29、浅賀の戦い


――本当に大事なのは、勝つ事や無い。戦って奪い合った先にそれは無い。

 浅賀はぼんやりと縁側で雨に濡れた中庭を見ていた。何がある訳でも無く、何を見ている訳でも無い。
 ただ、脳裏にはついさっきの笹森の言葉がリピートされていた。

 (…なら、何処にあるんやろ。)



 † † †

 数日前。

 「…ほんま、情けないな。」

 夏らしくよく晴れた日だった。
 その日、朝間高校は甲子園の一回戦。結果は2−0で勝利したが、王者と呼ばれる朝間高校が一回戦でたったの二点しか取れないと言うのは余りに情けない結果。
 確かに相手は投手力のあるチームだった。それでも、この結果は王者に相応しくない。先が思い遣られると監督からは喝を受け、チームは宿泊先のこの老舗旅館でミーティングを行っていた。

 「何が王者や。」

 浅賀は言った。
 その日の浅賀の成績は、投手としてはノーヒットノーランを決めた上、打者としてはニ遊間を抜けるヒットを打ち得点を入れた。文句無し。

 「こんなんで、優勝出来ると思っとんのか。」

 誰も何も言えなかった。重い沈黙が流れる。そんな中、堪え切れなくなったように天岡が口を開いた。

 「…お前は、ほんまに優勝したいんか。」
 「何やて?」
 「恭輔は、あの阪野二高の“ユウ”ってヤツや明石商業の笹森と戦えれば満足なんやろ!…阪野二高は地区予選で1−0やで?そんな来る筈の無いヤツの為野球やっとるヤツに言われたないッ!!」

 考えるよりも先に身体が動いた。気付くと、その手は天岡の胸倉を掴んでいた。周りが必死に止めようとしている。

 「お前に何が解んねん!余計なお世話や!俺はお前なんか……!」
 「恭輔ッ!!」

 キャッチャーの二宮亮が叫び、間に入る。

 「もう、ええやろ…。その先言うなや。」

 浅賀は何も言えなくなり、手を離すとその場を後にした。
 あの時、二宮がが止めてくれずにその先を言ってしまっていたら、きっと永遠に後悔しただろう。



――お前に何が解んねん!余計なお世話や!俺はお前なんか……!

 自分の言葉を反芻する。一体、その先に何を言おうとしていたんだろう。
 頭に血が上って、思ってもいない事を言ってしまったのだろうか。それとも、それはつい出てしまった本音なのだろうか。

 「恭輔!」

 振り返ると、そこには二宮がいた。小走りで傍まで駆けつけると、言い難そうに口を開いた。

 「…天岡も、悪気があった訳ちゃうねん。」

 二宮は言う。

 「俺もな、時々思うんや。お前はたまに遠くを見とる。…初めは、お前が天才やからプロの世界でも見とるんかって思った。せやけど、ちゃうやん。お前が見とるんは、中学からのライバル達やろ?」

 苦笑する二宮に浅賀は何も言わない。

 「…俺達は、そいつ等には適わん。解っとんねん。解っとるけど…寂しいやんか。チームメイトやのに…。」

 それは、二宮が今まで隠し続けて来た本音だった。
 また、それは浅賀の核心をついていた。だから、何も言えなかった。

 「…俺は…。」

――俺は、お前等を信用して無いんかも知れへん。

 言いかけて、浅賀はそれ以上言えなかった。言ってしまえば、全て崩れてしまうと解っていたから。

 「…愚痴ってすまんかったな。忘れてや。」

 二宮は小さく笑い、来た道を引き帰して行く。その距離が離れるにつれて、自分の周囲に闇が満ちて行く気がした。



 (俺は…何様やねん。一体何処が偉いねん。いい気になっとる。所詮、俺かて一人じゃ何も出来へんやろ。何見下しとんのや。)

 何度も何度も、自分を戒めた。けど、一度考えてしまった事は消せやしなかった。
 真夏の暑い日差しの下を歩き、気付くと辿り付いたのは緑の原っぱ。病院の傍の公園だった。

 戻ろうかと方向転換しようとした瞬間、目の端で一つの姿を捉えた。ベンチに座る小さな後姿。

 (…裕?)

