22、勝つのは。


 三回表の阪野二高の攻撃は一番からの好打順。そして、一番打者である裕は皆の期待に応え出塁した。ノーアウトランナー一塁で、二番打者は新。

――打率十割。必ず出塁してやる。

 爾志は一塁の裕を見た。さっきの転倒がまだ記憶に新しく目に焼き付いている。
 先頭を出せたのは確かにチャンスだけど、あそこまでする意味があったのだろうか。確かに打率十割と約束はしたけれど。

 市河が敬遠を拒否した理由。プライドの高い市河だから敬遠を拒否した。
 まず思いついたのはそれだった。

――お前等はバッテリーだろうが。

 裕の言葉が蘇る。
 二人揃って初めてバッテリーなんだ。それが何だ、この様は。バラバラじゃないか。もしも、このチームに裕や御杖のように言いたい事を正しく言える人間がいなかったらとっくに空中分解している。

 「…爾志、解る?」

 御杖は前を見据えたまま言った。

 「何で、市河が爾志のサインを拒否したのか。」
 「…お前には解るのか?」
 「解るよ。」

 客観的にも、主観的にも見れる御杖だからこそ気付いた。まだ、仲間一人一人の性格を把握していない御杖だからこそ気付けて言える事。

 「例えチームが勝っても、キャッチャーが負けたらバッテリーは負けるんだよ?」

 御杖は続けた。

 「爾志の負けは市河の負けだ。二人揃ってのバッテリーなんだから。一人犠牲になろうなんて思わないでよ。」

 勝つ為に最善を尽くそうとした爾志。その為に四番を敬遠しようとした。
 自分の勝負を捨ててチームの為にやった爾志だけど、それに気付かないほど俊は単純じゃない。

 その頃、グラウンドでは新がバントを決めてランナーをニ塁に進めた。禄高はサードゴロを打ち、ランナーは動けないものの一塁・三塁にランナーを置く。

 「…さて、俺の仕事だ。」

 御杖はバッターボックスに向かう。

 (あのお人好しのキャプテンをホームに帰してやらなきゃ。裕のやった事を無駄にはさせない。)



 その後、御杖は犠牲フライで裕を本塁に帰すものの自身はアウトになった。ツーアウトランナー二塁で回った五番那波はショート真正面に痛烈なライナーを打ったがアウト。

 審判のチェンジと言う声が響き渡る。三回裏は明石商業の攻撃。
 打者は八番から。



 応援のトランペットだかの音がやけに耳に残った。
 裕はショートの定位置で打球に身構える。点数は4−1でリードしている。こんなに楽なのは久しぶり。もしも御杖がいなかったら、点数は恐らく0−1で負けていただろう。そう考えると恐ろしい。

 明石商業の選手の内、三分の一は俊足を持っている。それは一番、二番。そして、九番。
 この八番からの打順なら、九番と一番の俊足打者にまで回る。

 (今日の明石商業は不調かもな。四番のエイジ以外三振だし。)

 裕は心の内で思った。
 しかし、全国ニ位の学校がこの程度の訳が無い。まだ、明石商業は毒を隠し持っているような気がしてならないのだ。春の大会で明石商業が隠し持っていた毒は俊足の打者だったけれども。
 笹森は必ず裏を持っている。試合では決して切り札を見せない。そして、その切り札を使ったとしても更なる切り札を持っている。

 (天才と呼ばれる笹森エイジのチーム。こんな簡単に終わる訳がない。)



 その予想の通り打者は続き、いとも簡単に二点を返した。
 俊足の打者は確かに裕ほど速くはないが、九番・一番・二番と続くと手が付けられなかった。

 あっと言う間に4−1だった点差は縮み、4−3まで明石商業は食らい付いてきた。
 市河・爾志バッテリーは調子を戻しつつあるものの、雨によるワイルドピッチでコントロールは巧く定まらない。それは明石商業の菖蒲・笹森バッテリーにも言える事だったが。
 互いに四球など当たり前。雨も激しくなる一方。試合は膠着し、四回・五回が何事も無く終わるとグラウンド整備の為の時間が取られた。
 雨により荒れたグラウンドに砂を運び込む為長くなる。



 裕はその間にトイレに向かった。

 (…この膠着、嵐の前の静けさと取るべきか?)

