18、決別


 九回裏、阪野二高最後の攻撃。

 点は7−2で五点差。打者は三番、ファースト禄高。今日はあまりいい成績は残していない。
 ここで最低でも五点取らなければ負け。こんなピンチは初めてだった。

 (…ここで働かなきゃ俺がいる意味まったくねぇじゃん。)

 禄高は心の中で呟く。
 今日は守備もそこそこ。エラーも無いが、ファインプレーも無い。打撃に至ってはからっきし。副主将でクリンナップだってのに冴えない。
 一方、主将は崩れた投手に三塁手を立て直し、打撃ではチームの目を覚ます反撃の狼煙を上げた。

 (だけど俺は…あいつとは違う。)

 確かに裕はチビだけど才能ある選手だ。天才とは違うけれど。
 走るだけでファインプレーになるような選手でも無いし、落ち込んだチームを元気付けられるほど哲学者でもない。


 あれこれ考えている間に武藤は構え、投げた。
 まず、一つ目の球を見送る。ストライクだった。禄高はしまったと思い内心焦る。

 そして、二球目。ここまで苦戦させられたスライダー。
 もう、何度も見て来た球。禄高は振り切った。


 しかし、打球は三塁の少し後ろに高く上がった。それはあえなくサードに捕球された。
 ワンナウトになり禄高は俯きながらベンチへと戻って行く。



 (…何だよ、今の打席。マジだせぇ…。)

 こんなに非力だったのかと思い知った。
 たかがサードフライで終わってしまった。呆気なく、あっという間に。

 (何してんだよ、俺。)

 禄高は応援する事も忘れてベンチの隅で俯く。あの時の那波もこんな気持ちだったのかと思うと少し虚しい気持ちになる。

 (…何が副キャプテンだよ。)

 くそっ。
 禄高は顔を上げられなかった。だが。



 「禄高、顔上げろ。」

 その言葉の通り顔を上げた。そこには誰もいなかった。声の主は裕のはずなのに、本人はベンチから身を乗り出したままでいる。

 「まだ、試合は終わってねぇぞ。」

 後姿のまま、裕は言った。

 「…解ってるよ。」

 罪悪感を抱えたまま禄高は裕を少し押し退けてベンチから顔を出した。
 次は四番の爾志だったが、ピッチャーゴロを打たされアウトを取られた。

 あっという間の、ツーアウトだった。

 勝つ時は酷く苦戦するのに、負ける時はあっという間に感じられた。その感覚がいつもいやだった。
 爾志は落ち込んではいるのだろうが、そんな表情は仲間に見せなかった。

 打てなかったにしても、それが四番と言うものなのだろう。


 次々に追い詰められた阪野二高。打者は那波。本日絶不調の男。俯いたままバッターボックスに向かう。
 普段はこんな顔はしないのだ。那波と言う男は。


 「…光輝!!」

 那波の事を“光輝”と呼ぶのは一人しかいない。親友である斎敬太だ。

 「打てよ!絶対!お前なら出来るから!!」

 それも確証なんて無い話だったが、那波は力無く笑った。
 でも、それはせっかくのファインプレーを那波のエラーによって潰されてしまった男の言葉では無い。ただ、親友としての、チームメイトとしての言葉。

 (…ここで俺が打てなきゃ負けるんだ。)

 足ががくがく震える。指先にまで緊張が伝わっているようだった。
 酷く不安な顔をしているのだろう。武藤はもう勝ったような顔をしていた。


――お前はすぐに自分を責めるから…。


 声がふと過った。それは、あのエラーをした回に裕が言った言葉だった。


――お前はすぐに自分を責めるから、俺達は責めない。お前が自分を責めて立ち上がれなくなる時に、引っ張り起こすのが役目だろうが。それが、仲間の意味なんだよ。


 指先の震えが止まった。

 (…誰も、俺を責めなかった。最後の大会になる先輩でさえ。これが負けたら、最後の試合になっちまうってのに。)

 叱咤の一つでももらって当然だった。冷たい目で睨み付けたって当然だった。
 でも、何も言わなかった。いつも通りの顔で、勝つ事を信じていた。

 (…負けらんねぇ。俺を信じてくれた皆の為にも。)

 那波は武藤の方へと向き直った。眼光が妙に鋭い。もう、あのエラーでしょぼくれた那波はどこにもいない。ただいつも通りの天才那波光輝がそこに凛然と佇んでいるだけだった。

 (この試合を最後になんてさせない。)

 先輩達の最後は、甲子園の決勝。そして、優勝だ。
 こんなところで終わらせるもんか。

 那波は振り切った。初球はあのスライダーだった。
 武藤のスライダーは鋭く折れるように落ちたけれど、那波のバットはそれを真芯で捕らえている。打球は綺麗に伸びてセンター前に落ちた。
 那波は走り出す。



――勝つんだッ!