 思わず肩を叩いた。だが、振り返ったのは別人だった。
 中学生くらいの小さな少年。

 「…お母さん?」

 浅賀は思わず目を顰める。
 体格のいい高校生にお母さん?だけど、その焦点の合わない眼で気付いた。

 「お前…眼が…?」



 冷えた缶ジュースを片手に二つ持ち、一つは少年に、もう一つは自分にと開けた。
 暑い中での冷たい飲み物が喉を通ると、生き返ったような気になる。喉を鳴らせ飲む浅賀に比べ、少年は少しずつ不審そうに飲んでいる。

 「…別に、毒なんか入れてへんよ。」
 「あ、そういう訳ちゃうねん。クセやから。」

 少年は笑った。

 「俺の名前は浅賀恭輔や。」
 「…浅賀恭輔って、もしかしてあの朝間高校の?」
 「知っとんの?」
 「知っとるよ!有名人やんか!うわー!」

 少年は嬉しそうに言う。それを見て浅賀も小さく笑った。

 「俺は裕太や!大浦裕太!」
 「裕太か。」
 「せや。」

 裕と裕太。偶然かな、と浅賀は小さく笑う。

 「こんなところで何しとん。」
 「日向ぼっこしとる。」
 「暑く無いんか?」
 「寒がりやねん。平気や。」

 裕太はニコニコと笑う。

 「俺、野球大好きやねん。昔は野球やっとったし。」
 「ほんまか。ポジション何処や。」
 「サード!」

 裕と余りに共通点が多すぎて、浅賀は声に出さないよう笑った。

 「ホットゾーンか。すごいやん。」
 「やろ?自慢やないけど、チビやったのにそれなりに出来たんやで。…目ぇ、見えなくなる前まで。」
 「…目、まったく見えへんのか。」
 「見えん。真っ暗や。」

 浅賀にはその理由まで訊く勇気は無かった。
 寝ても覚めても暗い闇。そんな世界に放り込まれたのはどれだけ恐いのだろう。どれほど寂しいのだろう。どれほど、悔しいのだろうか。

 「やから、俺、野球も出来んようなった。ほんまは甲子園夢やったんや。」
 「そんで、ラジオ聞いとんのか?」

 浅賀は、裕太の横の黒いラジオを見た。自分のオンボロラジオと並ぶ古さだ。
 目の不自由な裕太は、テレビを見れない。本当の試合を見れない。だから、音だけで。

 「このラジオすぐ調子悪なんねん。ポンコツや。」
 「今ラジオ少ないからなぁ。俺のもそうや。」
 「ラジオ持っとんの?おっさんみたいやね。」

 裕太は笑った。

 「お前、目ぇ治らへんの?」
 「…手術したら、治るかも知れへんてお医者さんは言っとった。でも、チャンスは一回やねん。失敗したら、一生この闇ん中や。」

 こんな歳で、と同情せずにはいられなかった。
 夢もある。希望もある。力もある。それなのに。神様は何て残酷なんだろう。

 「…夢、諦めんのか。」

 こんな事、言っていい筈無いのに。言えた義理じゃないのに。
 どうして、自分の口は思っている事と正反対の事を言ってしまうのかと思う。

 「俺なんか無理やもん。目ぇ見えへんし。…どうせ、チビやし。」

 さっきまで楽しそうにしていた裕太の表情が沈む。謝るべきなのかも知れない。でも、相変わらず口は正反対の事を言う。

 「言うとくけどな、チビなんて言い訳にしかならへんで。俺の知っとるヤツは160cmも無いしお前くらいのチビやのにキャプテンで甲子園来たで。」
 「ほんま?」
 「ほんまや。」
 「その人、どんな人?」
 「ガキや。チビで馬鹿でアホで不器用で要領悪くてお人好しで。でも、真っ直ぐで芯のしっかりした男やねん。自分には身長も才能も無いって思いながらも努力して自分の前見据えとる。…笹森エイジって知っとる?」

 裕太は少し考える。そして、すぐに閃いたかのように顔を上げた。

 「明石商業のキャッチャーや。」
 「そうや。そいつと、笹森と、甲子園で戦う約束しとんの。」

 その時、ふと声が過った。

――そんな来る筈の無いヤツの為野球やっとるヤツに言われたないッ!!

 それでも、裕は確かに甲子園まで来た。だけど、それまでだった。
 戦える保証なんて何処にも無い。天岡の言う事は尤もで、自分の言っている事がいかに夢物語かと思ってしまう。

 「戦えたん?」
 「…まだや。もしかしたら、来れへんかもな。」

 冷静になって考えてみれば、天岡の言う事がいかに正しい事だったか解る。
 現実を見据えた言葉。

 「来るよ!!」

 落ち込んでいたかに見えた裕太は顔を上げ、大きな声で言った。

 「絶対、来るよ!…中学の時の監督が言っとった。才能はいずれ超えられるもんやけど、努力は超えられんて。努力した分だけ花が咲くって!」
 「……そやな。」

 夢物語だと、笑ってしまえば幾らか楽になれたかもしれない。
 でも、それを言えるほど冷徹にはなり切れなかった。

 「俺な、尊敬する人がおんねん。今はどうなったか知らんけど、その時は野球やってた人や。中学生やった。…まず、ダントツにチビやねん。だけど、足速くて、四番やねん。キャプテンやった。それで、最後の夏に全国一位になったんや。」

