16、「俺が打つから。」 五回裏の阪野二高の攻撃は、一時は満塁になるも続かず無得点のままスリーアウトでチェンジとなった。次の打者は八番からで最低でも一番の裕まで回る。 得点は取れずとも、チャンスは多々ある。阪野二高が無得点なのも、時間の問題だった。 六回表、慶徳の攻撃。 ピッチャーである俊は疲れていた。この大会の試合で一番疲れていた。それは春の明石商業戦よりも。 どうにも、慶徳のコツコツとした守備の隙を突く攻撃は俊には相性が悪かった。それ故に一球一球神経を張り詰めて丁寧にコースを狙った。 打ち取ると言うよりは打たせて取る。阪野二高の守備及び配球はそうなりつつあった。俊もそれでいいと思っていたが、違った。俊は間違い無く前者。剛速球を持つ数少ない逸材である。 俊のポーカーフェイスは野球において長所だが、それが裏目に出た。 「……ッ。」 袖で汗を拭う。拭いても拭いても流れ落ちる。 炎天下なのだから自然な動作で誰一人異変に気付かない。俊も気付かせまいとしていたけれど。 普段、俊の異変に気付くのはキャッチャーの爾志。もしくは、従兄弟で四六時中顔を合わせている裕。だが、爾志は慶徳の打線攻略に手一杯。裕は三塁手那波の不調で一杯一杯だった。 (あと少しでいいんだ。頼む…。) 俊は球を握り締めた。 あと少し乗り切れば、必ず仲間は点を取ってくれる。確証は無いけれど、確信していた。 (あと少しだけ…もってくれ…!) だが、野球の神様はその小さな願いさえも聞いてはくれなかった。 六回表、慶徳の打線は爆発した。 嘗て無い程に疲弊した俊に強烈な打球。更に、三塁手の那波。阪野二高は一気に五点の失点を許す事になった。 「…俊!」 マウンドに駆け寄るナイン。裕が俊の異変に気付いた時にはもう遅かった。 「…何、だよ。」 酷い汗の量に裕は息を呑んだ。息もすっかり上がっている。何で、こんな状態になるまで気付かなかったのだろう。 「…抑えようぜ!」 禄高が声を上げた。 「俺らが抑えるから…どんどん打たせてけよ!」 「あ、ああ。そうだよ!」 皆が団結しようとする中で裕の脳内にはあの日の映像が巡っていた。 崩れた投手――、浅賀恭輔。 裕の目の前に映っていたのは目の前の俊では無く、かつてのチームメイトである浅賀だった。 (…あの日と、同じだ…。) また、繰り返している。同じ間違いは繰り返さないと誓った矢先に。俊に関してはもう二度目だ。 自分の不甲斐なさを嘆きそうになるが、今はそんな場合ではなかった。 「俊。…俺の三年前の試合、武藤との試合だ。あの試合もこうやって…投手が崩れた。」 裕は噛み締めるように言う。 「俺は今でもあの試合を思い出すし、よく覚えてる。…キャプテンとして不甲斐ない試合だったけど、初めて一番と言う栄光を掴んだ日だ。」 俊は何も言わない。言えない。裕が何を言いたいのか解らない。 崩れてしまった俊を責めているのか、自身の不甲斐なさを嘆いているのか、過去の栄光にしがみ付いているのか。だが、裕の言いたい事がそのどれでもないと気付いた時、自ずと答えは出て来た。 「だけど、思い出は終わりだ。過去には決別しよう。今年、栄光は阪野二高に輝く。」 裕は笑った。 「ここはお前の舞台だ。投げ切れ。」 「…当たり前だ…!」 何故、こんな小さな選手が全国一の四番だったのか。 何故、こんな頼りなさげな選手が主将なのか。 その理由を恐らく俊はとっくの昔から知っていた。 「俺が打つから。」 「…は?」 「必ず打つ。俺はキャプテンだからな。」 何て朧げな自信だろう。確証も何も無い。ただ、キャプテンだからと言う理由だけで。 俊は笑ってしまった。馬鹿らしくて。 だけど、心の何処かで肩の力の抜けた自分がいた。 「…ああ、任せた…。」 その後、俊は何とか六回表を抑え切った。しかし、その時にはすでに点差は六点にまで開いていた。 六回表、阪野二高の攻撃。打者は八番。 (…六点か。) 武藤は思った。 普段なら六点で勝利をほぼ確信して心の中でガッツポーズを取っている頃だ。他のチームメイトのように。しかし、武藤だけはまるで点差などないかのように警戒していた。 (…八番なら一番の蜂谷まで回る。あいつがこのまま黙ってる訳無い。) 武藤は無言のまま投げる。判定はストライクだった。 「おい、裕。」 禄高は詰め寄る。その真剣な表情など何処吹く風で裕は呆けた顔を上げた。 「何?」 「お前…本当に打てるのか?」 「当たり前じゃん。」 「…じゃ、打ったとして点数取れるのか?」 「ああ。」 「何点?」 禄高はしつこく食い下がる。裕はそんな禄高を見て小さく笑った。 余程心配なのか。それとも…。 「…出たランナーの数だけ取ってやる。」 「ホームランかよ…。」 禄高は呆れたように溜息を吐いた。 「おい、裕。」 「何だ?」 「キャプテンだからって…。別に打てなくてもいいんだぞ。」 「は?」 「お前が打てなきゃ俺が打つから。副キャプテンなんだ。