28、カウントダウン


 全国ニ位の明石商業との試合を終え、勝利に酔い痴れる阪野二高。吹き付ける暴風や豪雨も忘れて喜び合っていた。まだ決勝があるのに涙を流す者さえいる。
 それだけ強敵だったのだ、明石商業は。しかし、その相手に見事リベンジを決めた阪野二高は決勝戦に駒を進めた。相手は王者、兵庫県代表の朝間高校である。

 勝利を喜ぶ阪野二高メンバーの中に、主役とも言える少年がニ人いなかった。
 キャプテンと、副キャプテン。つまり、裕と禄高である。



 裕は監督に呼ばれある場所に向かった。そこは、病院だった。
 付き添いで来た禄高も自然と顔色が悪くなる。脳裏には裕の一塁滑り込み時の転倒が何度も繰り返されていた。

 「…なぁ、裕。」
 「大丈夫。」

 裕は禄高の言葉を遮る。その顔色は禄高以上に悪く、言葉にも真実味がまるで無い。
 本当は皆、薄々気付いているのだ。

 「何とも無いよ。」
 「……。」

 禄高は、頷く事さえ出来なかった。



 一方、二人を除いた阪野二高メンバーは強い雨脚の中バスに乗り込み宿舎へと急いでいた。

 「市河、肩平気?」

 御杖は振り返り、後ろの座席の俊に話し掛けた。
 俊は俯いたまま低い声で唸るように肯定した。

 「…大した事じゃない。」
 「へぇー。じゃ、今日はゆっくり休んでおいてよ?明日頼んだ!」

 御杖は笑う。何処と無くその仕草が裕に似ていて、俊は小さく笑った。
 だが、当の本人はここにはおらず。普段病院とは無縁の男だった為か、こうして監督に呼ばれ病院に行っていると思うと嫌な予感がする。

 「さーて。飯食おうぜ。腹減ったし。」

 俊の考えを何処かに吹き飛ばすように、大声で爾志が言った。

 「賛成!肉食いてーな!」

 新が続く。そんな様子を見つつ俊は窓の外を見た。
 振り続く雨は止む事を知らず、明日の決勝は延期だろうなと思った。



 薬臭い一室で、座り心地の悪い小さな椅子に腰掛けて裕は正面の医師を見る。若い生真面目そうな男。先ほど取ったレントゲン結果を見て目を顰めている。

 「成長痛ってヤツですね。」
 「へ?」

 医師は柔らかく笑った。

 「成長痛です。急激な成長に骨がついて行けなかったんでしょう。」
 「でも、俺背伸びて無いですよ。」
 「それは今だけですよ。すぐに一気に大きくなります。」

 裕は傍にいた禄高と顔を見合わせた。
 思わず拳をぶつけ合う。

 「蜂谷君は年齢の割りに背が高くない。本来ならもっと大きくなる筈なんですよ、君のご両親と同じくらい。」
 「…って事は170cm越えますよ!?」
 「そうですね。」

 裕は笑顔を隠し切れなかった。
 コンプレックスとまでは行かないかも知れないが、小さな背は裕にとって最も忌むべき短所。ついに、それから開放される時が来たのだ。

 「…すっげー!聞いたか、禄高!」
 「ああ!170cmのお前か…。なんか気持ち悪ぃな!」
 「うっせー!」

 わいわいと盛り上がる二人だが、医師は苦笑いを浮かべた。

 「喜ぶ事だけじゃないよ。」
 「え?」

 医師はレントゲンを指差す。

 「解るかい?成長について行けず、骨に罅が入っているんだ。これは手術で取り除く他無い。」
 「手術…?」
 「オスグット・シュラッター病って知ってるかな?」

 それを聞いて禄高はギクリとする。

 「…そういや、姉ちゃんの友達のバスケ部の人もそれになって運動出来なくなったって…。」

 医師は苦笑いをする。

 「そう。…普通なら専用のサポーターを使うんだが、ここまで進んでしまうとね…。」
 「それって、どういう事ですか。」

 裕は拳を握り締めた。じわりと汗を握っている。

 「簡単に言おう。…ドクターストップだ。今後の運動を禁ずる。破れば、君の将来、日常生活に関わるよ。」



 ザー… ザー…。
 窓に強く打ち付ける雨の音が、響いていた。



 老舗のような平屋造りの古風な旅館。入り口には朝間高校宿舎と書いてある。
 王者、朝間高校は今回も上がって来るはずの明石商業が負けた事で盛り上がっていた。

 「明石商業負けたやんか!」
 「相手何処や?神奈川?」
 「阪野第二高校やて。公立やん。」

 騒がしい下級生を余所に、試合に出るレギュラーメンバー。それも三年生は広間のソファーに腰掛けていつものように落ち着いていた。
 しかし、明石商業が負けたと言う事実は大きい。

