27、勝負の世界 九回裏、明石商業最後の攻撃。負けているまま最終回を迎えるのは、決勝の朝間高校戦を除けば初めてだった。 打者は二番、菅家。俊足を持った男。明石商業唯一の一年生だった。 対する阪野二高のバッテリーも一年。ルーキーとしても互いに引けない勝負。 (相手は俊足か。) 滝は菅家を見る。 俊足の打者が一番。壁となるランナーはいない。こんないい条件は滅多に無いだろう。 だけど、不思議と緊張は無かった。俊足だろうが、何だろうが所詮はその程度。それ以上でも以下でもない。 (俺達には全国一の俊足がいる!それに比べたら。) 春にこの明石商業に負けてから、阪野二高は“俊足”と言う事に気を置いていた。 だからだろうか。どんなに足の速い打者も怖くない。 一球目、久栄は投げた。 右のサイドスロー。今大会で残っているサイドスロー投手はもう、久栄だけ。唯一の左サイドスローは阪野二高が三回戦で下してしまったから。 (サイドスロー…。猪口才な。こんなコントロール重視のピッチャー。) 菅家は動き出す。 迷いの無い真っ直ぐなスイングは出だしから小さな風を作り出すほど鋭かった。 (…コイツ、俊足のパワーヒッターかよ。) 久栄は小さく舌打ちした。 左のサイドスロー投手、武藤は観客席で久栄の投球を見ていた。 自分と対を成す右のサイドスローを。 (サイドスローは、オーバーに比べたらスピードは無い。球威の勝負じゃ、浅賀や市河の足元にも及ばない。) 下半身の力が重要になるサイドスロー。スピードも球威も出難い投球フォーム。 コントロール重視で変化球が命の非力な投球フォームと言われる事もある。だけど、武藤はそれを誇りに思っている。 (非力?それがどうした。力で押すだけじゃ勝てないんだよ。) 滑るような球筋。ストレートと言う球種さえも他とは異なる投球フォーム。 (非力と無力はイコールじゃない。見せてやれ!サイドの力!) 久栄の投げた球は菅家のバットを潜ってミットに飛び込んで行った。審判のストライクと言う声が高々と響く。 笹森は菅家の空振りを見て面倒臭そうに息を吐いた。 (これだからサイドは嫌やねん。) 一般的に使われる投球フォームは大体スリークウォーター。菖蒲の投法だ。 だけど、この大会に残っている主力投手でそれはたった一人しかいない。 (やけど、投法だけで勝てるなんて思わんでや。結局、最後にモノ言うんは努力やねん。) 菅家がこの同じ一年と言う投手を嘗めていた事は謝る。だけど、菅家は実力のある選手だ。 才能云々じゃなくて、努力して来た男。 菅家は久栄のストレートを叩いた。 打球は痛烈なライナーとなって飛んで行く。ニ遊間に向かって行く矢のような打球。明石商業の誰もが抜けろと叫び、祈った。 だが。 「通すかよ!」 セカンドの新が飛び付く。砂埃が舞って、いつまで経っても打球は姿を現さなかった。 新の手の中に、確かにそれはあった。 「アウトー!」 観客席が揺れた。 バッターが入れ替わる。裕は砂を叩く新に近付いた。 「ナイスキャッチ、新。」 「ああ。…今日の俺、送りバントばっかで格好悪いよな。」 ポツリと新は言う。 「そんな事ねぇよ。百発百中でバント決めるお前、すっげぇって思うよ。」 「…打率十割決めた男に言われても、惨めなだけか。」 新は鼻で笑った。 「お前が、二番打者だったから。」 新はふっと裕を見た。そこには、いつもの笑顔で裕が立っていた。 「…お礼も懺悔も、試合後にしようぜ。沢山あんだろ?」 「そうだね。」 次は三番。ここからクリンナップに入る。 打者は中崎。