17、左右のサイドスロー


 阪野二高に訪れた得点のチャンス。ワンナウトランナー三塁。バッターは一番。カウントは1−3になった。
 裕は構える。

 (…こんなチャンスはもう無いかも知れない。)

 勝負時。ここで点を取れれば阪野二高は波に乗れる気がする。それが例え一点であっても。
 次から阪野二高は投手が代わる。まだ試合経験の少ない一年、久栄隆輔に。

 (カウント1−3の状況で、相手は必ず入れようとする。俺を歩かせる事は無い。)

 来るのは限られて来る。
 ストライクを取れる自信のある変化球、スライダー。ここで直球に来るほど武藤は単純ではないだろう。

 (スライダー!)

 ここまで、裕が全て空打ってきた因縁の球だ。
 自意識過剰のつもりは無いけれど、あのスライダーは打てない球じゃない。確かにかなりいい場所に決まるし、スピードも速く変化の幅も凄まじい。
 それでも、もう打てる。

 例え、武藤が裏をかいて直球で来たとしても打てる。
 相手はスクイズが来るだろうと予測して前進守備。

 (…俺も、こんな場面じゃなかったらスクイズにするよ。)

 けれど、こんな場面だから。
 スクイズは打たない。必ず飛ばす。



 予想の通り、5球目はスライダー。裕はそれを思い切り打ち砕いた。
 久々のフルスイングは、クリーンヒットして驚くほど綺麗に伸びる。打球はニ遊間を抜けた。

 三塁ランナーを背負ったチャンスの場面でのこのクリーンヒットは大いに観客を沸かせた。

 返球が遅れる中でまずは三塁ランナーの滝が生還。阪野二高の初得点。
 打った裕は二塁に滑り込む。余裕のあるセーフだった。久々のフルスイングはまずまずの出来。



 歓喜に揺れる阪野二高サイドだが、点数の差は大きい。まだ五点差なのだから。
 しかし、それでも絶望の文字すら浮かんでもおかしくはない六点差を抱えていた阪野二高には、反撃の狼煙を上げたにも等しい。
 伊達に、逆転試合を重ねて来ていない。肝っ玉の大きさならば朝間高校にも負けない。

 「…さて。」

 裕は膝に付いた砂を軽く払うと立ち上がった。そして、通常通りリードする。
 禄高に約束してしまった。出たランナーの数だけ点を取る、と。
 一人目、滝は返した。出たランナーはあと一人、…自分だ。

 (頼むぜ、新。)

 裕は飛び出した。
 新のお陰で武藤の牽制と投球スタートの違いは解った。なら、そこからは裕の独壇場。

 武藤の投げたのは外に外れるボール球だったが、キャッチャーは三塁に滑り込んだ裕を刺す事は出来なかった。
 盗塁が成功し、裕は心の中だけでガッツポーズを取る。裕は盗塁を失敗した事が無いので、皆にして見れば当たり前の成功だが、裕はいつもこっそりと心の中で喜ぶ。
 これは、裕の一つのジンクス。次の盗塁も成功させると言う。



 (…さて、これでまたワンナウトランナー三塁。)

 右京は新にサインを送る。
 新は小技が巧い。目もいいから最高の二番打者だが、新には武藤のスライダーをクリーンヒットする技術は無い。

 右京はスクイズのサインを出した。



 スクイズのサインを受けると新は了解のサインを示す。
 そして、バントとばれないように普通の構え。牽制と投球の違いはもうとっくにばれていると解っているので、無駄な球は投げない。

 (スクイズ…来るかな。)

 武藤は汗を拭った。
 阪野二高は、ランナーが一番打者である時に恐ろしいほどの得点率を示す。それは脅威だが、同時に。

 (…ここでランナー刺せば、阪野二高の攻撃はがた落ちって訳だ。)

 武藤は球を握り締めた。そして、自分に確認するように小さく口を歪める。



 「…よう。」

 新は言った。

 「何笑ってんの?余裕だねー。…あんた等が今背負ってんのは、無敵のランナーだってのによ。」

 武藤は笑う。何気無く三塁の裕を視界の端に入れた。本人はまったく気付かずに今も本塁を狙っている。
 この後半戦で、五点差を引っ繰り返そうと言う選手達なのだ。この阪野二高は。敗北がちらつき出す頃合なのに、この目は一体何だ。

 「簡単な事を訊くなよ。ランナーが最強でも、ここで俺が二人を三振で終わらせちまえば済む話だ。」

 武藤は当然の事、と言うように平然と述べた。
 新は小さく、誰にも聞こえない程度に舌打ちする。

 (さすがに全国ベスト4の投手だよな。…でも、三振じゃ終わらせない。)

 新は構えた。

 (なぁ、裕?)

