21、一番打者の仕事


 「さ、攻撃だ。」

 裕はメットを被る。ベンチの中は明るくいい雰囲気だったが、肝心のバッテリーは明らかに暗くて近寄り難い感じだった。それには皆気付いていたが、言葉をかけられずにいた。

 「おい、そこの木偶の棒。」

 裕はそう言って笑った。
 その言葉は、俊に言ったのか爾志に言ったのか。恐らくは両方だろうけども。

 「お前等の意志疎通ミスなんていつもの事なんだ。落ち込む必要ねぇから。」

 二人とも何も言わない。

 「代えられたくなきゃ立ち直れ。お互いそれが何の為だったのか考えてみろ。すぐに解るから。」

 爾志が何故、敬遠を選んだのか。俊が何故、それを拒否したのか。
 俊は爾志の考えが解ったから、それを拒否した。けど、相変わらず言葉少なだから爾志には解らない。

 「お前等はバッテリーだろうが。その仕事を真っ当しやがれ。」
 「…じゃあ、裕。お前も真っ当しろよ。それが当然だ。」

 二人に助け舟を出したのか、御杖が言った。それに裕は笑う。

 「オッケー。じゃあ、見せてやるよ。一番打者の仕事。」
 「仕事?」
 「ああ。打率十割。必ず出塁してやる。」

 裕はベンチを出た。



 『三回表、阪野第二高校の攻撃。バッター一番、蜂谷君。』

 裕はバッターボックスに立った。観客が妙に騒ぐと思ったら、さっき御杖がホームランを打った時も当然だが裕からスタートだったのだ。
 正面マウンドの菖蒲は、いつもの小生意気なしれっとした顔をしている。一回表のツーランホームランからは完全に立ち直ってしまったよう。

 (この回、阪野二高はバッテリーがチェンジするかも知れない。まだ三回だってのに。)

 一年コンビのバッテリーが悪いとは言わない。けど、まだ経験が足りない。だから、点は取れるだけ取らなきゃならない。

 (…でも、今日は幾らか楽だ。)

 今日の一番打者は、本塁に生還するのが仕事じゃなくって出塁する事が仕事だから。
 出塁すれば、御杖が帰してくれる。



 「…今日は、フルスイングせんのか?慶徳戦みたいに。」
 「しないよ。…俺はホームランバッターじゃない。身の程は弁えてる。」

 裕は構えた。
 ホームランバッターだったら、とっくに四番に座ってる。それだけのパワーがあったら、とっくに優勝してる。
 でも、無いから。そんなパワーは無い非力な選手だったから。

 だから、ここまで来れた。

 「長打だけが得点の方法じゃねぇ。俺には俺のやり方がある。」
 「それが、その足なんやろ?」

 笹森は言った。
 全国一の俊足。その看板を裕が背負った時、驚いたと同時に嬉しくって仕方なかった。きっと浅賀もそうだろう。何故なら、二人は知ってるから。裕の俊足が生まれ持ったものじゃないと。
 確かに他の人よりは速かった。けど、俊足と呼べるような代物じゃなかった。それを毎日必死に、血反吐を吐いても走って磨き上げた。そうやって手に入れた俊足だったから。

 「だけど、止めさせてもらうで。」

 裕の利き足は左。走り出す時は左から。なら、簡単な話だ。
 ここぞと言うところで外角の鋭い直球を放てばいい。そうすれば、左足はワンテンポ遅れる。その遅れは裕が思うよりも大きいものだ。

 (刺せる。全国一の俊足を、殺してやる。)

 ここぞと言う時。それは一球目だ。
 一球目で思い切り打たれたらそれはチームにも危険。だけど、ここで先頭を切ればそれほど心強い事は無い。

 (…俺を殺せるかな、エイジ。)

 笹森が何を考えてるか。それが手に取るように解ってしまう。
 知り過ぎると言うのも困り者だな、と裕は思った。

 (俺の足は殺せない。殺させない。…俺の唯一の取り柄なんだから。)



 一球目、外角の直球。裕は振った。だが。

 (…速い!?)

