23、史上最高の… グラウンド整備が終わり、六回から試合は開始する。六回の表は阪野二高の攻撃で、打者は七番の斎から。 斎は後半戦の一番打者としてのプレッシャーを背負い、生唾を飲み下した。 (…負けられないのは、同じだからよ。) 正面の投手、菖蒲を見つめた。同じ二年生。だけど、エースピッチャー。 菖蒲には、浅賀や俊のようなストレートは無い。武藤のように打ち辛いフォームを持っている訳でも無い。そんな菖蒲が全国ナンバーツーの看板を背負っている。 きっと、その立役者が笹森なのだろう。だからこそ、菖蒲は優勝したい。させてあげたい。 その気持ちは痛いほど解る。斎も同じだからだ。 69に入って死ぬかも知れない瀬戸際で、危険も省みず助けに来てくれたのは裕だったから。 後輩だからだと言う理由で、無償で重傷を負ってまで助け導いてくれた人だから。 勝ちたい。 負けたくない。 斎は構えた。いつも以上に、やる気が出て来た気がする。 守備でしか活躍しない斎の打撃は波がある。はっきり言って、運任せの酷いバッティングをした事だってあるくらいだから駄目なのだ。 でも、今なら打てる気がする。 一球目。外角のボール。 気合が入り過ぎて打ちそうになるが堪えボールカウントを一つもらう。 多分、様子見の一球だった。 その間にも雨脚が強くなる。この雨が、阪野二高にとってどうなるのかは解らない。でも、雨天での公式戦は初めてだ。追い風とはいかないだろう。 二球目。外角からの変化球。斎はそれを空振った。 ストライクのランプが一つ点灯した。 「斎、打つ気満々だな。」 裕は嬉しそうに言った。それを聞いて那波は密かに笑った。 あんなにやる気に溢れた斎を見るのは久しぶりだったから。今までがやる気無かったとは言わないけど、どれも彼の本気では無かった。あの慶徳戦の九回裏ツーアウトの場面でさえ。 「この試合、勝つぞ。」 ポツリと禄高が言った。裕はそれに嬉しそうに笑う。 禄高はさっきの裕の言葉を思い出す。 ――俺は、あいつ等と出会えたこの道を後悔なんてしていない。 裕のその言葉が、どれだけ大きな意味を持っているのか、裕は知らない。そのくらい何気無く言った言葉だった。けど、禄高はそれが嬉しかった。 帽子のツバの裏に書かれた『史上最高』の文字。それはつまり、裕にとってこのチームは今までのどんなチームよりも最高だと言う事だ。あの笹森や浅賀よりも。 「な、裕?」 禄高は裕を見た。 「ああ。勝てる。」 裕は真っ直ぐにグラウンドを見据えて言った。 グラウンドでは、斎が鋭い打球でニ遊間を抜いて一塁に滑り込んだ。溢れるような歓声。それを受けながら斎は一塁に立った。 次の打者は八番、爾志。四番に御杖と言う天才スラッガーが現れたので、捕手に集中する為に四番を退いた男。だが、ここまでの爾志の成績は余りいいとは言えなかった。 「爾志。」 バッターボックスに向かう途中で裕が言った。 「四番退いたのは、何の為だよ。」 そこにあるのは怒りかと爾志は振り向いたが、裕は怒ってなどいなかった。 ただ、いつも通りの笑顔で仲間を送り出すキャプテンの顔だった。 (四番を退いた理由…?) 爾志はバッターボックスに立つ。後ろには笹森エイジ。爾志にとっては越えるべき相手だ。 だけど、その勝負を爾志は捨てた。阪野二高が勝つ為に。 ――四番退いたのは、何の為だよ。 一球目。内角低めのストレート。 試合序盤よりも、早くなった気がする。思わず打つのを躊躇ってしまう程いい場所に決まった。審判のストライクコール。 (それは…御杖がいるからだろ?) 爾志は二球目を思い切り振った。 しかし、見極めが甘くでバットは空を切る。ツーストライク。 爾志は無言で地面を均す。まったく集中出来ていない事は爾志自身が一番よく理解出来ていた。だから、さっきの裕の言葉を何度も思い返す。 ――四番退いたのは…。 (俺が、四番じゃ頼りないからだろ!) 爾志はバットを強く握り締めた。 集中しようと思えば思うほど出来ない。裕の言葉が木霊する。 ――四番退いたのは、何の為だよ。 ふ、と爾志の動きが止まった。 外角のボール球だった。一つ目のボール。爾志がボールと判断してスイングを止めた訳ではない。ただ、爾志は一つの考えに行き付いてしまったのだ。 (…俺の為?) 俊がサインに首振ったのも、四番を退く事になったのも、全ては自分の為? そこで、爾志は答えにようやく辿り付いた。 ――例えチームが勝っても、キャッチャーが負けたらバッテリーは負けるんだよ? 御杖の声が蘇る。 自分の勝負を捨てて敬遠で笹森を避け勝とうとした。俊が首を振ったのは、それを知っていたからだ。 四番を退いたのは、打撃よりも捕手の、笹森との勝負に集中する為だ。 (…全部、俺の為じゃねぇか。) 爾志はメットのツバを下げる。今は、仲間の顔が見られない。 こんな簡単な事に気付けなくて、ホームランを一発もらってしまった。それでも、変わらずそこにいて応援してくれる仲間を見るのが辛い。 そんな仲間にしてやれる事なんて限られて来る。 一つは、打つ事。もう一つは、笹森に勝つ事。 爾志は前を見据えた。全ての音が消えた。 「な、俊。爾志は気付いたみたいだぜ。」 裕は言った。 さっきとまるで表情が違う。いつもの集中した爾志の顔になった。 「なー、俊。俺も、お前も立場だったら多分首振ったよ。けど、お前言葉足りないよ。」 「うるせぇ。」 裕は笑う。 今は何よりも、二人がようやく通じ合ったのが嬉しくて仕方が無い。今までは通じているようで、通じていなかったような気がしていた。 随分時間がかかったけど。 グラウンドから鋭い音が聞こえた。 (ようやく、バッテリーが通じた。) 監督右京は思った。 この二人は、通じ合えないものだと諦めていたから小さな驚きだった。 このチームは才能ある選手が溢れている。やる気もある。平凡なチームが欲しがる多くのものを持っている。けど、そんな選手達がチームとして成り立つのは難しいのだ。 人間誰しもプライドがある。それも、こんな才能ある選手なのだから当然。普通なら、とっくに空中分解だ。監督が新しくて女だと言う時点でも。 けど、このチームはどんなチームにも負けないくらい団結している。 チームとして稼動しているのだ。 それがどんなにすごい事かなんて選手達もきっと知らない。 (このチームに、彼がいてよかった。そして、彼がキャプテンでよかった。) 天才じゃなくて、ひたすら凡人で努力家の彼がいてよかった。人並み以上にハンデを背負っていて、決して挫ける事の無い根性を持っている彼がキャプテンでよかった。 「蜂谷君。」 裕は振り返る。 「このチームで、よかったね。」 「?」 「君の夢の為に…このチームでよかったね。」 それは右京の素直な言葉だった。しかし。 「それは違います。」 裕は言った。 「夢の為にこいつ等がいるんじゃない。こいつ等の為に夢があるんです。」 いいチームに巡り合えた事は、裕が一番解っている。 右京は微笑んだ。 「そうね。」 こんなキャプテンだから、皆ついていく。優しいから、安心出来る。強いから、信頼出来る。 完璧な天才じゃなくて、ひたすらに『人』だからキャプテン。当たり前の事を当たり前に出来る人は少ない。 一方、グラウンドでは爾志のライト前ヒットでランナーは二塁・一塁となった。 (後半戦、守って終いにはせーへんみたいやね。) ギリギリの勝利には端から興味が無いようだ。 打って打って打って。攻撃的な試合が望みのようだ。この全国二位のチームに。 (ええよ。来いや。実力の差、思い知らせたる。) 次の打者は九番、投手市河。 つまり、次には一番が来る。一番は裕だ。前にランナーがいる限り実力は発揮出来ないのだろうけど、その時はその時なりに打って来る。 (厄介な相手する前に、ここで終わらせよな。) 笹森はサインを出した。 一球目のボール、二球目のストライク。三球目の内角の変化球を俊は打ち上げた。打球はライト上空に上がる。ランナーは一つずつ進塁しようと走り出した。俊のフライは言わば犠牲フライだ。 しかし。 「三塁!刺せるで!!」 ライトからの矢のような送球。今まで見て来た送球の中で一番早い。 斎は滑り込んだがアウトだった。 ゲッツーか、と気を抜いた爾志の傍を球が過った。 二塁に届いた球。審判がアウトを告げた。 「なっ!?」 ネクストバッターズサークルで裕は息を呑んだ。 こんないとも簡単にスリーアウト。順調にランナーは出ていた筈なのに。 バッターボックスへ向かう気満々だった裕は居た堪れなくてトボトボとベンチに戻る。その一瞬に、笹森が笑ったのを見逃さなかった。 (負けられないのは、同じやねん。) 裕は小さく舌打ちをする。 (勝つのは俺達だ。) 試合は確実に、最終回へと進んでいた。 |