30、王者への挑戦


 決勝戦が行われる予定だった日は、記録に残る程の豪雨の為延期が決定した。
 明石商業との試合の疲れが抜けない阪野二高にとっては正しく恵みの雨。雨の為ろくな練習も出来ないままだったが、時間は進み次の日を迎えた。
 その日は、台風のような豪雨を忘れてしまうほどの晴天。雲一つ無い青空は日本晴れと呼ぶに相応しい。相応しいと言うともう一つ。当日は驚くほどの真夏日となった。



 アスファルトが灼熱の太陽のお陰で陽炎を浮かばせている。道行く人もまるで地獄を歩いているかのような暗い表情。

 「…暑い…。」
 「うるせぇ、しゃべんな。黙ってろ、斎。」

 ポツリと呟いた斎に対し新がここまで辛辣な言葉を浴びせるのは、斎が、皆があえて言わなかった事実をいとも簡単に言ってしまったから。皆遠まわしに暑いとは言っていたが、はっきりとは誰も言わなかった。
 球場へと向かうバス内の冷房は下りた時の事を考えて弱い。外に比べれば天国のような車内ではあったが、車内の人々にとっては些細な違いでしかなかった。

 「くそー。甲子園に冷房がついてりゃいいのに。」
 「はは、無理だろ。」

 高校野球と言うのは、過酷なスポーツ。真夏の炎天下の中で何時間も走り、投げ、打つ。
 肌を焦がす灼熱の太陽は敵味方無く、選手はもちろんの事、観客達にまで照り付ける。日本ではそれ以上に湿気が多く、それが人々の体力を消費させる。
 それでも、選手はベストな状態で戦う。暑さも湿気も跳ね除けて。



 甲子園球場へと向かうバス車内は、緊張からか、今までの疲労からか目的地へ近付くほど奇妙に静まり返っていった。
 やがて、口を開く者はいなくなり、皆はこれからの決勝戦の重要性を痛いほど肌で感じ取っていった。



 バスが到着したのは、到着予定時間よりも三十分も早かった。だが、静寂の車内の重い空気を堪えて来た選手達には丁度いい羽休めにもなった。

 「…甲子園…。」

 初めて見たかのような感激の表情を浮かべ、裕は呟いた。
 緑に覆われた甲子園球場。地区予選を突破してからはずっとここで戦って来たはずなのに、初めて来たような気がしてならなかった。
 涙腺が緩んでいるのが解る。力を抜けば涙が零れるかもしれない。思えば、本当に初めて甲子園に辿り付いた時、この感激はまったくなかった。ただ、地区予選を勝ったのだと――。

 「うわぁ…。」

 嬉しくて、堪らない。
 その感激を堪えるように裕は両手を握り締めて、ガッツポーズをした。それが余りに遅過ぎる喜びだと理解しながら。
 その横で、右京は小さく笑う。

 (…子供のよう。)

 他の選手のように、緊張がまるでない。あるのは、底知れぬ喜び。
 相手はあの王者、朝間高校だと言うのに。観客の多くが朝間高校のファンで、いつも決勝に上がって来る明石商業を負かした阪野二高のファンなど皆無。
 多くのプレッシャー。重圧となって選手の背中に圧し掛かる。
 それにうろたえ自分を見失い、自信を無くす者もいる。だが、それを承知で笑う者もいる。



 「…何笑ってんだよ。」

 不機嫌気味に新は言った。
 ベンチへと移動を始め、蛍光灯の照らす廊下を列になり歩くその時も皆の空気は重かった。皆が俯き、不安を隠し切れずにいる。準決勝とは比べものにならない。たった一回違うだけで。

 「お前恐くねーの?」
 「…は?恐い?」

 やがて、廊下を抜ける。
 薄暗いベンチ。だけど、その奥にはグラウンド。光に溢れた舞台。

 「恐くねーよ。」

 広いグラウンド。今日も暑くなりそうだ。
 茶色の土に、緑の芝生。あの豪雨の後なだけあって湿っぽい。
 空には、雲一つ無い。大きな空。高いビルなど見えない。こんな好天は初めて。

 「すごいと思わないか?」

 朝間高校のベンチが見える。向こうも準備を始めている。さすがに王者は落ち着いたいつもの様子。だけども、油断は無い。皆真剣な表情をして、乱れが無い。相当いいチームだ。
 裕は顔を上げる。

 「俺達は今、あの朝間高校と同じ位置に立っているんだぜ。あの王者と――。」

 テレビで見ていた。ずっと昔から。
 王者と呼ばれ、栄光に輝き続けるあの朝間高校を。
 憧れるだけの存在で、届くとは思っていなかった。でも、浅賀は確かにそれを掴んで見せた。
 だけど、自分には届かなかった。そんな朝間高校と今、対峙している。