…お前一人で背負うな、分けろ。」 禄高は言うだけ言っていなくなってしまった。 グラウンドでは審判のストライクと言う声が響いていた。 ワンナウトランナー無し。打者は九番。 九番打者である滝は緊張していた。こんな場面だがらしくない。 (俺の役目は出塁する事。…そして、最高の場面で蜂谷先輩に繋ぐ事。) 中学の頃から打撃には自信があった。緊張もしない性格だったので、あの頃の自分が今の自分を見れば鼻で笑うかもしれない。 中学と高校の違い。それは、勝つ事への執念。 中学以上に誰もが必死に勝とうとしている。もちろん、例外はあるけれど。 滝は構えた。 一球目は様子見で見送るがストライク。二球目は外角低めの直球を空打った。そして、三球目のアウトコースを見送りボール。 カウントは2−1で整った。スライダーが来る。 (スライダー…。これは、俺が一番打てなきゃならない球だ。) 何故なら、滝はキャッチャーだから。 サイドスロー投手ならば、阪野二高にもいる。それは滝とバッテリーを組むピッチャー久栄。 (左のサイドスロー。ようは、隆輔と逆のスライダーだろ。) 滝は必死に鏡をイメージした。二人とも驚くほど綺麗なクセの無いフォーム。ただ、左右を逆にしただけのような。滝は振り切った。 打球はまっすぐにニ遊間を抜けた。そして、落下を確認しないまま滝は走り抜けた。一塁を踏んだが送球はまだ無く、そのまま滝は二塁に滑り込んだ。 一塁で終わると思った為か返球は遅く、審判はセーフを告げた。 「よーし!!」 「続けぇ!!」 一気に沸き立つ阪野二高の応援席。滝はバッターボックスに立つ裕へとガッツポーズを送った。 (二塁か…。) 裕はフルスイングした。バットに振り回されそうになったが、裕は真っ直ぐ立った。 (フルスイングなんて、久しぶりだな。) 出塁するのが仕事だった一番打者。以来、まともにフルスイングした覚えが無い。今までは一発よりも確実性だった。それは今も変わらないが。 ――…ああ、任せた…。 俊の掠れた声が蘇る。 俊が崩れるまで放っておいたなんて、駄目なキャプテンだ。 それでも、仲間は変わらずキャプテンと呼んでくれるし、俊も任せたと言ってくれた。 (ここで打てなきゃただの馬鹿だぜ。) 裕は武藤を見た。 武藤は変化球が決め球。注意するべきはスライダー。 まず、一球目のアウトローをファウル。打球は後ろへ。 「…あ。」 ベンチで新は呟いた。 応援が激しくなり、ほとんど全員がベンチから身を乗り出している中で新は驚いたようにキャッチャーを見た。 一球目のファウル。二球目は牽制だった。 「新、どうした?」 禄高が顔を上げる。 「すげー事に気付いた。」 「すげー事って?」 新は禄高の声を無視して監督のところまで走った。 「監督!サインを出して下さい!」 「サイン?何の?」 「盗塁です!」 応援中の仲間が振り返る。 「見てて下さい。武藤がサインを受け取って頷くところ。」 右京を含めた阪野二高ナインは武藤を見る。丁度、サインを受け取って頷いたところだった。 「あれがどうしたの?」 「次は牽制です。」 見ると、確かに次の投球は牽制。滝が二塁に戻る。 判定はセーフだが、元々アウトを取ろうと思って投げた球では無いだろう。 「次は普通に投げる。」 その予言は当たった。 アウトハイの球。裕は手を出さなかった。ボールカウントが点灯する。 「どうして…。」 「武藤の頷き方。…普通に投げる時は普通なんですけど、牽制の時は顎引いて頷くんですよ。」 「…その確率は?」 「今のトコ百パーセントです。あ、普通に投げる。」 スライダー。左打者の裕からは逃げて行く球だ。 それを微かに掠るがストライク。 (…何で、打てないんだ。) 裕の最も得意な球は、変化球だった。 非力だったが故に自然と身についた打撃だった。これまで、変化球が決め球だと言う投手はことごとく打ち崩した来た。 (変化球は俺にとって一番打てなきゃなんねぇ球だ。それしか取り柄が無いんだから。) 裕は構えた。カウントは1−2である。 その時、右京がサインを出した。一塁コーチャーへのサイン。 武藤が投げる刹那、コーチャーは叫んだ。 “GO!!”と。 驚いたのは武藤だけでなく裕も。 突然の事に武藤の投げた球は軽く上がった。その間に滝は三塁に滑り込んだ。 「セーフ!」 (…盗塁…。) 武藤は白球を握り締める。予想外の事だった。 阪野二高は盗塁が多い。しかし、その実態は裕の盗塁だった。通常以上にどんな場面でも裕はチャンスと見るや否やすぐに飛び出す。 だから、裕以外は盗塁しないと思ったのだ。 (チクショウ…。) それに今のタイミングは、初めから何が投げられるのか解っていたようだった。 投球にクセなんて無いつもりだったし、これまで十分通用して来たから尚更ショックだった。 滝の盗塁が成功して、裕は目を丸くした。 (ランナー三塁。) チャンス。 裕はバットを握り締めた。 |