26、意地 九回の表、阪野二高最後の攻撃。打者は九番、投手久栄。 ついに迎えた最終回は、5−4で阪野二高リードから始まった。絶対に負けられない戦いにも、勝敗が下されようとしている。 阪野二高側のアルプスから凄まじい応援が聞こえる。飛び交う打者、久栄の名前。 一年生ながら甲子園のマウンドを踏んだ少年は、静かにバットを構えた。 (明石商業は、このままじゃ終わらない。) 七回で交代した俊の代わりに投げた久栄だからこそ、誰よりもよく解っている。ギリギリで抑えた危ない打線。いつ点が取られてもおかしくなかった。 だけど、その強力な打線よりも何よりも、そのプレッシャーが恐かった。 打たれたら負ける。 崩れちゃいけない。 迷ったら捕まる。 全国ニ位と対戦するのは、久栄にはまだ早かった。そのプレッシャーに堪え得るだけの精神力が備わっていない。 それに比べ、俊は途中崩れ掛けたとは言え相当なものだと言える。もう、プライドが高いだの、負けず嫌いだのという理由ではない。すでに俊は全国区の投手だ。 全国一の浅賀恭輔に対抗し得る力を持っているのは、もうこの阪野二高のエース市河俊しかいない。 だからこそ、裕は俊を交代させた。 全ては明日の朝間高校戦に備えて。 つまり、この試合勝つ事が前提。負けられない。 勝つ事前提で、久栄はこの試合に出ている。 一方、一点差で負けている明石商業のエース菖蒲は軽く咳き込んだ。気持ちを入れ替えるように咳払いをすると、正面に向き直る。 そこには今まで自分の球を受けてくれたキャプテンで四番の笹森がいた。 (…負けん。俺をここまで支えてくれた先輩の為にも。) 笹森は正面でサインを出す。慣れ親しんだサイン。 球種、球速、コース。それ以外にも笹森はサインを作った。例えば。 ――必ず勝つ。 笹森はサインを出し、笑った。 力が抜けたように菖蒲は少し下を向いて口を歪めた。 (もちろんです。) 菖蒲は、投げた。 久栄のバットは空を切り、球はそれを越えてミットに収まった。審判のストライクと言うコールが響く。 一球ごとに揺れる応援。その大勢の声も、全てが久栄の耳から消えた。 (…まだ、こんな力あるのかよ。) 準決勝で、明石商業は投手がエースの菖蒲一人。他は凡庸な選手。ここまでの道程は殆ど菖蒲が投げて来た。準決勝としてのシードなどの舗装された道ではあったけれど。 阪野二高のエースは三年生で、投手は一人じゃないのに崩れかけていた。それなのに、何故この男はここまで来てこの威力の球を投げられるのか。 (マジで、どんだけ体力あんだよ。) この雨天で、コントロールも定まらなくて。 何故、こんなに強い。 阪野二高ベンチでは打席に立っている久栄をベンチから身を乗り出し、雨に濡れるのも構わず皆が応援していた。ただ、監督とマネージャーだけがその奥で静かに試合を見守る。 「監督。」 マネージャーの外岡紗枝は呟くように言った。 マネージャー部長として度々ベンチ入りした紗枝。選手たちの近くで試合を見守ってきた少女。 「裕は、大丈夫ですよね。」 祈るように紗枝は両手を握りながら言った。 三回の一塁滑り込みで転び、中々起き上がらずにうつ伏せていた裕。その記憶がまだ新しい。 場違いではあるけれど、紗枝は今打席に立っている久栄よりも、その様子をネクストバッターズサークルで見守る裕の心配をしていた。 「裕は、負けませんよね。」 「…大丈夫。信じてあげて、あなたのキャプテンを。あなたの旦那でしょうが。」 右京は悪戯っぽく笑った。つられて紗枝も力無く笑う。 丁度その時、グラウンドからバッターアウトの声が響いた。打者、久栄はメットのツバを下げながらベンチへと戻って行く。 代わりにバッターボックスに立ったのは。 『バッター一番、蜂谷君。背番号六番。』 ワンナウトランナー無し。その場面で裕はバッターボックスに立った。最速の一番打者として、キャプテンとして、笹森エイジのライバルとして。 裕は静かにバットを掲げる。