 ジャストミートの地点を僅かに過ぎている。タイミングが完全にずれた。
 打球はぼてぼてのゴロ。だけど、裕が一塁に滑り込むには十分。

 でも。

 「…ちぃ…!」

 左足の一歩が遅れた。当てた時タイミングがずれて体制が崩れたからだ。
 だけど、裕は走り出す。



 「一塁ッ!刺せるぞ!!」



 笹森の声が聞こえた。

 (うるせーな。刺されねぇよ。)

 妙に息が上がってるのは、タイミングずらされて焦ったからだ。
 まだ、三回の表だって言うのに。

 「急げ!行けるぞ!」

 (ここで俺が刺されたら駄目なんだよな、阪野二高は。)

 裕は地面を蹴った。
 雨で砂と言うよりは泥に近いグラウンドの土が跳ねた。

 (まだ、三回だけどよ。…一番打者は打率十割。そんぐらいでねぇと。)

 やっぱり、キャプテンだから。情けない姿は見せられねぇよな。



 裕は一塁を踏んだ。雨で濡れていた一塁ベースに滑って裕はそのまま見っとも無く転んだ。
 一塁への送球と、ほぼ同時だった。だけど、僅かな違いだった。

 「…セーフ!」

 まだ、三回表。試合も序盤。ピンチと言う訳でも無い。なのに、何でこんなに必死に走ったのか一塁手には解らなかった。息を荒げている裕に、僅かに恐怖心さえ芽生えた。



 活気の出る阪野二高ベンチ。

 「すっげぇ!裕!!」
 「流石!」
 「伊達にキャプテンやってねぇよな!!」

 わいわいと盛り上がるナイン。でも、御杖は顔色悪く一言呟いた。

 「なぁ、あれって…ヤバイんじゃないのか…?」

 御杖は一塁を指した。そこには、うつ伏せのままの裕がいた。背中は大きく上下するも、起きる気配が一向に無い。

 「え…?」

 一瞬、時間が止まった。

 「裕ーッ!」



 慌てて駆け寄ったのは禄高と御杖。でも、裕は起き上がらない。

 「裕!しっかりしろ!」
 「……え?」

 気が付いたように裕はゆっくりと立ち上がった。

 「平気か?」
 「ええ?あ、うん。もちろん。」

 何にも無かったかのように裕は立ち上がる。でも、その目は焦点が合っていないように思えた。

 「…おい。本当に平気か?」
 「そう言ってんだろ。しつけーな…。」

 御杖は食い下がる。

 「この指、何本だ。」
 「六本だろ。早く戻れよ。」
 「…指は五本しかないんだけどな…。」

 御杖と禄高は諦めてベンチへと戻り出した。
 なんで、なんでここまでして裕は出塁したのか。それが解らない。絶対出塁しなければならない場面でも無いと言うのに。

 「…何でああまでして出塁したのかな。」

 御杖は呟いた。

 「何でって、さっき言ってたじゃん。」

 禄高は目を丸くして言った。

 「さっき…?」
 「ああ。打率十割って。」

 御杖はついさっきの裕の言葉を思い出した。

――打率十割。必ず出塁してやる。

 「…たった、あれだけの為に?」
 「解ってねぇな、御杖は。裕にとって“約束”ってのは他に何を犠牲にしても守るべきものなんだよ。お前なら解るだろ。」

 約束。身に覚えがあった。
 裕とした、手術を受ける約束。夏までに間に合わせると言う約束。そして、裕が浅賀や笹森とした甲子園で会おうと言う約束。

 「解るだろ?裕は約束人間だから。軽い気持ちで約束なんかするなよ。本気にするんだから。」

 禄高は軽く笑った。



 (…何とか、間に合ったな。)

 裕はリードを少し取った。いつもよりは大分少ないが気付く者はいないだろう。
 視界がぼやけている。はっきりとものが見えない。だけど、何よりも。

 (膝が痛ぇ…。)

 自分しか解らない程度だけども、微かに震えていた。ビリビリとした電気のような痛み。まだ、大した痛みじゃないけど。
 夏を迎えてから身体がおかしい事は気付いていた。変なところでミスしたり、転んだり。
 指の骨がふとした拍子にポキと音を立てたり、膝が抜けるように転んだり。

 (…大丈夫だよな。)

 裕は空を見上げた。雨脚が強くなっていた。