 新は心の中で裕に問いかける。答えなんて返ってこない事は十分承知の上。

 (…転がしさえすりゃ帰って来るだろ?お前なら。)

 三塁の裕が笑ったように見えたのは、恐らく気のせいだろう。

 何時の間にかキャプテンと言うポジションが馴染んでいた男。
 部内一小さい男。
 嘘吐きで秘密主義者で、心の中では人を信用しない冷たい人間。
 それが、何時の間にか阪野二高の攻撃の要になっていた。

 (任せとけよ。)

 これが、自分の仕事なのだから。
 一球目からあのスライダー。だが、新はしくじらない。冷静にその球を三塁線に転がす。切れそうで切れない球は丁度投手と三塁手の真ん中くらいで動きを止めた。
 その傍を裕が駆け抜ける。新もまた、一塁へ向かった走り出す。

 「ホーム!」

 裕は捕手のその声と同時に滑り込んだ。誰もが目を丸くする。
 選手、観客を含む誰もが動きを忘れたしまったかのように動けない。武藤はもちろん、仲間さえ。


 (…化物。)

 一塁を余裕で踏んだ新は呆然とした。

 (俺達阪野二高は…、こんな化物を抱えていたのかよ。)

 ホームランこそないものの、最高の選手。
 本当に敵で無くってよかったと思う。もしも、こんな男が敵だったら一体どうやって抑えればいいんだろう。東光学園の如月や朝倉が過度に警戒しているだけだと思っていたが、当然の事だったらしい。



 (また…、速くなった。)

 観客席から見下ろしていた浅賀は小さく笑う。
 裕は速くなった。中学の時より、春より。一体何時が最高潮なのか。一体、MAXはどれほどなのか。



 「…禄高。」

 少し遅れてアルプスが一気に沸き立った。その凄まじい歓声の中で裕はメットを脱ぎ、ベンチに戻る途中に禄高とすれ違い声を掛けた。

 「出たランナーの数だけ点は取ったぜ。」

 裕は笑った。

 「ああ。ご苦労さん。」

 禄高は出来るだけ平常心を保ちながら笑う。

 (頭角を現して来やがったな。)

 寒気を覚えた。その鳥肌を残したまま禄高はバッターボックスへと向かう。
 結局、その後攻撃は続かなかったが、これで四点差まで詰め寄った。



 『七回表、慶徳学園の攻撃。阪野二高、ピッチャー市河君に代わりまして久栄君。背番号10』

 ベンチの奥で息を弾ませる俊を余所に試合は進む。マウンドに立った久栄。まだ、一年生の投手。高校での公式試合はこれが初登板。
 四点差を背負ったこの緊張の走る場面では、余りに重い中継ぎだった。



 (…最高の舞台じゃんか。なぁ、隆輔。)

 滝は笑って見せる。
 それに気付いて久栄はマウンド上で笑った。



 (一年か。)

 浅賀は心の中で呟いた。
 二点を返したが、阪野二高のピンチは変わらない。その中での中継ぎの役目がどれほど重いか。
 ラジオの解説者が言っていた。この投手はこの大会でこの試合が初登板なのだと。そんな投手を使うのだから、余程信頼があるのだろう。

 (もし、ピッチャーがいなくなったらお前が自分で投げるやろ?)

 浅賀は裕を見て笑う。
 何故なら、中学一年の時の裕のポジションは“ピッチャー”だったからだ。
 浅賀がいない時の抑えとして度々登板していたが、二年になると同時にその機会は無くなったけれど。

 この試合、もしも裕が登板したら面白い事になると思いながら浅賀は阪野二高の抑え投手を見る。そんなに大きな選手じゃない。慶徳の武藤よりも少し小さいかと言うくらいのもの。
 阪野二高は更なるピンチに陥るのではないかと思ったが、その不安はすぐに消し去られた。



 (さ、行こうぜ隆輔。…仲間の不安な表情も、敵の余裕な笑みも全てこの一投で消し去ってやろう。)

 内角に食い込むストレート。
 久栄はそのサインを受けて頷いた。そして…投球。

 その一投に、誰もが驚いた。
 真横からのスイングは、慶徳の武藤のストレートを鏡に映したようなコースでミットへと収まって行った。

 喧しい応援が一瞬静まり返ったような錯覚さえした。だが、途端に大歓声。ストライクの声が響いた後だった。
 時には重荷になり兼ねない応援、敵の応援はやる気を削ぐ。しかし、今の久栄にはどちらも自分への力強い言葉としか聞こえなかった。



 「…マジかよ…。」

 慶徳のキャッチャーが呟く。そして、武藤の方を伺うように見るが、本人は下唇を噛み締めて挑戦的に笑っていた。

 (サイドスローか。それも右の。)

 左のサイドには免疫のある慶徳ナインだからこそ、この右のサイドには苦しめられるかも知れない。
 それに、キャッチャーはさっき得点のチャンスを作った打者。只者じゃない事くらい解る。

 (一年、か。)

 この一年の逸材は、公立にはもったいないくらいだ。あの朝間高校でも行けただろうに。

 (…ここで追加点でも入れてトドメをさしてやりたいとこだったけど、無理かな。)

 武藤は苦笑した。その予想通りに、先頭の打者は三振。慶徳の攻撃が続く事は無かった。



 その後、試合は投手戦を迎える。左右のサイドスローが並ぶ世にも珍しいこの投手戦はどちらの追加点も許さないままに九回を向かえた。
 そして、九回の表に惜しくも一失点を許してしまうものの慶徳の攻撃を続かせる事は無かった。初めての公式戦で、このピンチの状況を考えれば二人は最高の働きをした。

 点差は五点に戻り、阪野二高は最後の攻撃を迎える。