31、覇王 試合開始。 先攻は朝間高校。対する阪野二高の投手は一年、久栄。甲子園の三回戦からお披露目となった右腕のサイドスロー投手だ。その実力は慶徳の武藤のお墨付き。 先頭打者の直衛は二年。ポジションはセンター。 「先頭切るぞー!」 グラウンドの彼方此方から声が返って来る。 (何時の間にか、皆の緊張は無くなったみたいだ。) 裕は静かに構えた。 太陽が眩しい。そして、何より暑い。動かずとも汗が滲み出る。意識が朦朧として来る。けど、そんな場合じゃない。せっかく皆が纏まってるのだから。 直衛は足が速い。二年にして王者朝間のレギュラーなのだから、足だけの起用では無い。 さっきまで緊張でガチガチだった阪野二高とは違って落ち着いていて、きっちり仕事をするだろう。 滝はサインを送る。 (先頭は切る。) この試合の一番最初の打者だから。 その決心をしつつ慎重に配球を組み立てた。 前進守備の阪野二高を見て浅賀は小さく笑った。 (直衛は足だけのヤツちゃうぞ。) グラウンドから鋭い音が響いた。 打球は投手横で高くバウンドし、三遊間を抜ける…と言うところでショートに捕まった。 「ファーストッ!」 後ろに抜けようとする打球をその方向に傾きながらもキャッチし、着地もまだなままにスローイング。手から球が離れ、裕自身は後ろにそのまま倒れ込んだものの送球は真っ直ぐに禄高のミットへと進む。 送球がミットに近付くと同時に直衛も進み滑り込んだ。まだ一回の表だと言うのに歓声が大きい。 「セーフッ!」 僅かな差だったが、一瞬直衛の方が速かった。注目すべきはその滑り込みの技術。そして、足の速さ。今まで対戦した選手の誰よりも速い。 味方の一人を除いては。 「あーくそ。」 残念そうな声が彼方此方から上がる。阪野二高側の応援席は残念そうな溜息で溢れていた。 砂を払いつつ裕は起き上がる。 「ドンマイ、惜しい。」 御杖が手を貸す。その手を取って裕は立ち上がった。 序盤から盛り上がる試合展開に誰もが目を見張る。阪野二高が先頭を出してしまったのは、本当に久しぶりだった。 「さすが王者。楽に抑えさせてはくれないか。」 「王者のくせに貪欲だからさ。ま、こっちはもっと飢えてるんだよね。」 顔を見合わせ笑う。パシ、と手を合わせて二人はそれぞれのポジションに戻って行った。 先頭が出てノーアウト一塁と好調の朝間高校。二番がバッターボックスに入る。二番はセカンドの高平。 高平は一塁の直衛を確認すると構えた。 朝間はスクイズ有りのチーム。チャンスは一つだって見逃さない。 久栄は振り被る。そして、真横からのスイング。 高平はふ、とバントに切り替えた。 (…掛かった!) 滝は心の中で小さくガッツポーズ。高平の打球は浮いた。打球は三塁線寄りのピッチャーより前でふわふわと頼り無く浮く。 走り出したのは御杖。 「俺が捕る!」 走り掛けた久栄が動きを止める。落ちようとする打球に御杖は飛び込んだ。 グローブの先にストン、と球は落ちた。審判のアウトと言う声。だが、息は吐かない。 一塁の直衛が二塁を蹴った。俊足がここでも活きている。立ち上がれない御杖。 だが、御杖からの送球。 完全に起き上がらないまま久栄へのパス。直衛は滑り込む瞬間だった。 「蜂谷先輩!」 無人の三塁に裕がカバーに入る。久栄の右腕から球が放たれた。 わっと皆の視線が集まった。 「…アウトッ!!」 阪野二高側のアルプスが揺れる。裕は冷や汗を拭った。そして、すぐさま御杖に駈け寄って今度は手を貸す。御杖はゆっくりと立ち上がって砂を叩いた。 「ナイス御杖。ああ、焦った。」 御杖は苦笑する。 直衛のような足のある打者を一回から三塁に背負いたくは無い。貪欲な朝間に対抗するには同じくらい貪欲でなくては。それこそ、死んでも得点はやらないと。 「これでツーアウトか。」 「ナイピッチ、久栄!」 御杖はいつも通りの笑顔でまた元のポジションに戻る。