曇り空から降り注ぐ雨は酷くなり、今が九回でなければ延期も考えられた。 いつも見るあのギラギラの真夏の太陽も無い。蒼い空も存在しない。初めての雨天での試合。それもこの甲子園準決勝。裕にとっては約束の場所。 「最終回に回って来るなんて、運命みたいやねぇ。」 笹森は笑った。それはあくまでも声だけで、顔は真剣な勝負の顔。 「…決着を着けよう、今日、この場で。」 裕は言った。 中学の時から、バッターの裕のライバルは笹森だった。四番の座は不動ではなく、少しでも隙を見せれば奪われた打順。 ホームランを打てる最高のスラッガー。そんな四番に相応しい男と三年間争って来た。 中学最後の試合で、四番に座ったのは裕だった。笹森のような長打、ホームランは打てないものの状況に応じて打ち分ける事の出来る器用さがあったからだ。 (笹森との野球全てに、決着を着けてやる。) 全国ニ位を、超えてやる。裕は静かに構えた。 裕の目が菖蒲に向き、集中し始めた瞬間、全ての音が消え去った。 (最強の打者…か。) 笹森は全国一の投手が言った言葉をふと思い出す。 彼の言う最強とは、ホームランを量産する事では無いのだ。 最強の条件は、一つ目に自称でない事。つまり、周りの人間がその実力を認めている事。 一球目の指示を出し、笹森は身構えた。今示したコースに菖蒲の投げた球が届く。 滑るように滑らかに菖蒲の投げた球は進む。ギリギリのボールは、審判の判定によるとストライクだった。まず、一つ目。 ――ドンドン パーパー。 ――ハーチーヤーッ! 阪野二高側のアルプスからの応援。 一点差で勝っている阪野二高だが、たった一点で勝つ事は難しいと解っている。何故なら、九回裏の明石商業の攻撃は、二番からスタート。必ず四番まで回るのだから。 (一点じゃ、勝てんで。) 一点差で勝っているこのプレッシャーのかかる場面で、裕は笑って見せた。 そのプレッシャーを楽しむように。 その後、裕は二球目にストライクを取られカウント2−0に追い詰められた。 ここで打てば打率十割の驚異的な記録を阻むのは、天才キャッチャー。 そんな場面で、裕は笑顔を崩さない。口だけに浮かべた笑顔は挑戦的で、菖蒲は密かに恐怖さえ覚えた。 (落ち着け、菖蒲。カウント2−0や。焦る場面やない。) 笹森はサインを出す。正面で菖蒲は頷く。 だが、笹森も菖蒲同様に僅かながら恐怖を感じていた。春からの数ヶ月で、ここまで上り詰めた阪野二高。そのキャプテン蜂谷裕。 そんな事を考えると同時に、笹森は『最強』の条件、二つ目を考えた。 二つ目の条件、それは。 菖蒲は投げた。滑らかなストレート。また速くなった。 だんだんと速度を増す奇妙な球。だけど、その球はバット直前で落ちた。 菖蒲の決め球、フォークはこの回に来てもなおその力を持ち誰もが予測したコースから逃げて行く。 だが。 キィン、と鋭い音。 打球はピッチャー正面。一度は納まりかけた打球。しかし、痛烈な打球はその手を弾いて内野を越えた。 「セカンッ!止めろ!」 誰かが叫んだ。無意識の内に、一塁は無理だと理解したのだろう。 確かに一塁は間に合わなかった。だが、裕は一塁で足を止めていた。 (やりよったな、裕。) 笹森は奥歯を噛み締める。 打率十割。その記録を、裕はこの甲子園の準決勝で確かに刻み付けたのだ。 最強である二つ目の条件。『打てない球が無い事』。 勝負の世界に絶対は存在しない。絶対に打てる球も、絶対に打てない球も無い。その中で打てない球が無いと言う。 その後、二番の新は送りバントで自分はアウトになるも裕を二塁に進めた。また、三番の禄高はツーストライクの中でフォークをピッチャーゴロ。一塁に滑り込みランナーは三塁・一塁となった。 その場面で打席に立ったのは四番。 『バッター四番、御杖君。背番号五番。』 阪野二高最強の打者に打順が回る。明石商業にとっては苦しい状況。 三塁に全国一の俊足を置き、打者は四番。一打席目で打ったホームランがまだ記憶に新しい。 (…もう、点はやらん。) 