を開いたが、グラウンドでは丁度スリーアウトになっていた。結局三者凡退で爾志には回らなかった。
 禄高が若干落ち込んでいたので、あえて誰も責める事はしなかったが。

 「…さ、行くぞ。」
 「ああ。」

 裕はショートの定位置へと、俊はマウンドへと向かう。
 逆にマウンドから降りた武藤。すれ違い様に見せた張り詰めたような表情に裕は気付かなかった。



 二回表、慶徳学院の攻撃。両校互いに点は無い。
 打者は四番の武藤。

 甲子園では特に、投手が四番と言うのは少ない。
 何故なら夏の地獄のような炎天下の中で投手は投げなければならないから。誰よりも体力が必要になるポジションだから、どのチームも投手に四番はあえて与えない。
 投げる事に集中させる為に。

 阪野二高もその一つ。エース、俊の打順は七番。
 だから、古豪慶徳学院の四番エースは特に際立った。


 『バッター四番、武藤君。背番号1』

 アナウンスに呼ばれ武藤はバッターボックスに入った。
 慶徳学院側のアルプスからは『武藤』の名前が飛び交う。


 バッターボックスに立った武藤。武藤は打者としてだが、投手同士が初めて対決する。
 そんなに身長は無いからホームランがガンガン打てるような四番ではないけれども、流石に武藤には四番の貫禄のようなものがあった。

 (…武藤はそんなに大きくない。だけど、ミートが巧い打者だ。)

 どんなに守備を固めても、武藤の打球はその隙間を縫うようにして内野を越えて行く。それも、いとも簡単に。
 そんな試合をビデオで見て研究して来た爾志は俊にサインを送った。

 一方、武藤は打席に立ちショートの裕の方をまず見た。対決すべき相手は投手の俊だと言うのに。
 裕は武藤の視線に気付かずに少しの間目の前の地面を見つめていた。

――勝ったヤツが強いんだ。

 少し前の俊の言葉が蘇る。
 それが真理ならば、あの試合で勝利した裕は強い。

 (俺達は勝つ。相手が誰であっても。)

 選んで来た道の正しさならば結果が教えてくれる。
 裕は打球に備え身構えた。


 ツーストライク、ボールツー。
 二個ずつ灯ったスコアボードのランプ。武藤は足場を均した。

 (ツーストライクか…。)

 ふと、朝を思い出した。
 後輩達、同輩達は皆同じ事を言った。今日は一段と気合が入っていると。
 それも当然。この試合は、蜂谷裕との試合は武藤が三年間求め続けた試合なのだから。

 (絶対に負けない。…やっと、やっと訪れた試合なんだ。一つだってチャンスは見逃しちゃなんねぇ。)

 武藤は構える。正面の投手、俊が振り被っていた。
 ただでさえ高い身長に、マウンド上からのオーバースロー投法。ピッチャーになる為に生まれて来たのか?と問いたくなる。
 負けたくない。

 武藤はバットを振り切った。
 打球はショート前に鋭く転がった。それを確認すると同時に武藤はバッターボックスを飛び出した。

 裕は鋭く転がり、跳ね出しそうな打球を軽く捕球すると軽快なステップを踏んで一塁へと送った。一塁の禄高はまるで練習中であるかのように自然に捕球した。

 「アウトッ!」

 一塁を走り抜けた武藤は一度膝に手を付くと小走りでベンチへと戻って行く。
 その様子を裕は目の端で一瞬だけ見て、すぐにバッターボックスへと目を移す。意識はすでに次の打者へと移動していた。

 その回、慶徳は得点ならず。
 二回裏の阪野二高の攻撃は、四番の爾志が三振するも五番の那波がレフト前ヒットで出塁し、ワンナウトランナー一塁となった。だが、後が続かずすぐにチェンジになる。

 迎えた三回。二回裏でランナーが出たのを皮切りにちらほらとランナーが出始めた。
 それは阪野二高も同じではあったが、互いの堅実な守備により得点は無かった。



 そして迎えた五回。得点は無く、攻撃は慶徳。ランナーは一番からと言うチャンスだった。
 そのチャンスを、慶徳はものにした。

 「…ライトッ!」

 まず、一番打者がライト前ヒットで一塁へ。
 二番打者がバッターボックスへと入る。

 (バント…だろうな。)

 裕は構える。監督からもバント警戒の指示が出た。
 その予想通り二番打者は送りバントで綺麗に三塁線ギリギリへと転がした。那波は想定の範囲として一塁へと送る。ここでアウトを一つ取ったものの、ランナーは二塁。

 バッターは三番。ここからクリンナップに入る。慶徳は打撃中心のチームではないにせよ、ここまで勝ち進んで来たのだからそこらの学校に比べれば遥かに違う。
 ここまでで、俊は失点をゼロに抑えて来た。出塁は許しても得点は許さなかった。それは爾志の配球の役割も大きいが、殆どはその配球通りに投げ、球威も落とさずにここまで来た俊の成果だった。

