24、頭脳戦


 六回裏、明石商業の攻撃。打者は三年生の中崎と言う選手からのスタートだった。
 先ほどの一瞬の連続スリーアウトがまだ記憶に新しい阪野二高は、全国二位と言う実力を持った明石商業に警戒と共に緊張していた。

 (…やっぱり、相手はあの明石商業なんだ…。)

 一塁で禄高は思った。
 テレビで何度も見た全国二位の明石商業。それが今戦っている相手。

 (勝てる…よな?)

 さっきまであったあの溢れる自信は何処かへ行ってしまったようだ。
 一点差で負けている明石商業。今年こそは優勝と掲げる明石商業は沢山のプレッシャーを背負っている筈なのに、余裕に満ち溢れている。



 「…一点差や。もう、十分射程距離やろ。」
 「そうや。引っ繰り返すで。」

 笹森は笑った。



 爾志はゆっくりとサインを出す。

 (打者は三番。次は笹森だ。)

 ランナーを残せば何をされるか解らない。ここで三番の中崎を抑えればまだ安心出来る。
 中崎はバッターボックスに立ち、正面の投手、市河俊を見つめた。オーバースローの投手は、宿敵朝間高校の浅賀恭輔と瓜二つ。

 (そうや。俺らは越えなならんねん。)

 もう、準優勝などで満足出来ない。今年こそは、最後のこの年こそは一位を頂く。
 三年間準優勝と言う苦汁を嘗めて来たのだ。それをこんな無名にもほど近い学校にやる訳にはいかない。

 中崎は打った。打球は三塁線。地を這うような低い打球だった。
 御杖はそれを捕って一塁に投げるが、中崎は滑り込んだ後で間に合わなかった。

 明石商業側のアルプスが沸く。
 そんな中でバッターボックスに立つのは四番、笹森。



 (負けん。)

 笹森はふとショートを見た。そこには打球を待つように裕がいる。春の時のようにショートにライナーを連続して打つ気は毛頭無いが。今回は完全に本気なのだ。

 (…何処見てんだか。お前の戦う相手は俺じゃねーだろ。)

 裕は笹森を見て思った。今打席に立つ超高校級スラッガーの相手はショートの裕ではなく、正面に佇む投手市河俊と後ろで構える爾志浩人なのだ。

 (戦う相手はお前やない。今はな。)

 裕の心の中の声を聞いたように笹森は心の中で回答した。そして、構える。向いた先は投手市河。



 (一球目、インローのボール。ギリギリのストレートで。)

 爾志はサインを出した。正面で俊は頷く。
 もう、一回裏のようなミスは繰り返さない。爾志がここで、笹森を越えなければ意味が無いのだ。この本気の状態の笹森を。

 だが、笹森は動かない。
 ボールが一つカウントされた。

 (…二球目、インローからボールになるカーブ。)

 俊の投げた球は爾志の指示通りさっきと殆ど変わらない速度でインローから逃げて来るカーブのボール球だった。だが、笹森は読んでいたかのように動かなかった。
 これでボールツー。

 (何なんだ、この男。相手の心でも読めるのかよ。)

 爾志は次のサインを出した。ランナーはいる。だが、牽制などしなくても盗塁するつもりはまったく無いらしい。それだけ笹森を信頼しているのか、リードする事も忘れて一塁上で勝負を見つめている。

 (三球目。今度は入れて来ると思うだろう。スライダー!)

 インコースからでは真ん中に行ってしまうが、続けてのインロー攻撃。さっきのカーブと同じくアウトに逃げて行く球だ。
 ただ、今度は速度が違う。角度も。何より、俊のスライダーは決め球だ。今度はボールじゃない。

 俊の投げた球は直球の速度でアウトコースへ逃げて行く。笹森は動いた。


 ……キィンッ……


 澄んだ音が響いた。打球はぐんぐん伸びて行く。サードからチェンジになったライトの那波がそれを必死で追った。阪野二高の多くの人が、その打球に絶望を感じた。“やられた”と。
 だが、誰よりも早く俊と爾志は安堵の息を吐いた。

 打球は、僅かにファールゾーンに切れたのだ。

 「ファールッ!」

 審判の声が響く。



 「あー惜しい!」
 「あとちょっとやったのに!」

 明石商業のベンチは今の特大ファールに心を躍らせた。次は本当のホームランだと信じて。
 危なかったと囁き合う阪野二高は、常軌を逸したそのスラッガーの力に恐怖さえ覚えた。