 「…まさか、明石商業が負けるとは。」
 「ほんまや。今年も上がって来ると思っとった。」
 「…お前は違うやろ。」

 天岡は浅賀を見た。浅賀は人事のように何も言わず手に持った白球を転がしている。

 「俺は、阪野二高が上がって来ると思っとったよ。」
 「ほんまかぁ?」
 「でも、あいつなんやろ?お前の言う“最強”とかって。」

 からかうように天岡は笑った。

 「せや。」

 浅賀も小さく笑いながら答える。

 「そんで…、俺のライバルや。」
 「ライバルならここにもおるやろー。」

 玄関から声が聞こえ、そこにいた全ての人間が眼を向ける。
 びしょ濡れのビニール傘を片手に糸目の男はやれやれと溜息を吐いた。

 「…笹森やーー!!」
 「明石商業の笹森が来よったでーー!!」
 「スパイやーー!!」
 「やかましい!」

 突然の笹森の来訪に騒ぎ立てる朝間高校生。毎回毎回決勝で当たる為に、すっかり仲良くなってしまった笹森。まだ大声で騒ぐ声に糸目を更に細くした。

 「何の用や。…負け犬。」
 「やかましい!しばくで!!」

 自分の家のように笹森は宿舎に入っていく。

 「スパイにでも来たんか?」
 「アホか。…今更、お前等の情報なんていらんっちゅーねん。」
 「あー!阪野二高に売る気やろ!」

 天岡が指差し笑った。

 「そんな訳無いやろ。そもそも、あいつらが金払ってまで欲しいような情報あったらとっくに王者は明石商業やろ。」
 「ははっ。そうやね。」

 浅賀は笑う。

 「…ちょっと、話があるんや。」
 「何時切り出すかと思っとった。俺もや。」

 浅賀はすっと立ち上がり、笹森と二人で中庭へ向かった。後ろでは未だに笹森の登場を驚き騒ぐ声が聞こえていた。



 中庭も当然の如く雨。本格的な大雨。
 中庭が見渡せる縁側に浅賀と笹森は腰掛けた。

 「準決勝、惜しかったな。…ある意味。」
 「どんな意味や。」
 「お前の野球、やっと本物見れたのに。」
 「…そうかも知れんな。」

 笹森は空を見上げる。その遠い眼には雲も雨も映ってはいない。

 「何で、最後の打席初球に手ぇ出したんや?」

 準決勝の九回裏。ツーアウトの笹森の打席。投げられた初球を笹森は打ち損じでショートフライに終わった。

 「勝負って、思ったからや。」
 「その球だけが?」
 「そうや。そのままズルズルやっとっても、結果は変わらん。いや、下手したらもっと惨めやったかもなぁ。」
 「…お前は、惨めやなかったよ。」

 普段、浅賀の口から聞かないような言葉に笹森は少しだけ驚く。

 「…俺な、敗者はいつも惨めやと思っとった。負けるっちゅう事は恥やと思ってたんや。」
 「否定は出来んな。」
 「でも、本当の恥は負ける事ちゃうねん。負けて、立ち上がれない事が恥やねん。」

 ふっと思い出す記憶。色褪せセピア色に染まった写真のような断片的な記憶。だけど、笹森はそれを永遠に忘れない。
 もう三年以上も前の思い出。中学の頃の。

――最後の一瞬まで、みっともなく足掻いてやる。無様でも夢を掴んで、胸を張って言ってやる。俺は、勝ったって!

 裕のあの叫びにも近い言葉を聞いたのはいつだっただろうか。
 泥だらけで、言葉通りの惨めな姿。ボロボロで、余りに頼りなさげだった。

 「本当に大事なのは、勝つ事や無い。戦って奪い合った先にそれは無い。」

 笹森は続ける。

 「本当に大事なもんは、常にそこにあるもんや。…今の俺が言っても、負け犬の遠吠えやけどな。」

 笹森は卑屈に笑った。だけど、浅賀は笑わない。

 「あ、あとな。…裕、お前と同じ事言って来よった。お前ほんまに勝ちたいんかーって。」
 「はは、やっぱりな。」
 「俺そんなに勝つ気無いように見えたんかなぁ。」
 「そうや。…やから、春お前に負けた裕は悔しかったやろなぁ。あいつはホンマに勝ちたいって思ってんのに、思ってないお前に負けたんやから。」

 それは一体、どれほどの悔しさだったんだろう?
 必死になって練習して、泥だらけになって走り回って。勝ちたくて、勝ちたくて。
 でも、勝利は訪れなかった。

 「…負けたら、もっと練習するだけやろ。アイツは、勝者が強いからやなんて思ってへん。」
 「勝ったヤツが強いんや…てか?」

 浅賀は鼻で笑った。

 「決勝は多分、明日は出来へんな。豪雨や。」
 「明後日…も下手したら無理かも知れへんな。」
 「ま、何にせよ頑張れや。観客席から見とるよ。」
 「ああ。」

 笹森は立ち上がる。

 「…玉座退く準備しといた方がええんちゃう?」
 「退かん。」
 「はは。これ勝ったら伝説やね。三年連続全国制覇やしな。」
 「…それだけちゃう。…俺は…。」

 浅賀は唾を飲み下した。無意識に作った拳に力が篭る。

 「…俺は…、勝つんや。……為に…。」
 「は?何て?」

 笹森は聞き取れず訊いたが、浅賀はそれ以上何も言わなかった。



 刻一刻と時は迫る。
 それぞれの思いを乗せながら、最後の試合は近付いていた。