 一塁を走り抜けた那波。その傍を返球が過ったが、審判は確かにセーフと告げた。
 俄に信じられない那波は走り抜けた後も呆然としていたが、息を整えながら静かに一塁へと戻って行く。

 (やった…!)

 那波は小さくガッツポーズを取る。ふと、ベンチを見ると斎も同じくガッツポーズを取っていた。
 ツーアウトランナー一塁。まだ、チャンスと呼ぶには速過ぎる。しかし、追い詰められた阪野二高の底力を見せるには相応しいワンプレーだった。


 『バッター六番、斎君。背番号8』

 斎はバットを握り締める。こんなピンチの状況は初めてだった。
 五点差で負けていると言うのは。

 (光輝が打ったんだ。俺が続かねぇでどうする!)

 斎は構えた。今日はまともな記録を出していない。ヒットも打っていない。打たされたピッチャーゴロなどの苦い記憶が過る。その中で一番良かったのは五回表のファインプレー。それも那波のエラーで終わってしまったけれど。
 恨んでいる訳じゃない。いつもエラーするのは自分で、そのカバーをするのは那波だった。今回は逆だっただけの事。
 エラーの無い野球なんて面白くもなんともねぇ。
 だから、それに賭ける。


 一球目のスライダーを見送り。二球目の内角ストレートを空振り。そして、三球目。外角に突き刺さるストレートに手を出した。
 確かな手応えを感じた。打球の行方も見ないままランナーはスタート。斎も。しかし、打球は絶望的な方向へと飛ぶ。

 ショートの目の前。



 「抜けろーッ!!」

 ベンチから身を乗り出して禄高は叫んだ。打球は痛烈なライナー。ショートの真正面。
 ここで捕らないなんて方が嘘だ。

 しかし、この状況でやっと野球の神様は振り向いた。

 打球はショート直前でバウンドし、上に弾け飛んだ。微かにショートのグローブを掠ったが、打球は越えた。
 落ちた先は二塁と三塁の間。那波は滑り込む。そして、二塁に抱き付くようにして顔を上げた。砂埃が舞っている。

 「セーフ!」

 審判の声を聞いてようやく那波は立ち上がった。心の底から安堵の息を吐いて。
 バクバクと大きな音を立てる心臓を押さえながら斎もまた。

 (繋がった…。)

 今思えば、なんて危険なギャンブルだったんだろう。相手のエラーに賭けるなんて。
 でも、結果は斎の勝ちだ。



 「よーし!続けぇ!!」

 盛り上がる阪野二高ナイン。ピンチの状況は変わっていないのに。



 しかし、ここでチャンスは訪れた。
 ランナーは続き、ツーアウトフルベース。そして、奇襲攻撃が功を為して四球の押し出し一点を得る。
 これで7−3で四点差。

 そして、九番滝のクリーンヒットが三塁ランナーを生還させる。ツーアウトでピンチは変わらないが、試合は最大の見せ場を迎える事になる。


 運命がそうさせるのか。
 選手がそれを望むのか。


 『…バッター一番、蜂谷君。背番号6』

 ワァ、とアルプスからの凄まじい声援。ツーアウトからここまで食らいついたチームも珍しいだろう。



 「やっぱり、ここで戦うのは運命みたいだな。」

 武藤は汗を拭い笑った。
 バッターボックスには裕。空には何時の間にか大きな入道雲。天候の崩れを予感させる。

 「…桜庭!」

 武藤は睨み付ける。
 投手が崩れる。九回裏三点差でツーアウトフルベース。投手は武藤直人、打者は蜂谷裕。

 「蜂谷だって言ってんだろ。」

 裕は笑った。
 こんなピンチは久しぶりだった。そして、こんなチャンスも。あの時と背番号と打順は違うけれど、似ていた。

 「…お前の野球、ここで終わらせてもらうよ。勝つのは俺達だ。」
 「…負けるかよ。」

 裕は構えた。



――お前には解んねぇよ、永遠に。お前にはな。

 一回裏で武藤が裕に言った言葉。今なら言える。

 (解ろうなんて、思わない!)