 裕は俊を見る。俊はこのグラウンドにる誰よりも汗をかいていた。それは当然なのだが、いつもの俊を知っている裕から見れば異常だった。
 酷く疲れているのが手に取るように解る。裕だけじゃない。爾志だって、監督だって気付いている筈。

 (踏ん張れ、俊。)

 俊の疲れに気付いてもどうする事も出来ない自分がもどかしかった。俊に代わって投げる事も出来ないし、ここで声を掛ければプライドが傷付くだろう。

 裕の心配は杞憂ではなかった。

 悪い予感ほど当たるもので、三番打者は力一杯スイングした。打球は驚くほど伸びて行く。センターの斎が必死に追う。
 打球はフェンスに直撃したが斎は落下させなかった。その超反射神経に驚いてる暇など無い。すでに二塁ランナーはスタートしていた。
 センターから矢のような送球。その勢いに三塁ランナーは思わず三塁で足を止めた。しかし。

 斎の送球は那波のグローブから転がり落ちた。

 てんてん、と零れた球が転がる。三塁ランナーはそれを見逃さずに走り出した。
 裕がカバーに入り、本塁へ送る。
 本塁に送った頃には、ランナーは滑り込んでいた。



 「セーフッ!」


 途端に大歓声。空気が揺れるのがよく解った。
 センターの斎とショートの裕は呆然としていて、那波はただ絶望の表情を隠し切れなかった。

 「…先取、点…。」

 わっ、と慶徳のベンチが賑やかになる。次の打者である武藤も混ざって。
 阪野二高がこの大会で許した初めての先取点だった。

 「…顔を上げろ、那波。まだ試合は続いてる。」

 那波はゆっくりと裕を見た。しかし、その時裕はもう自分のポジションに移動して行く最中だったので、表情はおろか顔さえも見る事は出来なかった。ただ、裕の小さな背中を見つめていた。

 (…何で、こんな時に…。)

 那波は元々天才としてこの野球部に来た。今でも那波は天才で一年の時からクリンナップに選ばれるなど活躍を見せたし守備も堅実。故にホットゾーンの三塁を任されている。
 そんな那波だからこそ、自分のこのエラーが許せなかった。失点に繋がってしまったこのエラー。親友である斎のファインプレーが抑えた筈なのに。

 皆がどっと疲れた表情をしているような気がして、那波は皆の顔をちゃんと見る事が出来なかった。



 一方、慶徳ベンチ。

 「ナイス犠牲フライ!」
 「ナイスラン!」

 わいわいと鬼の首を取ったように喜ぶ慶徳ナイン。そんな中で武藤はチャンスを見つけたようにグラウンドを見て不敵に笑った。

 「皆、狙うのは投手。それから、三塁だ。」

 たかが、と言う言い方をしていいものかは解らないが、一回のエラーで三塁手は酷く落ち込んでいるのが手に取るように解る。ここで狙われれば間違い無くまたエラーをする。そうすればあの三塁手は立ち直れない。

 (…そうなったら、もう終わりだ。)

 三塁手はクリンナップの一人。ここで崩せば当然打撃にも影響が出る。クリンナップの影響はチーム全体に響く。さらに、投手である市河はポーカーフェイスで誤魔化しているが誰よりも疲れている。あの大量の汗が何よりの証拠。

 「さあ、終わらせようぜ!」
 「おお!」



 『バッター四番、武藤君。背番号1』

 バッターボックスに武藤。俊と対照的に余裕で笑っている。
 
 (武藤か…。那波のエラーでチームの指揮が下がってる。この場面で武藤はキツイな。)

 裕は構えた。

 古豪慶徳は確実な野球をする。打撃に一発屋はいないが、コツコツと確実に走者を進め点を取る。そんな慶徳と戦う時にはもっとも恐れなければならない事があった。

 (思い出すな、あの時を。)

 裕は中学最後のあの公式戦を思い出す。流石に全てを覚えているなんて事は出来ないが、武藤の学校の恐ろしさなら覚えていた。確か、あの時も武藤の学校は古豪だった。
 こんなコツコツとしたプレイでミスは殆ど無い。隙あらばと言ったような攻撃。それは、投手だった浅賀も気付いていたし捕手の笹森も気付いていた。だから、投球も酷く細かくなってしまった。誰もが息吐く間も無い試合で疲弊していた。
 誰もかもが疲れていた。浅賀は神経も体力もすり減らしていたし、点を取って余裕を作ってやろうとも四番は裕で一発は無い。一発があったのは笹森だったけれど、そう簡単に打たせてくれる相手中学ではなかった。
 試合は膠着していたが、突然動き出した。
 投手の浅賀が崩れてしまったのだ。それも突然。連続の四球で押し出しで点を取られ、死球まで出した。あのコントロール抜群の投手が。