 (危なかった…。)

 爾志は気を取り直す。今のは俊のスライダーが打たれるはずなど絶対ないと言う油断が招いた事。この世に絶対なんて存在しないのだから打たれないはず無いのに。
 だけど、その逆もまた然りだ。絶対に打てる者などいない。

 (次は…。)

 一瞬の油断が命取り。いっそ敬遠してしまおうかとさえ思う。
 だけど、それは出来ない。許されないし、許せない。

 (でも、敬遠は逃げじゃない。一つの作戦だ。)

 敬遠を考えてしまった自分の心を救うように爾志は心の中で呟いた。そこで、一つの考えに行き着いた。

 (三振だけが、勝利じゃないんだ。)

 笹森に勝つと言うのは、何も三振だけと言う事ではない。勝つ方法は他にもあるのだ。
 そして、爾志はサインを出した。



 (…ちょっと手元狂っとったな。)

 笹森は手首を回す。

 (確かに市河のスライダーは脅威や。あの力やったら恭輔と並ぶかも知れんな。)

 そんな球を笹森が打てた理由。それは事前の調査にあった。
 相手の事を調べるのが趣味と言ってもいいほど笹森は情報収集をしている。春に対戦した事のある阪野二高なら尚更だ。

 四球目。俊の投げた球はインコースに向かって凄まじい速さで走って来る。

 (俺に勝ちたい割にはワンパターンやねぇ。こっからの変化や。)

 笹森は動かない。溜めて溜めて――…。
 だが、球は曲がらない。

 (これは…伸びる…!?)

 直球。その判断が僅かに遅れた。けれど、間に合わない訳じゃない。
 笹森は動いた。



 (直球に備えてなくても、間に合うのかよ!)

 動き出した笹森を見て爾志は舌打ちをした。だが、俊は一足早く口元に笑みを浮かべた。

 (そういう事かよ。)

 気付くのが遅かったが、この勝負は爾志の勝ちだ。確かに三振は取れなかったけども…。



 笹森の打球は高く上がった。ホームランのようなスピードで、上へ上へと飛んで行く。
 明石商業の多くがホームランを確信し、ガッツポーズを取る。だが、笹森はただ一人その打球の行方を見て“やられた”と思った。

 「センターッ!!」

 斎はえっ、と声を上げた。打球はまだ見えない。何処まで上がっているのかと不安になる。
 もしもこのまま落ちて来なかったらホームランになるのだろうかと思いながら灰色の雲で覆われた空を見つめる。雨が降っていて空は見難い。この中でたった一つのボールを探すのがこんなに難しいとは思わなかった。
 もしかしたらもうフェンスを越えてしまったんじゃないだろうかと言う不安が斎を焦らせる。

 「大丈夫だ!必ず落ちて来る!」

 那波が言った。斎はその言葉を信じて打球を探した。空から落ちて来る雨のせいで瞼を開けているのが辛い。けれど、その眼に確かに一つの黒い点が映った。

 「あった!」

 斎はよろよろと下がる。こんなに高いフライを捕った事なんて無い。

 打球は、ようやく斎の手の中に落ちた。これでやっとワンナウト。だけど、大きな意味のあるアウトだった。中崎はそれを見て慌てて走り出す。試合は忙しなく動くが、バッターだけは止まった時間の流れにいるようだった。



 (今のは、俺の負けって訳やね。)

 笹森はメットのツバを下げてベンチへと戻る。三振は取られなかった。けど、アウトを取られてしまった。
 あそこで熱くなって、意地でも三振を取ろうとして来たなら間違い無くホームランだった。決め球を特大ファールされた後なのだから、意地になってもおかしくない場面で場違いなほど冷静だった。

 だが、明石商業はランナーをニ塁にまで進めた。ワンナウトランナーニ塁。
 次の打者は五番。



 その後、阪野二高は五番を笹森と同じく犠牲フライで抑えたが、惜しくも一失点をした。
 だが、その後は続かずにスリーアウトになりチェンジ。七回の表、4−4に追いつかれた阪野二高の攻撃は一番、裕からと言うチャンスだった。