 一球目のストレートを打つ。打球はファウル。
 その行方を見て武藤は小さく笑った。


――勝った事を後悔すんな。

 俊の言葉。崩れるまで気付いてやれなかったってのに、恨み言一つ言わなかった。
 ただ、当然のように打者を抑えて来た投手だ。


 二球目。外角高めのストレート。それを見送る。
 審判はボールと告げた。

 そして、三球目。
 因縁のスライダー。外角へ逃げて行く球は、リーチの短い裕には天敵。しかし、その球を見送る。キャッチャーはそれを綺麗に捕球した。しかし、ボール。


 これでカウントは1−2になった。武藤は球を握り締める。

 (俺は負けられねぇんだよ…。俺は。)

 この試合に勝つ為だけに野球をやって来たんだ。あいつには理解出来ないだろうし、してもらいたいなんて思わない。
 負けたくない。こいつにだけは。何も知らないこいつには。恵まれたこの男には。

 武藤は大きく振り被って投げた。もう頭の中に他のランナーなんていない。
 武藤の決め球の一つ、スライダー。大きく折れるように滑りながらミットに飛び込んでいく。

 「ストライクッ!!」

 これで、カウント2−2になった。
 裕は静かにメットを脱いだ。短い黒髪が揺れた。

 追い詰められたのは裕。しかし、その表情には余裕があった。

 メットを被り直して裕は再び構える。バットは長く持ったまま。
 直感と言うのだろうか。この打席で、裕が打たなければ負ける。漠然と、阪野二高ナインはそれを肌で感じ取っていた。


 「裕ッ!打てよ!!」
 「頼むぞ!」

 ベンチからの声援を耳にして裕は笑った。少しだけ、心にも余裕が出来たように思う。

 「…随分頼りにされてんじゃん。」

 皮肉たっぷりに武藤は言った。

 「ああ。キャプテンだからね。」
 「…気付かないのか?お前の仲間は、お前に重荷を負わせてんだぞ?」

 自分の出来ない事を他人に押し付ける事で、罪から逃れ目を背ける。
 自分達は何一つ出来ないくせに。そして、自分が出来なかった時には責め続けるのだろう。

 「それは、違う。」

 裕は笑う。

 「あいつらは負わせてんじゃない。俺が背負った荷物を、代わりに少しずつ背負ってくれてんだ。…そうは考えられなかったのか?」

 武藤は小さく舌打ちする。

 (…それが既に、恵まれてるヤツの発想だって気付かないのか!?)

 裕が、武藤が構える。
 そして、武藤の左腕から放たれた球。それは因縁のスライダー。

 ここで裕を三振で抑えれば勝ち。例え打たれたって得点に繋がるなんて限らない。
 勝ってるのはこっちなのに、なんで。

 (何で、こっちが追い詰められてるみたいなんだよ…!)

 武藤の投げた球は孤を描いてミットに納まった。
 スパン、といい音を立ててミットに納まった。



 「…ボールッ!!」
 「なっ…!?」

 ガク、と肩が下がった。武藤は帽子のツバを少し下げた。
 カウントは2−3に。お互いに後が無い。

 裕は地面を均す。武藤はロージンバッグを使う。
 マウンドの上で武藤は睨み、バッターボックスで裕は笑った。

 「勝つのは、阪野二高だ。」
 「負けねぇよ。…慶徳は。」


 この一投で勝負は決まる。それを、この球場にいる全ての人間が理解していた。
 確率で言うなら、慶徳が勝つ確率の方が遥かに高い。99%対1%くらい。

 その一投が、投げられた。


――負けたくないッ!
――…勝つんだ。


 外角高めのストレート。
 裕は動いた。武藤は目を伏せ、耳を澄ませた。

 そのストレートは、真っ直ぐじゃなかった。いや、ストレートじゃなかった。
 シンカー。トラウマと言って、この試合では投げないだろうと裕が予想した球。この試合の最後の局面で、武藤は投げた。



 「…シンカーだ!」

 禄高は叫んだ。この試合で初めて見るシンカー。滑り落ちていく速い球。もしも、この試合の中でスライダーと平行させて使われていたら阪野二高は得点には至らなかったかもしれない。
 それなのに使わなかった武藤の決め球。それもこの場面で。

 (…裕…!)

 俊は拳を握り締めた。



 (…シンカーか。)

 浅賀は笑った。
 何で武藤が裕を追い続けたのか、何となく解った気がした。

 (武藤、解らんのか。)



                      
…キィンッ…


 バットは、確実にヒットした。
 打球はぐんぐん伸びていく。それをライトが必死に追う。ランナーは全員スタート。
 忙しなく試合は動いているのに、裕はバッターボックスに立ったまま目で、武藤はマウンドで投げ切った姿勢のまま目を伏せて耳で打球の行方を追った。



 (…打球の行方に、目を背けた時点でお前の負けやねんで。)