 ホームランバッターの四番が互いに動かない。動けないのかも知れないが。
 雨によるワイルドピッチ、視界の悪さ。裕に至っては体調不良。

 「よう、また会ったな裕。」

 正面で、笹森が笑った。

 「お前トイレ近いな。」
 「雨だから。エイジこそなんでわざわざこっちのトイレ使ってんだよ。」
 「お前に用があったからや。」
 「情報聞き出そうたって無駄だぞ。」

 裕は笑う。

 「解っとる。無駄な事は嫌いやねん。」
 「で、用って何だよ。」
 「この膠着…。お前は何と見る?」
 「嵐の前の静けさみたいなもんだろ。」
 「俺もそう思う。…さっき、ラジオで聞いたんやけど朝間高校が相手を五回コールドで下して決勝に行ったってな。」

 全国制覇の王者朝間高校は、ついにそこまで行ったのかとぞっとした。
 相手は仮にもベスト4だ。弱い筈がない。それを五回コールドだと?

 「決勝には恭輔がいてる。勝ち進むのは一校だけや。俺か、お前か。」
 「…負けねぇよ?」
 「当たり前や。負けてくれなんて頼んでへん。」
 「なあ、エイジ。お前、本当に勝ちたいのか?」

 裕の突拍子もない質問に笹森は軽蔑したような、呆れたような目を向けた。

 「お前の野球…。いや、お前が恭輔と戦う時ってどうしても勝ちたいと思っているように見えない。」

 笹森は息を呑んだ。と、言うのもそれはつい最近浅賀に言われた言葉に酷似していたから。
 それは春の選抜の決勝戦。二位が決定した後だった。


――絶対勝とーて気が無いねん。次勝てばええか、みたいな。やから、いつまで経っても俺に勝てへんねん。
――…お前は、いつでも必死でやっとんのか。
――当たり前や。一度しか来ん今やで?今必死にやらんで、いつ必死にやんねん。


――…言うとくけどな、今戦わん者に次は来んで。夏は、裕が上がって来るやろな。
――あいつは必死て言うんか?
――見たら解るやろ。勝ちとーて勝ちとーてピリピリしとったやんか。


 笹森はあの日の会話を瞼の裏で思い出す。そして、ゆっくりと口を開いた。

 「なあ、裕。訊いてもええか?」
 「何?」
 「何で、そんなに必死やねん。」

 裕は目を丸くした。しかし、すぐにそれを歪めて笑った。

 「それ、訊くまでも無いじゃん。…頑張ったら頑張っただけ結果は出るからだよ。」
 「お前は、そう信じとるんか。せやけど、頑張らんでも結果持っとるヤツはおるよ。」
 「馬鹿言うな。そんなのは有り得ないんだ。」

 裕は小さく息を吸い込む。

 「“努力をした者が勝つとは限らないが、勝者は必ず努力をしてる。”」

 いつか、こんな風に誰かに言った。誰だったかと裕はそれを思い出せなかったが、それは裕が新に言った言葉。才能が全てで努力に意味は無いと言う新に言った言葉だった。

 「それを地で行くんか。」
 「当たり前。それに、俺は頑張っておきたいんだ。遠い未来に今を思い出して、あの頃は頑張ったなんて話せるくらい。」
 「何や、それ。」

 笹森は笑った。呆れたような笑いだった。

 「頑張った評価は自分で出来る。でも、頑張らなかった評価は誰もしてくれないからな。」
 「結果が出なくても?」
 「出るよ。結果の無い努力なんて自分で認めないから。」

 これが、凡人の発想だろうか?
 何処までも努力をして、踏み躙られても、嘲われても頑張って。その先に光があるなんて限らないのに。
 少なくとも、その見つめる先は闇だろう。報われぬ努力は闇を映し出す。