六回裏で三塁線に痛烈な打球を打った男。 (…一点差。) 引っ繰り返せない点差じゃない。だけど。 (この試合の勝敗は…。) 中崎はバットを握り締めた。今の自分の考えに酷い嫌悪感を覚える。 それは、中崎の勘。リトルから野球を真面目に続けて来たからこそ感じた事。 ただの勘に過ぎないけれど、もう遅い。それを中崎は一瞬でも考えてしまったのだ。 ゴクリ、と唾を飲み下す。 (…馬鹿なヤツって、笑わんでや。) 中崎はバットを短く構えた。 その様子を見て滝は目を顰める。 (…バント?) 中崎は足のある打者じゃない。いや、普通よりは速いけれど。 でも、明石商業の抱える三人の俊足打者に比べれば微々たるものだ。それなのに。 (…何にしても、出塁はさせない。次は四番だから。) 滝はサインを出した。 バットを短く構える中崎。何やら神妙な表情。 笹森はただ、静かにそれを見ていた。 「何で、いきなり短く構えてんのや!」 「切り替えるならともかく!」 中崎の意味不明の行動に誰もが口々に意見を言い合う。だけど、その意味を笹森は漠然と感じとっていた。 (…お前は、理解してしもうたんやね。) 笹森は拳を握り締めた。 グラウンドから濁った金属音が響く。 中崎のカットした打球は後ろに飛んだ。審判はファールを告げる。 (…カット?) 不可解な中崎の行動に首を傾げながら滝は次のサインを出す。 だが、中崎はその球も、その次も、そのまた次の球もカットした。 「一体、どうしたんすか!中崎先輩は!」 菖蒲は叫んだ。それは笹森以外の誰もが思っている事だった。 クリンナップに選ばれた中崎の打撃は十分頼りになる。全国ニ位である明石商業の三番なのだから。 なのに、中崎はバットを短く持ってカットし続ける。 「打ったらええやないすか!ちゃいますか!?」 菖蒲は中崎に向かって叫んだ。だが、その声は本人に届かない。 ネクストバッターズサークルで笹森はメットのツバを下げた。 「やる気無いんすか!?」 「落ち着けよ、菖蒲!」 菖蒲の言い分は正しかった。明石商業のナイン、応援さえもそう思っているだろう。 だけど、小野は漠然と中崎の心の中が透けて見えて来ていた。 (やる気無い訳とちゃうねん。やる気は…きっと誰よりもある筈や。) 目の奥が熱くなるのを感じた。自然と目に涙が溜まっていく。 (もう、解ってしもうたんやろ…!) 表に出せない感情が涙となって零れ落ちた。 いきなり泣き出した小野を見て菖蒲が困惑する。 「なっ…!どうしたんや、小野!何で泣いとんの?!」 ワンナウトランナー無し。ピンチなんかじゃないのに。 肩で息をしながら中崎は構える。もう、何十球カットしたか解らない。久栄も息が上がっている。 バットは変わらず短く構えたまま。 (馬鹿な事やって事は解っとる。せやけど、今は…。) 中崎は再び短く構え備える。だが、球は中崎のバットを避けてミットに収まった。 ストライクの声が、絶望的に聞こえた。 (今は、あいつ等と少しでも長く野球したいねん…。) 少しでも長く、彼等と同じチームでいたい。 小さな願いだった。小さな。だけど、どんな事にも終わりは訪れる。 ――初めまして、笹森エイジって言います。よろしくー。 ――頼むで、中崎! ――中崎先輩頑張れ!! ――勝つで! (俺らの野球、まだ終わりにしたないねん。まだ…!) それは祈りにも近い願いだった。 だけど、それを神は許しはしない。 「ストライクッ!バッターアウト!!」 目を伏せ、バッターボックスから去って行く中崎を裕は見ていた。 「…なぁ、勝負って残酷だよな。」 新はポツリと呟いた。 