 浅賀は呟いた。



 打球はアルプスに落ちた。一気に、地を揺るがすような大歓声。
 鳴り止まない拍手。歓声。全てを受けながら裕は走り出した。

 武藤は、帽子のツバで表情を隠しながらマウンドに立ち尽くしていた。


 その姿を横目で見ながら裕は本塁へ立った。


 「裕!!よくやった!!お前ならやると思ってたよ!!」
 「最高だよ!馬鹿野郎!!」
 「さすがキャプテン!!」

 尽きない褒め言葉。殴られ、裕は「痛い。」と苦笑した。
 泣きそうになりながら阪野二高ナインは喜び合った。その終わりが見えない中で審判は終わりの挨拶へと促す。



 「この試合7−8で、勝者は神奈川県立阪野第二高校。両校礼!!」
 「ありがとうございましたッ!!」



 いつまでも尽きないこの試合の感想。阪野二高の面々は満面の笑みで喜び合っている。しかし、慶徳はその逆で目を伏せていた。
 涙を何度も拭う者、泣きながら甲子園の砂を拾う者。
 そして、マウンドに立ち尽くす者。

 「…武藤!」

 裕は駆け寄る。

 「敗者に、慰めは余計だぜ?」
 「馬鹿言うなよ。」

 裕は苦笑する。

 「何で、最後の球がシンカーだと思ったんだ?」
 「…さあ。ただ、なんか落ちるような気がしただけ。」

 武藤は小さく笑う。

 「…なぁ、お前にとってこの試合は…。」
 「まだ、解らねぇのか。」

 武藤の足元には幾つもの涙が跡を作っていた。

 「この試合は、俺にとって決別なんだよ。」
 「決別?」
 「中学の、あの惨めな試合とだ…!」

 三年前の試合。中学最後の公式戦。全国大会の決勝だった。
 ツーアウトフルベースでの逆転サヨナラホームラン。

 「…負けた事を、仲間は責めたのか?」
 「口にしなかっただけさ。皆、思ってるよ。俺のせいで負けたんだって…。」

 武藤は顔を上げない。

 「だから、俺はお前に負けた後必死になって練習した。なのに、何でお前に勝てないんだ…ッ!」

 あの試合を決めたのは、たったの一球だった。
 ただ直球と言うよりは落ちた変化球。シンカーと言うには甘過ぎる直球。
 それが武藤の野球を変えてしまった。

 「…お前が負けたのは、俺じゃない。」
 「え?」

 武藤は俄に顔を上げた。しかし、裕の顔は見えない。

 「あの日お前が負けた相手は俺じゃなくって、大崎中学と言うチームなんだよ。…野球は個人競技じゃない。あの時俺が例え打てなくっても、仲間は誰一人責めなかっただろうよ。そんな自信がある。」

 裕は振り返り、仲間の姿を見た。次の試合の為にグラウンドを整えている仲間、帰りの準備を整える仲間。皆笑顔でいる。
 もしも、あの時打てなかったら見る事は出来ない光景だっただろう。けれど、仲間は責めたりしなかったと思う。

 「それが俺とお前の違いだ。」

 武藤は、裕を見た。
 涙で歪んだ視界では、滲んでよくは見えなかった。



 「…武藤。」

 武藤は名を呼ばれ振り返った。そこには、慶徳ナインがいた。
 三年前のあの日、負けた後をふと思い出して心臓が痛んだ。

 けれど。

 「…ナイピッチ。」

 聞き間違いかと、思った。

 「お前は、最高のピッチングをした.…けど、勝てなかったんだ。それだけの相手だったんだろうよ。」
 「お前は最高の投手だよ。ありがとう。」

 涙が零れた。

 「…俺のせいで、負けたんだぞ…?」

 仲間はそれぞれに顔を見合わせる。

 「何を言ってんだよ。そんな訳ねぇじゃん。」
 「誰がお前を責めるかよ。そんなヤツいたら俺がぶっ殺してやる。」

 言葉にならない声が漏れた。
 ボロボロと涙が溢れる。


――野球は個人競技じゃない。


 裕の言葉が過った。

 (俺が負けたのは、阪野二高だったんだ。蜂谷じゃない。)

 仲間は、責めない。それが本心だって確証なんて無いのに信じられる。
 きっと、俺はあの日からずっとこれを探していたんだ。

 (蜂谷に勝ちたかった訳じゃない。ただ、信じたかったんだ。)

 殺しきれなかった声が嗚咽となって溢れる。皆が集まり、泣いた。
 マウンドに幾つも涙の跡が出来ていった…。



 その夜、兵庫県には雨が降った。グラウンドに落ちた汗や涙を洗い流すように。戦い合った足跡を消し去るように。
 そして、阪野二高は準決勝へと駒を進めた。

 対戦相手は、大阪府明石商業。

 …春に負けた相手だった。