 「お前は、馬鹿やねぇ。」
 「うっせぇな。何だよ。」
 「呆れてまうわ。」

 笹森はかつて自分の言った言葉を思い出していた。それは、春に市河俊へと言った言葉だった。
 “天才は最強になれない。”と言う。

 本当に、この男は最強になってしまうのか?
 チビでガリでひ弱で甘ったれで嘘吐きで秘密主義者のこいつが。

 「お前は、馬鹿や。」

 まるで、裕に暗示を掛けるように笹森は言った。
 しかし、裕はそれを跳ね除けたかのように笑う。

 「…馬鹿でもいいよ、別に。」

 裕が否定しないのは、きっとそれを知ってるから。その馬鹿がどういう馬鹿かは知らないだろうけど。
 そんな二人の遣り取りを曲がり角で聞き耳を立てている姿が二つあった。何気無くトイレに向かった禄高と俊だった。

 「なぁ、春も言うたけど…。もしも、俺と恭輔とお前で野球出来てたらよかったなんて思わん?そんな道があったら、進んでみたいとは思わんか?」
 「…そりゃ。」

 その裕の回答に禄高と俊は顔を見合わせた。

 「でも、それは不可能だった。」
 「解っとるよ。例え話やろ。お前も俺も色々訳ありな訳やし…。」
 「そういう事じゃない。」

 裕は正面の笹森を見据えた。

 「俺達は…同じ道を歩むべきじゃない。そうしたら…きっと三人とも潰れていたよ。」

 確かに、三人で野球をするのは夢だった。三人で甲子園制覇は何度も憧れた。
 けれど、その道程はどんなものになっただろうか?きっと、お互い成長する事なんて出来なかっただろう。

 「それに。」

 裕は笑った。その笑顔に笹森はドキリとする。


 「俺は、あいつ等と出会えたこの道を後悔なんてしていない。」


 裕の脳裏には阪野二高ナインの顔が浮かぶ。それだけじゃない。監督、マネージャー、友達、後輩。
 今では、失ったものよりも得たものの方が遥かに多いから。
 無くしたくない。失いたくない。
 禄高と俊は再び顔を見合わせた。出来るなら、今すぐ裕を抱きしめてやりたい位の気持ちだった。

 「…そうか。そうやね。」

 笹森は妙に納得したように呟いた。

 「俺も、そう思うで。あいつ等なら、あの頃の俺らも越えられる気ィするんや。」
 「俺もだよ。」
 「お互い、あの頃を越えるチームを引っ張って来たんや。俺はお前を全力で潰す。」
 「潰されるもんか。勝つのは阪野二高だ。」

 二人はふ、と呼吸をするように笑うと歩き出した。すれ違う瞬間に拳をぶつけて、振り返る事無く歩いて行った。
 慌てて禄高と俊は来た道を引き返して行った。



 一方、那波と斎もまたトイレへ向かう。阪野二高側のトイレは禄高と俊に追い返されてしまったのだ。それで仕方なく明石商業側のトイレを目指す。

 「…一点差かぁ。」
 「ああ。守り切るか、攻め込むか。」
 「後者だろ。」
 「俺もそう思う。」

 那波と斎は顔を見合わせて笑った。

 「…慶徳戦は、ありがとな。」

 斎は何の事かと考える。数秒経ってからようやく思い出した。
 那波は慶徳戦は絶不調でエラーまでしたのだ。だけど、九回の裏ツーアウトでチャンスを作り出したのも、また那波だ。

 「何言ってんだ。俺は、何もしてねぇ。謝るならともかく。」

 那波のエラーは、斎のファインプレーを潰した。これも勝利した今だから言える言葉だ。
 しかし、斎は言って後悔した。馬鹿正直な那波なら本気で謝り兼ねない。それだけ、前回の慶徳戦の那波は危険だった。

 「はぁ?ふざけんな、人が真面目な話してんのに。」

 しかし、那波は予想外に溜息を吐いた。
 その様子に斎は内心ほっとする。いつもの那波だ。冗談が通じない生真面目な那波。けれど、一緒にいて疲れないいつもの那波だった。

 「俺が言ってんのはさ、あの九回裏で俺を応援してくれた事なんだよ。」
 「へ?それだけ?」
 「そうだよ。…でも、それが嬉しかった。」


――打てよ!絶対!お前なら出来るから!!