「誰だって一生懸命やってんのに選ばれるのは片方だけ。頑張ってんのにさ…。」 「…それが勝負なんだよ。」 裕は少しの間目を閉じた。 ここまで来るのに、一体幾つの夢を潰して来たんだろう。 ――甲子園に行くのは、東光だ。 東光学園の如月。 ――負けねぇよ。…慶徳は。 慶徳学院の武藤。 その他にも大勢の夢を潰してここに立っている。誰かの夢を犠牲に到達した舞台。それでも、構わなかった。自分が勝ちたかったから。自分が、この舞台に立ちたかったから。 なんて自己中心的な理由だろう。だけど、それは誰もが一緒。 「誰かが勝てば誰かが負ける。そんなの、始めから解ってる事だろ。」 「…馬鹿野郎。」 新は笑った。 「声震えてんだよ。」 裕は動けなかった。 去って行く中崎の後姿から目を離せない自分がいる事に裕は気付いていた。 『バッター四番、笹森君。背番号二番。』 ツーアウトランナー無し。バッターボックスに立ったのは明石商業最強の打者。 笹森はついさっき、中崎とすれ違った時の事を思い返していた。 「…ごめん…な…。」 涙をボロボロ溢しながら中崎は言った。そんな様子を見て、笹森は何も言えなかった。 尤も、そんな状態じゃなくても笹森は何も言えなかっただろうけど。 「…大丈夫や。心配せんでええよ。」 一体、何が大丈夫なのか。 笹森はそれ以上何も言えなかった。 負ける訳にはいかない。ついさっきまでは、笹森自身そう考えていた。 けれど、今は違う。 (勝ちたい!) 自分が何者なのか、この試合がどんな意味を持つのか。 夢も誇りも殴り捨ててたった一つ思った事。 勝ちたい。 絶対に負けたくない。 笹森の瞳に、一つの炎が灯った。 (本気の眼や。) 浅賀は観客に混じって一人思う。 中学を卒業して初めて見た笹森の本気の目。実際の炎を見ているようでゾクゾクする。 (このグラウンドに、生半可な覚悟で勝負しとるヤツはおらん。) 明石商業も、阪野二高も。 裕も笹森も。さっきの中崎だって、この勝負の行方を知ってしまっても認めたくなくってもがいていた。 (…それでも、勝つのはたった一校や。) 笹森はバットを掲げた。ホームラン宣言。 このピンチの局面での笹森の行動に応援は激しくなり、観客席は揺れた。ここで本当に打ってしまえば伝説だろう。その意味では、慶徳戦の裕の行動は伝説だが。 この男のホームラン宣言と言うのは、予言にも近い。 本当に打ってしまうから恐いのだ。 (…中崎。お前の気持ち、よう解っとるよ。一秒でも長く野球しとりたかったんやろ。でも、俺はちゃうねん。俺は…本気で戦いたいねん。) 初球。 笹森は構えた。 滝のサインを受け取った久栄が頷く。 久栄の右手が真横からのスイング。 笹森は、振り切った。 ……キィイィンッ…… まるで、断末魔のような音だった。 誰かの悲鳴のような。 誰もが天空の打球を見上げる。ホームランを思わせる力強い打撃。 「………お前の勝ちや、裕。」 ポツリと笹森は呟いた。 空高く上がった打球は落ちて来ない。六回のような特大フライを思い起こさせるがそれ以上だった。 だけど、打球はやがて重力に従いゆっくりと落ちていく。 落ちた先は、ショートだった。 「…ありがとう…エイジ。」 裕はまったく上を向かないままで、捕球した。 それでも、打球は確かに裕の手の中に収まったのだ。まるで手品のように。誰も動けない。何も話せない。審判さえも試合終了のコールを忘れて沈黙していた。 笹森は、ゆっくりとバットを手放した。カラン、と言う小さな音がきっかけとなって審判が動き出す。 「ゲームセット!」 