 「王者、朝間高校か…。」

 新はポツリと呟いた。

 「知ってる?そのエース、浅賀恭輔のもう一つの呼ばれ方。」
 「覇王。」

 答えたのは御杖だった。

 「覇王、浅賀恭輔。高校生には大袈裟な名前だと思ったけど、丁度いいかもね。」

 御杖は意味深に笑いながら言う。

 「そう、相手は王様なのさ。勝つ事が当たり前…いや、頂上に君臨するのが当たり前。下の事なんて何も知らずに玉座から見下ろしている。」

 王様と言うのは、どんな気分だろうか。多くのものに恵まれて、逆境など味わった事が無いのだろうか。
 上から見下ろすのはどんな気分だろう。気持ちがいいのか。

 (でも、それは俺の性に合わない。)

 裕は胸の内で小さく笑う。

 「俺達は挑戦者。王者への、たった一校の挑戦者なんだ。」
 「…上のヤツを、下のヤツが倒す事をなんて言うか知ってるか?」

 意地悪っぽく笑いながら御杖は言った。


 「下克上。」


 裕は笑う。俊や爾志、新などはおどろいた表情をした。

 「お前、馬鹿のくせによく知ってたな。」
 「…昨日、脩に訊いた。」

 してやったりの笑顔を浮かべ、裕は観客席を見渡す。
 誰が誰など到底判別不可能だが、その中には間違い無く皆の家族などが応援に来ている。もちろん、俊の双子の兄である脩も。そして、裕のたった一人の肉親である弟の瑠も。それどころか、地区予選で下した東光学園の如月や朝倉、甲子園の三回戦で下した武藤、準決勝で下した笹森。皆来ているかも知れない。
 それだけの大きな舞台なのだ。最後の夏を締め括る大舞台。

 「…さ、行こうぜ。」

 決勝戦を前に、最後の練習へ。



 「すっごいなぁ。」

 団扇で太陽光を遮りながら脩は言った。
 今まで脩も部活で忙しかった為、俊の野球をする姿など殆ど見れなかった。だが、今日は違う。俊や裕の姿を見れる。

 「な、瑠。お前の兄ちゃん、このチームのキャプテンなんだよ。」
 「知ってるよ。…野球馬鹿もここまで極めれば才能かもね。」

 兄の好きなスポーツを嫌い、サッカーを始めた弟。始めは活躍などせず、小さな背故に埋もれていった兄の姿を見て育った。たかが身長で決められてしまうスポーツなどと思い、距離を置いた。
 でも、所詮そんなものは関係が無いのだ。中学では最後の夏、全国制覇をして見せた。そして、今。

 「昨日テレビでインタビューされてたよ、裕。すごいよね。相手は王者とか呼ばれてるんだろ?」
 「うん。今日勝ったら、全国三連覇だって。」
 「そりゃー…。すごいプレッシャーだ。」

 脩は自分の最後の大会を思い出す。
 中学から高校にかけての結果。全国第二位。シングルの決勝で、惜しくも負けてしまったのだ。相手は子供の時からテニスを続け、世界的に注目されるいわゆるサラブレッドだった。
 そんな相手の目を見た時、感じられたのは勝利への飢え。勝つのが当たり前なのではなくて、勝たなければならない。負ければ全てが終わる。自分も、それを包む世界も。
 脩が戦ったのはその全国一位の選手ではなくて、瞳の奥に巣食う野獣だったように思う。
 だから、脩は知っている。王者朝間高校の背負うプレッシャーも、挑戦者阪野二高のプレッシャーも。

 だから。


 「阪野二高は、勝つよ。」

 この王者を相手に、阪野二高は必ず勝つ。
 確証も何も無いけれど、脩は信じた。子供のように。

 「当たり前じゃん!ここまで来て負けるようなチームじゃないでしょ。」

 自分の兄の率いたチームは。一時は大嫌いだった兄だけども。
 瑠は自分の中学最後のサッカーを思い返す。兄のようなこんな大舞台には行けなかった。ただ、その他大勢の部活と同じように惨めでもなく、かといって素晴らしい訳でもなく終わった。
 死ぬほど勝ちたいと望んだ訳じゃないし、負けたくないと奥歯を噛み締めた訳でも無い。ただ、なるようになっただけ。それでも、今は何よりも勝利を望んでいる。それこそ死ぬほど。
 ここまで来た兄に負けて欲しくない。勝って欲しい。自分の事よりもずっとそう望む。


 阪野二高は、負けないのだと。



 その頃、息を切らせて球場に辿り付いた姿が二つ。長身の男子高校生。
 試合開始を目前に、観客としては随分と遅く立ち見が当然。彼等のように遅刻した訳でも無い観客が立ち見なのだから仕方が無い。

 「…ったく、寝坊なんて格好悪ぃな。」
 「いいだろうが、別に。俺らが出る訳じゃねぇし。」

 自分を慰めるように、如月昇治は言う。
 地区予選で甲子園の切符を逃し、これまでテレビでしか試合を見て来なかった如月も最後の夏。終わったのは随分前だが、最後くらいここに来ない訳にはいかない。

