19、四番 準決勝の朝は、雨が降っていた。小雨だったが、これから更に崩れるそうだ。 今までの試合はどれも天候に恵まれていたので、雨天での試合は初めてだった。それが吉と出るのか、凶と出るのかは解らない。 ただ、いつもと違うのはそれだけじゃない。 「…あーあ。雨かぁ。」 憂鬱そうに禄高は呟いた。 「案外、雨男なのかもな。」 「俺は晴れ男なのになぁ。」 裕は笑った。 その傍で、見覚えのある少年も笑う。 「ごめん、俺雨男だから。」 「あー!やっぱり!」 禄高は大袈裟に驚いたマネをする。周りの仲間が揺れるように笑った。 「でも、雨の方が調子いいんだよな。俺。」 「そりゃー、頼もしい。…頼りにしていいんだよな、御杖。」 御杖拓海は、笑顔で頷いた。 やがて、甲子園球場まで向かうバスに乗り込みそれぞれが準決勝の相手である明石商業との戦いを脳裏に描く。車内は普段とは比べものにならないくらいの静寂が支配していた。 「…裕、何怒ってんだよ。」 御杖は言った。裕はふい、と窓の外を見る。景色がどんどん後ろに流れていくだけ。 「怒ってねぇよ。」 「いいや、怒ってる。…何が気に入らないのさ。」 昨夜、御杖が来た。突然の登場に誰もが驚いた。 野球部の幽霊部員で、学校にも来ていない男。よく退学にならないなと思っていたが、その辺りは巧く出来ていたらしい。大人の事情ってやつだ。 突然現れ、顔も名も知らない男である御杖はたった一打席のプレーでチームの四番に座った。もちろん、それを面白く思わないヤツも多いだろう。裕もブランクから抜けた直後の御杖をこんなすぐに使えるとは思っていなかった。それに反対する者も多いだろうから、下位打線・外野からのスタートだと踏んでいたのだ。 それがいきなり四番でサード。 「天才はいいよなぁ…って思って。」 「はぐらかすなよ。お前の怒りはそんなんじゃねぇだろ。」 御杖は笑った。 心を読まれているようで癪だったが、裕は笑顔を隠し切れなかった。 「…遅ぇんだよ。」 いきなりレギュラーで、四番で、サードで。そんな嫉妬じみた怒りは全て一つに起因する怒りだった。 つまり、大した問題ではないのだ。 「悪かった。…俺も、もうちょっと早く行く予定だったんだけど。」 夏には間に合わせると言った御杖。確かに間に合ったはいいが、もう夏も終盤に差し掛かろうとしている。そもそも、この夏の選抜に至ってはもう準決勝なのだから。 「…これだけ待たせたんだ。しっかり仕事してくれよ。」 「もちろん。」 たった一日でチームに馴染んでしまった御杖。これが高校初の試合。いや、高校初の野球。 計算高い笹森エイジの隙をつくには丁度いい男だった。 高校ではまったくの無名。だが、実力は確か。笹森の事だ、油断はしないだろうがそれで抑えられる御杖じゃない。 中学ではかなりの有名人だったらしいが。 「裕のお陰で掴んだ自由だ。それに報いる事はするよ。」 バスの静寂の中で、妙に響いた声だった。 甲子園準決勝。ここまで残っているのは裕達阪野二高と、これから戦う明石商業。そして、王者朝間高校とあと一校。普通に考えてもう一つの山からは朝間高校が上がって来る。 つまり、この試合は王への挑戦状を手に入れる試合なのだ。 球場は満員だった。春以来の対戦で、熱戦を繰り広げただけあって明石商業はもとより、阪野二高の人気も上がっていた。 そして、もう一つ。 “最強打者”の正体。 もう、世間には広がっていた。 それはもう、お茶の間を賑わす一つの話題に過ぎないけれども。 「よう、最強打者。」 トイレから帰る途中の廊下を歩いていると壁に寄りかかって笹森がいた。待ち伏せしていたらしい。 「久しぶり、エイジ。」 「ああ、春ぶりやな。」 笹森エイジは笑う。 この試合は最後なのだ。お互い。負ければ引退が待っているのだから。 負けられないのは同じ。 「な、お前のとこの四番…御杖って言うたか。あいつ何者や。」 「何者って…四番だよ。」 「それは解っとるって言うてるやろ。」 笹森は盛大に溜息を吐く。 さすがに黙って情報を渡すほど裕はアホじゃない。 「ま、ええわ。試合やってみれば解るやろ。」 「当たり前。ま、これだけは言っておくよ。」 「ああ、忘れとった。」 互いに一歩進み出る。 「「全力を尽くそう!」」 ガツン、と拳がぶつかった。 思いの外笹森の手が痛かったので時間差で鈍い痛みが来るが、裕は気付かれないように笑った。 「…今年の全国優勝は朝間高校やない。」 「当然。」 笹森率いる明石商業、裕率いる阪野二高。このニ校は王への挑戦者。 それは無謀なのか、勇猛なのか。それを知る事になるのはまだ先の事。 裕は踵を返し歩き出す。同じく笹森も歩き出した。 三年前、道を別つ事になってから別々の地で野球をして来た二人。たった一つの約束を胸に。 「これより、全国高等学校野球選手準決勝。阪野二高と明石商業の試合を始めます。両校礼!」 「「お願いしますッ!!」」 その最後の試合が、幕を開けた。 先攻は阪野二高。打者は一番、蜂谷裕。 