 「…でも、あの後のお前の打撃は無いよなぁ。ショートの真正面に打ちやがって。心臓止まるかと思ったぜ。」
 「ははは。今思えば本当に馬鹿だったよ。今勝って無かったら俺、責任感じて自殺しちゃうかも。」
 「笑えねぇ冗談はやめろっつーの!」

 馬鹿笑いしながら歩いていると、前方にトイレらしき入り口が見えて来ていた。
 明石商業の選手とは出くわさずに済みそうだ、と思いながら二人はトイレへと急ぐ。しかし、その安心も終わりを告げた。

 「…あ、阪野二高や。」

 見覚えのある少年。明石商業のユニホームを着ていて、背番号は『1』。明石商業の二年エース、菖蒲浩輔だった。

 「何でこんなとこにおるん?自分らの近い方使えばええやん。」
 「使えなかったんだよ。お前等のキャプテンが俺らのキャプテンと何か話してるから。」
 「え?また笹森先輩あっち行っとるん?」

 ひょい、とトイレの入り口から覗き出た顔もまた、見覚えのある顔だった。
 春も見かけた明石商業の俊足一番打者、小野だった。

 「先輩も好きやねぇ。」
 「ほんまや。別に探り入れんでも勝てる相手やのに。」
 「あ?何だと?」

 斎が菖蒲に詰め寄る。菖蒲は動じない。

 「勝つのは俺らだ。」

 言い切った斎は何処か誇らしげだが、那波はそれを見て呆れる。そんな言い切る姿は裕でお馴染みだが、まったく違う。何が違うと言うと、全てが違う。
 菖蒲は怪訝そうに眉を顰め、小野は小さく笑った。

 「お前等本気で勝てると思っとるんか?春にお前等が負けた相手やぞ。」
 「それがどうした!春とは違うぜ。」
 「どこが違うねん。同じやろ。」
 「ああ?それだったらお前等こそ…。」

 くだらない勢いで言い争う二人を余所に、那波と小野は顔を見合わせて小さく笑った。

 「馬鹿やろ、うちの菖蒲は。」
 「うちの斎も引けを取らないよ。」

 小野は笑った。

 「なぁ、俺らは二年やねん。レギュラーで二年は二人や。俺と…菖蒲。そっちも二年やろ?阪野二高の二年二人やから…チェック入れといたんや。」
 「へぇ。」
 「慶徳戦見たで。勝った方と当たるんやから。」
 「マジで?」
 「すごかったなぁ。最後の逆転満塁ホームラン。劇的やった。」

 小野は自分の事のように語る。

 「あの人が、キャプテンなんやろ?そんで、笹森先輩のライバルや。」
 「そうだよ。」
 「春はそんなや無かったけど、慶徳戦見たら改めて笹森先輩のライバルなんやと思った。」
 「俺もびっくりしたよ。言っちゃ悪いけど、うちのキャプテン部内一のチビなんだ。なのに、あんなホームラン打つなんて…って言うか、打てるなんて思わなかった。あの人見てると不可能なんて無い気がするくらいだもんな。」
 「俺らのキャプテンもそうや。」

 負けじと小野も言う。

 「一年の頃からレギュラーだったんや。そんで甲子園の球次々ホームランしとった。敬遠除けば全打席ホームランなんてのもあったくらいや。」

 那波はふと笹森の打席を思い出した。
 思い出されるのは笹森のホームランばかりだった。スラッガーとは彼の事を言うのだろう。

 「特に菖蒲は笹森先輩に面倒見てもろてるから、先輩の事大好きやねん。俺もやけど。」

 小野は白い歯を見せて笑った。子供っぽい笑顔だった。

 「そんな先輩の最後の大会やねん。負けられんのや。最後は、優勝させてやりたい。俺らが言うてどうなるもんやないけど。」
 「負けられないのは、同じだから。」

 那波は言った。

 「お互い次を受け継ぐ選手や。正々堂々本気で行こうな。」
 「ああ。もちろん。」

 未だに言い争う斎と菖蒲を見ながら那波は言う。しばらく二人を見て、斎を引き離すと用を済ませて那波は斎を引きずりながら戻って行った。


――負けられんのや。

 那波の頭の中には、小野の言葉が木霊していた。

 (俺達だって、負けられない。)

 その気持ちを表すように、那波はタイルの床を踏み締めた。