 「それにしても…、あいつ等も有名人だな。地元帰ったらすげーぞ。」
 「甲子園応援キャンペーンみたいのやってたしな。甲子園饅頭とか。神奈川だっつーの。」

 朝倉は皮肉っぽく言い、如月も笑う。

 「…もしもさ、野球が個人競技で…俺と蜂谷が一騎打ちしたらどっちが勝つと思う?」

 朝倉の質問は何か意味があってのものではない。ただ、突発的に思い付いて訊いてみたくなっただけだろう。でも、その問いに如月は真剣に対処した。

 「お前。」
 「社交辞令無しで?」
 「ああ。だって、個人競技なら一人で点取らなきゃならねぇし。蜂谷にそんな事出来るかよ。あいつには足しか無い。パワーなんて無いんだから。」
 「団体競技なら?」
 「…訊くまでもねぇだろ。」

 その結果は、もう地区予選の時に出ている。

 「つか、お前も四番ならあっちの四番と比べろよ。何だっけ、御杖?」
 「…どっちが勝ってるよ?」
 「御杖。」

 如月は自分で言って大笑いした。あの天才的な四番が地区予選の時からいたら、東光学園は歯が立たなかっただろう。パワーは無いがテクニックがある御杖の野球は無名高校の四番レベルではない。
 それどころか、阪野二高には無名高校に相応しくない才能が眠っているように思う。エース市河にその相方であるキャッチャー爾志。御杖はもちろん、副キャプテンの禄高。目立ってはいないものの細かな技術の優れた新に、天才那波、むらがあるがセンス抜群の斎。それに、抑えで登板した久栄。そのキャッチャーの滝は頭脳だけでなく打撃においても優れている。
 これだけの天才がいるのに無名だった阪野二高。天才同士は打ち消し合うのか。

 「さて、この試合は見物だぜ。」
 「ああ。王者と呼ばれる最強のチーム朝間高校対、素材の揃った無名高校阪野二高。最強のエース対最強の打者か。もう、ここまで来ると力量は五分五分かもな。」

 如月は顔を上げる。雲一つ無い青空と灼熱の太陽の下。最高の野球日和。
 試合開始を目前に、両校は練習を終えた。



 「皆集合ー。」

 試合開始の挨拶を前に、裕は皆に集合をかけた。
 わらわらと集まって行く仲間の表情は、球場に入った時よりかは幾らか明るい。少しは緊張も解けたよう。だが、本調子とは行かず練習もちらほらとミスが目立った。
 皆、この試合をするのが恐いのだろう。ミスをするのが、負けるのが。そして、勝つ事が。

 「今日は、決勝戦だ。」

 裕の言葉に皆の顔が強張る。だが、裕は小さく笑い続けた。

 「…勝っても負けても、俺ら三年には最後の試合だ。」

 脳裏に浮かぶのは、一年の頃からの思い出。
 負けた試合では奥歯を噛み締めて涙を堪え、勝った試合は皆で大喜びした。本塁に滑り込み、セーフ判定をもらった時の嬉しさ、三振した時の悔しさ、先輩がいなくなってしまう哀しさ、新しい出会いの希望。
 沢山の思い出が一瞬にして駆け巡る。その全てがあっての今なのだ。

 「恐いか?」

 さっきの新の問いを思い出す。そして、皆の顔を見渡した。
 動揺する皆の目。皆の瞳は問いを肯定している。あの俊や御杖でさえも。

 「…何を恐がってもいい。でも、これから俺達が“野球”をすると言う事だけは恐がるな。純粋に野球しよう。後悔なんて残らないくらい一生懸命に、必死に。今までの頑張りを全部ここに置いていくつもりで。」

 裕は被っていた帽子を脱ぎ、引っ繰り返してツバの部分を前に出す。
 泥や汗雨に風化しつつあるが、油性マジックの文字で確かに“史上最高”と書かれている。

 「最高の試合にしよう。」

 死ぬほど望もうが、勝てない相手には勝てない。でも、一生懸命にやったら必ず結果はついて来る。流した涙の分だけ強くなれる!
 勝敗なんてのは結局最後に出るもので、自分達には変えられないものかも知れない。ならば、自分達は自分達に出来る最高の事をしよう。諦めじゃなく、希望で。
 皆は裕と同じように帽子を脱ぎ、そのツバの文字を指で撫でた。地区予選の時は何一つ書いていなかった帽子は、甲子園の切符を掴んだ日からこの文字が刻まれた。



 『両校整列して下さい。』



 放送が聞こえ、皆顔を上げる。そして、それぞれの顔を見合わせた。

 「…行くぞッ!!」
 「「おおッ!!」」

 阪野二高ナインも、朝間高校ナインもグラウンドへと駆ける。
 これが最後の試合。それぞれの思いを抱きながら列を作る。


 「これより、全国高等学校野球選手決勝戦、兵庫県代表朝間高校対神奈川県代表阪野第二高校の試合を始めます!!両校礼ッ!!」

 「「お願いしますッ!!!」」