 何処か聞き覚えのある話に浅賀は耳を傾ける。それが真実に行く着くまで、そう時間は掛からなかった。

 「自分はチビやけど、だから出来る事があるって言っとった。この兵庫県が生んだ名選手や、桜庭さんは。」
 「桜庭?」
 「そうや。桜庭裕。一人だけ関西弁やなかったから、よう覚えとる。」

 一つの風が吹き抜けた。それは、紛れも無く裕本人だ。
 チビで、誰もが見放すような非力で凡才な選手。

 「その人と会うんが、俺のもう一つの夢やねん。」

 もう、三年も前の試合。それが未だに誰かの心に残り、誰かを救う。
 それはきっと、甲子園三連覇なんかよりずっとすごくて、偉い事なんだと思う。

 「会わせたるよ。」
 「え?」
 「そいつに、会わせたるよ。」
 「ほんまに!?」
 「ああ。…今の名前を教えておいてやる。蜂谷裕って言うんや。」
 「蜂谷?」

 浅賀は頷く。

 「…決勝に、上って来る男や。」
 「って事は、それが約束したって人なんやね。」
 「そうや。」

 すると、裕太は可笑しそうに笑った。

 「なんや、恭輔も信じとるやんか。約束守るって信じとるやん。」

 浅賀はきょとんとして裕太を見つめた。裕太は相変わらず焦点の合わない眼で笑いながら続ける。

 「でも、心の底からは信じとらんかっただけやろ。やから、ちょっとした事で揺れんねん。」
 「…俺、ちょっとした事って話したっけ?」
 「そんな気ィしただけや。」

 裕太の鋭さに少し驚く。そして、浅賀はその鋭さを知っている。
 とんちで勝った子供のような笑顔も。

 「…そうやな。」

 信じていないのは、自分だった。
 本当に信じていれば、誰に何を言われようと気にならなかった筈なのに。悪いのは天岡じゃない、ましてや裕でもない。悪いのは信じれきれなかった自分自身だった。

 「約束したんや。あいつ等は必ず来る。…そん時は、俺が勝つ。」

 視界が澄んで行くような気がした。頭に上った血が一気に冷えた。
 自分が信用していなかったのは、仲間でもなく、彼等でもなく、自分だったのだ。

 「恭輔が絶対勝つ?」
 「ああ。」
 「100%?」
 「100%や。」

 裕太は少し黙り込んだ。

 「なあ、恭輔約束して。」
 「何や。」
 「決勝で、絶対に勝つって。」
 「当たり前やろ。何でや。」
 「俺、そしたら手術する。」

 心臓がドキリと音を立てた。

 「100%勝つんやろ?」
 「ああ…。せやけど、何で?そんないきなり決めてええんか。」
 「俺の人生や。俺は、夢を諦めたくない。」

 裕太はあくまで何でもない顔をしていたが、その缶を掴んでいる手は微かに震えていた。

 「ここで諦めたら、もう二度と野球出来へん。チビである事を理由に夢を諦めたくない。」

――俺なんか無理やもん。目ぇ見えへんし。…どうせ、チビやし。

 さっき、裕太自身が言った言葉。けども。

 「俺の手術な、成功確率低いんやって。でも、恭輔が優勝したったら俺も成功する気ぃする。だって、100%なんやろ?」

 浅賀は一瞬言葉に詰まった。

 (コイツは、戦おうとしとる。自分と、恐怖と、運命と。)

 裕太がようやく辿り付いた決意なんだ。無駄にしたくない。叶えてやりたい。医者ではないから成功など約束出来ない。治してやれないなら、せめて勇気付けてやりたい。

 「任せとけ!絶対俺は優勝する!やから、お前の手術も成功させたる。約束や。」



 † † †

 そんなに昔の事でも無いが、懐かしむように思い出す浅賀はごろりと寝転んだ。
 年季の入った木造の天井がいい味を出している。まるで何処かの民宿を彷彿とさせる。だが、部屋は広く料理もおいしいこの宿舎は、この甲子園の出場校の何処よりもいい場所だと思っている。全国一位の、王者の特権だ。

 (負ける訳には、いかんのや。)