わぁ、と彼方此方から声が上がった。 誰もが必死だった事を、誰もが知っていた。勝者も敗者も必死だった。一生懸命だった。でも、勝つのはたった一校だ。それがどれほど残酷か。 「この試合は5−4で神奈川県代表、阪野二高の勝利!両校礼ッ!」 「ありがとうございましたッ!!!」 その瞬間、歴史が変わった。 朝間高校と明石商業のツートップの時代は、終わった。王者への挑戦権を得たのは、阪野二高だった。 「…エイジ!」 裕は叫んだ。ベンチへと帰って行く笹森の後姿を捕まえて。 笹森はゆっくりと振り返る。その眼に涙はなかったけれど。 「ありがとう…。」 そう言って、裕は帽子のツバを下げた。 勝ったのは自分なのに、涙が出そうだったから。 そんな裕の様子を見て笹森は勇み足で近付く。そして、言った。 「負けんなや!!」 裕は顔を上げる。 「誰にも、負けんなや。お前は最高の選手やねん。弱くなんて無いんや。」 「エイジ…。」 「決勝、絶対勝て。…ここまで来たんや。勝って来い。」 裕の目に涙が溜まる。けれど、溢しはしない。 「当然だッ!!」 笹森は嬉しそうに笑い、踵を返した。 そして、明石商業の仲間の中へと消えて行った。 笹森はゆっくりとベンチの中に入った。そして、口を開く。 しかし。 「お疲れ様でしたッ!!」 真っ先に声を発したのは菖蒲と小野だった。 涙でぐしゃぐしゃになりながら二人は言った。 「先輩と同じチームで野球出来て…ほんまよかったです。」 「ありがとうございました…。」 大声で泣きながら二人は言う。 「先輩との野球、まだ終わりにしたないです…!」 「うわああん!」 号泣する二人を見て、笹森はどうすればいいか解らずにいた。 そこに中崎が近付く。 「ありがとうな、エイジ。」 眼を真っ赤に腫らした中崎は泣いてはいなかった。けれど、腫れた目のせいか目付き悪く見える。 「お前がここにおって、ほんまによかった…。」 「ありがとう。」 三年間共に野球を続けて来た仲間達が次々にお礼を言った。 「…頼りないキャプテンで、すまんかったな…。」 「何を言っとんねん。」 「アホか。…お前は最高のキャプテンやったぞ。」 中崎は笹森の肩を抱いて言った。 ポロ、と涙が零れた。溢すまいと決めていた涙が、幾つも零れる。 「〜〜〜ッ!」 声にならない声。 誰もが涙し、誰もが笑った。 「泣いとんのか、エイジ!」 「雨や!」 「嘘やん!」 万年二位止まりの明石商業。最後は、その二位さえも及ばなかった。 けれど、そんな選手達には今までで最高の拍手が贈られていた…。 裕は笹森と少しだけ会話すると自分のベンチに戻って行く。すでに裕が最後だった。 急いで仕度しようと思ったが、正面に影が立ち塞がる。その影が誰なのか、顔を見なくとも解った。 「ナイスファイト、俊。」 裕は顔を上げないまま、俊を避けて行こうとした。 殴り飛ばしてまで交代させた報いを、受けるのは当然だと思っていた。だから、例えこのまま俊に殴られたって構わなかった。 「よくやったよ、キャプテン。」 俊の口から出たのは、思いもよらない言葉だった。 「お前は、最強だ。」 俊はそう言って、其処をどいた。裕はようやく顔を上げたがその表情を見るにはもう遅過ぎた。 「おい、蜂谷。」 新が呼ぶ。 「監督が呼んでたぜ。」 「…解った。」 準決勝を勝ち進んだのは、王者朝間高校。そして、全国ニ位を下した阪野二高。朝間高校は天才や才能のある選手の集まる名門。逆に、阪野二高は無名から這い上がった普通高校。 決勝戦は、誰も予想しない試合になろうとしていた。 |