すでに知れ渡った俊足の打者。正式な取材は無いものの、皆が注目するトップバッターになった。 裕はバッターボックス左に立つ。そして、横目で一塁を確認すると構えた。 (やっぱり、ピッチャーは菖蒲浩輔か。) 二年ピッチャーの菖蒲浩輔は笑った。 今年の春の選抜の時の投手も菖蒲だった。そして、阪野二高は負けた。 (変化自在のフォーク。…マジ反則だよな。) 物理法則を無視している。そう思うが、物理法則なんて難しいものは知らない。裕は心の中で吐き捨てた。 反則的でも何でも。菖蒲はそのフォークを投げる為にどれだけ練習して来たんだろう。並大抵の努力じゃないはず。 一球目。様子見の外角のボール。裕は振らなかった。 そして、二球目。今度は内角のストレート。ストライクカウントが一つ。 三球目、早くも菖蒲の必殺球であるフォーク。裕は空打った。 「ストライクッ!」 裕は目を閉じた。 瞼越しでも解る。夏の暑い太陽が。オレンジ色の光が見える。 そして、眼を開いた。 四球目。外角のストレート。 それを思いきり叩いた。打球はピッチャー目前で跳ね、菖蒲の頭の上を越えた。 素早くセカンドがカバーに入ったが、裕はとっくに一塁まで滑り込んでいた。 「…わ、速いね。裕。」 御杖は言った。 「当たり前だろ。全国一の俊足だぜ?陸上も欲しがるくらいだ。」 「へぇ…。」 御杖の瞳がキラキラと輝いている。 子供みたいだな、と禄高は心の中で呟いた。 「で、裕が出たって事はお前まで回る。頼むぜ、四番。」 「任せといて。」 ニッコリと爽やかに御杖は笑う。 禄高は鼻で卑屈っぽく笑ってベンチを出た。 一方、試合は進んでいた。裕が一塁セーフになってから二番打者の新はゴロだったがランナーを進めた。 ワンナウトランナー二塁。裕にしては珍しい一つだけの進塁だった。 次の打者は三番、禄高。 バッターボックスに立ち、構える。春には散々苦戦させられた投手だ。お調子者の禄高とて、同じ轍を踏むつもりは毛頭無い。 (俺の仕事は裕を三塁に送る事だな。…バントかな。) 禄高は監督の右京を見る。そこには送りバントの指示など無かった。 (…打っていいのか。) 何となく、その意味が解った。 禄高はアウトになってはいけない。次の打者の為にランナーを溜めておきたいんだろう。 禄高は一球目のストレートを見送り、二球目で手を出した。 (ストレート!) 菖蒲のフォークは脅威だが、ストレートは大して恐くない。確かに速いが、阪野二高が今まで相手にして来た投手に比べれば遅い。 その直球を左へ打つ。 この状況で、アウトになり易いのは裕じゃない。 (…俺だ。) 裕はアウトにならない。あれで割りと器用だから危ないと思ったら戻るし、簡単にアウトが取れるほどの足じゃない。だから、禄高は自分の事だけを考えればいい。 禄高は走り抜けた。送球は三塁に行ったが、裕は余裕のセーフだった。余裕過ぎて欠伸をしている。 これでワンナウトランナー一塁・三塁。守備が大きく開いた。 『バッター四番、御杖君。背番号五番。』 御杖は打席に立った。 (こいつが四番か。…実力見させてもらわな。) 今まで四番だった爾志に比べて細い。何よりもカッコイイ。そこらのアイドルよりよっぽどだ。 そのイケメンの実力を測る為に笹森はまず、外角のボール球を指示した。正面で菖蒲が頷く。 指示通りの外角のボール。御杖は全く動かない。 (動かんな。これでどうや。) 内角の直球。今度はストライクゾーンだ。 しかし、御杖は動かない。審判がストライクと叫んだ。 (…何やねん、こいつ。打つ気無いんか?) 打とうとする気配が無い。こんな事始めてだった。 ただ、見ているだけか。ならさっきの打席でわざわざ左に打ってランナーを出す必要があっただろうか。 不気味な打者。そう思いながら笹森は次の指示を出す。 変わらず直球だ。ここで動かなきゃ冗談だろう。 しかし、御杖は動かなかった。 カウントは2−1になる。 (…どうやら、打つ気は無いみたいやね。ま、ええか。これで終いや。) フォーク。 そのサインを出すと、菖蒲は頷いた。 菖蒲が構え、投球。その時、笹森は一つの違和感に気付いた。 (……コイツ、えらいキャッチよりに立っとるな……。) それに気付いた時、御杖は動き出していた。 (待ってたぜ、決め球とやらのフォーク。) 笑みを隠し切れない。御杖は振り切った。 鋭い音を立てて打球はグングン伸びていく。勢いは衰えない。ヒョロ長い御杖のような打者が打ったとは思えないほどの鋭い打球だった。 打球は、アルプスに消えた。 一塁と三塁のコーチャーが腕をくるくると回す。興奮を隠し切れないようだった。 それは、御杖の初打席。そして。 「…ホームラン…!」 笹森は立ち上がった。予想外の事。 御杖は顔に笑顔を貼り付けて走り出す。一回表、いきなり阪野二高は三点を手に入れた。 春に阪野二高は明石商業相手に一点しか取れなかった。それを考えると、とんでもない事だった。 「…すっげぇ!」 裕は本塁を踏みながら言った。 |