 裕太と約束した。必ず勝つと。手術を成功させると。

 (今の俺は、勝利以上に優先させるものは無いねん。)

――本当に大事なのは、勝つ事や無い。戦って奪い合った先にそれは無い。

 笹森の言葉を再度思い起こす。
 笹森は、一体何が言いたかったのだろうか。勝つ事よりも大切な事は、一体何なのか。そして、それは一体何処に在ると言うのだろうか。

 「…恭輔ー!」

 ドタバタと大きな足音を立てながら天岡が走って来る。廊下が軋む音が聞こえた。

 「今なー、明商対阪野二高戦のビデオ見とんねん。研究や。」
 「あ、俺も見る。」
 「早よ来いや!」

 再び、天岡は大きな足音を立てながら走って行った。
 子供みたいに元気な天岡は、子供のように純粋なのだと思う。

 浅賀は、あの日宿舎に帰った時の事を思い出した。



 † † †

 日が暮れて帰った宿舎。なんだか入り辛くて、扉を開けるのにさえ数分かけた。
 そして、意を決して引き戸を開けると。

 「…恭輔ーーッ!!」

 玄関に走って来たのは他でも無い天岡だった。

 「遅いやんか!心配したやろ!事故に会うたか、誘拐かと思って皆で警察に連絡しよて言っとったんや。」
 「アホ!」

 天岡の後から出て来た二宮が天岡を小突いた。天岡は小さく「いてッ!」と言い横に弾き飛ばされる。

 「そんな事言っとったんはお前だけや。皆、恭輔なら大丈夫やって言っとったやろ!」
 「やけど、心配やんか!」

 よく見ると、天岡の頬が薄く腫れている。殴られた跡のような。それも一ヵ所じゃない。
 あの後しばかれたな、と思い浅賀は小さく笑った。

 「…あのな、ほんますまんかった。悪いのは俺やねん。打たなきゃあかんのに打てんで…。不調を恭輔に八つ当たりしたったんや。ほんますまん!」

 天岡は勢い良く頭を下げる。その項にもしばかれた跡が残っていて浅賀は笑いを隠せなかった。

 「でもな、恭輔は俺らの事仲間として見てないような気ぃして嫌やったんや。信用されてへんみたいな。せっかく仲間なんやから…。もっとなぁ…。」

 だんだん声が小さくなって行く。それに比例して天岡も小さくなって行くように見えた。

 「お前の一番の仲間になれん事はもう解っとんのや。でも、悔しいやんか。こうして王者とか呼ばれて、最強のチームになれたのに信頼されてへんなんて。」
 「……俺は…。」

――俺は、お前等を信用して無いんかも知れへん。

 あの時言いかけた言葉が蘇る。でも、浅賀は言わなかった。言えなかった。

 「…俺の仲間は、お前等や。一番の仲間は、お前等やねん。今日、色々考えて気付いたんや。俺はお前等を信用してない訳ちゃうねん。俺が信用してへんのは、俺自身やった。」

 この答えを出すのに、三年もかけてしまった。

 「俺の方こそ、すまんかった。」

 ふと顔を上げると、天岡が手を震わせて立っていた。目に涙を一杯溜めて。
 強がってるくせにすぐ泣くのだ、天岡は。

 「恭輔〜〜ッ!」

 その次の瞬間、天岡の首にラリアットが炸裂した。
 ふっとんだ天岡は、浅賀の方へ傾く。倒れていく天岡を浅賀が軽く避けると、天岡は地面にのめり込む勢いで顔から落下した。

 「恭輔遅いやん!何しとったんや!」
 「心配したで!あ、そうや!天岡は謝っとったか?あいつアホやから何言うか解らへんねん。アホやから。」
 「ちゃんと皆でしばいといたで!」

 ぞろぞろと集まり、ついには全員集合した。玄関は人がわらわらと集まっている。
 その間も天岡は動かない。

 「…お前らーッ!!」

 天岡は勢い良く起き上がる。皆が一瞬驚き一歩引く。その中に天岡は飛び込んで行った。

 「さて、そろそろ飯や。食堂行こうや。」

 自分から飛び込んで行ったくせに、一方的にしばかれる天岡。そんな様子を見ながら浅賀は小さく笑い食堂へと向かった。
 後ろでは、天岡の怒号とも悲鳴ともつかない声が木霊していた。



 † † †

 (俺の仲間は、あいつ等や。)

 馬鹿でアホで単純だけども、誰よりも信頼出来る最高の仲間。

 浅賀は起き上がり、広間へと歩き出した。
 広間からは相変わらず、天岡の怒号とも悲鳴ともつかない声と楽しそうな笑い声が響いていた。