笹森はサインを送った。菖蒲は頷く。 ここで御杖に打たれてしまえば、明石商業が勝つ確率は少なくなる。パワーでなく、テクニックで飛ばして来る厄介な打者だ。 一球目、アウトローのストレート。ギリギリのコース。 それを御杖は見送る。 「…ストライクッ!」 審判は言った。 (ストライクか。ギリギリ外れてると思ったけど。) 御杖は構える。 二球目、インハイのストレート。対角線を綺麗につく。再び御杖は見送った。 「ボーッ!」 今度はボール。予想通りと言うように御杖は小さく息を吐いた。 (…掠ってるっぽいんやけど。微妙やなぁ。) 笹森はサインを出した。 次は、インハイからの変化球。フォークだ。 (引っ掛けろ!) 菖蒲の投げた球はサイン通りのフォーク。寸分の狂いも無い。ストレートから急に落ちる球に御杖は落ちる直前でスイングを止めた。 「ストライク!」 ツーストライクワンボール。カウントは整ったが、御杖に対してフォークは決め球としての効果を示さない。 笹森は冷静なまま次のサインを出した。 アウトハイのストレート。ギリギリのコースだ。 御杖はそれを思い切り打った。打球は高く上がり、三塁側のファールゾーンへ落ちた。 「ファールッ!」 審判の声。笹森は心の中で舌打ちした。 また、菖蒲の球が速くなった。この湿気でストレートが投げ易い為だろう。お陰で持って行かれずに済んだ。 あと少し振り始めていたらもしかしたらホームランだったかもしれない。 (さっきから際どいな。今のはコース甘かったのに、ミスった。) 九割以上の人間が際どいコースと言うストレートを御杖は甘いコースと思った。 だからこそ、今打ち損じた事が悔しかった。 五球目、インローのストレート。 御杖はそれを見送る。 「ボールッ!」 これでカウントは2−2になった。 御杖は小さく息を吐く。 (危ない危ない。今のはボールか。) 打ちそうになっていた自分がいた事に御杖は内心冷や汗をかく。だが、表面にはそんな素振りを一切見せずに次の球に備えた。 (これでカウントは2−2や。2−3になるんはちょっと辛い。) 笹森はサインを出す。カウントを一杯にはしたくない。四球で出塁なんてのも真っ平ご免だ。 満塁策にしても、先頭があの一番打者じゃ話にならない。 六球目、菖蒲は投げた。 もう四隅は全てついた。二度目になるアウトローのストレート。今までの中で、一番見極めが甘かったコースだ。 御杖は動き出した。待っていたかのような迷いの無いスイング。だが、それは御杖の待っていた球では無い。 ストン、と落ちた。フォーク。 (…フォークッ?!) ち、と思いながら御杖はその球を何とか掬い上げた。 鋭い音と共に打球は上がる。鉛色の曇り空高く。 (ボールになる変化球。…くそ。) 打球はマウンド上の投手、菖蒲の元に落ちた。 「アウトーッ!」 スリーアウト。結局、阪野二高は最終回に点を得る事は出来なかった。 5−4のまま明石商業最後の攻撃を迎える。 チェンジでベンチに戻って行く明石商業ナイン。入れ違いに阪野二高はグラウンドに散って行く。 最後の攻撃は二番からスタート。最低でも四番まで回る。 「菖蒲、ナイピッチ!」 笹森は菖蒲の頭をガシガシと撫でながら言った。菖蒲は照れ臭そうに笑う。 最後の攻撃を無得点で抑えた明石商業のベンチの空気は自然と明るくなっていた。 「やっぱり、お前は最高の投手や!」 「褒め過ぎっすよ!」 自然と笑顔が零れる。 「この回、最低でも俺まで回る。必ず、勝つで。」 笹森は言った。 毎年準優勝と言う看板は、いつしか名誉で無くなった。まるで汚点のように周囲からは白い目で見られた。 そんなものを後輩に残していく訳にはいかない。 (最後なんや。後輩にはいいものを残してやりたい。) 笹森はグラウンドを見渡し、仲間を見た。 「頼みます、キャプテン!」 「お前が打たんと、誰が打つねん!」 「必ず勝ちましょう!引っ繰り返してやんねん!」 笹森は、笑う。 「当たり前や!!」 声が響いた。 |