 (あれは、俺のミスだった。キャプテンとしての。)

 一番疲れているのは誰なのか。
 そんな簡単な事に気付かなかった。浅賀が崩れるまで気付かずにいた裕が引き起こした事態だった。

 (同じ事は繰り返さない。)

 裕はバッターの方へ向く。打者である武藤と目が合った。
 こっち側に打って来るだろうと言う予感。相変わらずいやらしい攻撃だ、と裕が心の中で呟いた瞬間に打球は予想通りに来た。
 打球は三塁の上。だが、高い。

 那波のグローブを掠って勢いは衰えたものの打球はレフト前に落ちた。
 ツーアウトだがランナー一塁でクリンナップは続いている。

 裕はその状況が悪いとは思わずに次の打者に備えた。だが、傍の那波の様子がおかしい事に気付く。疲れ、暑さからの汗ではなく、冷や汗をかいているように思えた。

 「今のはお前のミスじゃない。気にするなよ?」
 「…すんません。」

 今までこんな状況が無かったから解らなかったが、実は那波は打たれ弱いように思う。自分に厳しいヤツだからいつまでもエラーをした自分を戒めている。
 本当なら、ここで交代させたいところだけども那波に代わるような選手はいない。それに、ここで選手交代してしまったら那波は二度と立ち上がれない気がする。

 「…那波、誰も責めてない。だから、顔上げろ。今は自分に出来る最大限の事をしろ。」
 「…はい。」

 那波は顔を上げた。

 (…駄目だな。)

 裕は心の中で呟いた。
 那波は表には出さないけれども、まだ自分を責めている。表情が固い。このまま、那波の不調が皆に伝わらないだろうかと言う事が裕には不安でならなかった。

 その後、俊は五番を三振で抑えた。
 そして、阪野二高の攻撃を迎える。打者は二番からだった。



 阪野二高のベンチは暗い雰囲気が漂う。
 こんな時にベンチを明るくするのは大抵キャプテンである裕の仕事だったが、今裕は監督と爾志と慶徳について討議している真最中だった。
 居た堪れなくて禄高はベンチから身を乗り出し応援する。斎や滝もそれに続くが打席に立つ新は苦戦を強いられていた。

 「…慶徳は随分いやらしい攻撃をするね。」

 右京は言った。

 「あれは多分慶徳の攻撃って言うよりも武藤の攻撃ですよ。」
 「ああ、蜂谷君は彼と面識があるんだっけ。」
 「中学の時に一度…。」
 「…やっぱり、中学の時の彼と今の彼は違う?」
 「……。」

 右京の言いたい事は解る。今日、裕は殆ど打てていない。
 裕は俯いた。

 「まだ、シンカーを投げて無いね。」
 「ああ…。シンカーは、投げないと思いますよ。」

 右京は問う。裕はさも当然のように答えた。

 「アイツにとってこの試合でシンカーを投げると言うのは、古傷を抉るようなものなんですよ。」

 武藤はこの試合、絶対負けたくない。そんな試合で、前回の敗因を持ち出す訳が無い。あのプライドの高い男が。
 例え投げたとしても、裕には絶対に投げない。

 「ふうん。…この試合、全ての鍵は君が握っている。」

 右京は真っ直ぐに裕を見て言った。裕は、それを黙って頷いた。



 「那波。」

 ベンチの端で独り俯く那波の隣に裕は座った。ベンチの暗い雰囲気に気付いていない訳ではなかった。

 「…すいませんでした…。」
 「何言ってんだ?」
 「俺のエラーのせいで…。」
 「馬鹿言うんじゃねぇよ。」

 裕は笑った。
 その遣り取りに禄高はネクストバッターズサークルから耳をこっそりと傾けていた。

 「お前は自分を責め過ぎなんだよ。ミスくらい誰だってする。俺だって。ま、実際東光戦でやったしな。」

 裕は苦笑する。

 「…誰も、俺の事責めないんすよ。」
 「は?」
 「誰も俺の事を責めないんです。だから、辛くなるんです。何で…!」
 「責める筈ねぇじゃん。」

 平然と裕は答えた。

 「お前はすぐに自分を責めるから、俺達は責めない。お前が自分を責めて立ち上がれなくなる時に、引っ張り起こすのが役目だろうが。それが、仲間の意味なんだよ。」
 「…でも!俺のせいで…先取点取られたんですよ?」
 「気にすんな。俺がカバーしてやる。」

 裕は笑う。

 「もうお前は自分を責めるな。勝つから。…俺が絶対に打つから。」

 裕はキッ、とグラウンドの方を見た。
 グラウンドで阪野二高の攻撃はまだ続いていた。