久栄はペコリと頭を下げた。 ベンチに戻る直衛と高平は無言だった。悔しそうではあったが、それ故の無言ではなくて考え込んでいるような。戻った先では天岡が腕を組んで仁王立ちしていた。 「何やってんねん。」 「うっさい。」 メットとバットを二人は天岡に押し付ける。それを受け取って天岡は笑う。 「打球浮いとるし。どこがバントやー、高平。直衛もあれくらい滑り込め。」 何も言えず二人は黙り込んだ。そして、満足そうに笑う天岡を後ろから二宮が小突いた。 「お前は監督か。大体次はお前やろ。ほら、お前等は報告や。天岡は無視しとけ。」 「おう。すまんな、二宮。」 騒いでいる天岡を無視して二人は監督の方へ向かう。 監督の東はいつものサングラスを掛け、仏頂面でグラウンドを見つめていた。 「…高平ァ。」 高平の肩が跳ねた。後ろではどこかわくわくしたような怯えたような様子で仲間が見守る。 「何浮かせてんのやー!」 「すんませんっ!!」 東の怒鳴り声が木霊した。 王者朝間高校の監督、東は見た目はヤクザ顔負け。豪快な性格とは打って変わって、野球においては細かな作戦、意表を突く戦術で優勝へ何度も導いて来た名将。 「お前があそこで決めんと誰が決めんねん!!…何で、ミスした。」 「直球やと思って狙ったら変化球で…。」 「はぁ!?お前の目は節穴か!」 「え?」 東は顎でグラウンドの方にしゃくった。三番打者の比和が空振りをしたところだった。 それを見て東は小さく舌打ち。また怒鳴り声が響くぞ、と仲間は囁いた。 「あれがあの投手の直球やねん。」 「あれが!?」 「お前昨日ビデオ見てないんか!?」 高平は記憶を片っ端から探す。昨日見たビデオ。サイドスローの久栄は一年生ながらも完成に近い投手だった。 「春に当たった慶徳の武藤は覚えてるか。」 「あ、はい。覚えてます。」 「あれを鏡に映したと思えばええ。サイドの直球は浅賀や明石の菖蒲とは別物や。…次同じミスしたら許さへんからな。肝に銘じとけ!」 「はい!」 一方、グラウンドでは比和が追い込まれていた。サングラス越しに東は見てまた舌打ちをする。 だが、それよりも近くで許し難いものを見る。 バットを肩に担ぎ、片足に体重を乗せて突っ立っている天岡。 「天岡ァーッ!!」 「えー!?はいッはいッ!!何すか!?」 余程びっくりしたのか天岡はバットを落として振り返る。その驚くべき怒声に阪野二高ナインさえも肩を跳ねさせた。 「何余裕こいてんのやー!!それでアホなミスしたらしばくぞ!」 「すすす、すんません!」 天岡は慌ててバットを拾い上げる。グラウンドからチェンジの声が聞こえた。 グローブ、ミット。それぞれ必要なものを持って朝間ナインはベンチを出る。グローブを渡された天岡は代わりにバットを渡し、グラウンドの方へ走ろうとした。だが。 「…でも俺。アホなミスなんて、しません。」 キン、と澄んだ目で天岡は言った。別人のような表情。東さえも息を呑む。 そして、天岡はにっこりと笑うとグラウンドへと走って行った。 一回裏、阪野二高の攻撃。 表を見事三人で抑えた選手の足取りは軽い。裕はその中でバッターボックスに立った。 対するは浅賀恭輔。高校野球界に君臨する覇王と呼ばれる天才投手。 三年ぶりの対決に、自然と口角が上がる。裕は構えた。 (一番打者が、お前か。今日一番回る打者やね。) 浅賀も笑顔を隠せない。だが、集中力は変わらず。 (三振させたろ。) 浅賀は投げた。 落下して来るような球筋に目が眩む。今まで見て来た投手の中で最速。もちろん、俊よりもだ。 高校最速の浅賀の一試合通しての平均球速は155kmである。そして、今までの最速は157kmと郡を抜く実力。 子供っぽい笑顔の裏には確かな実力がある。だが、才能だけで終わらせず努力し裏付けする。それが覇王浅賀恭輔。 天高く掲げたその左手から放たれた球がキャッチャーミットまで届く時間は約0,12秒。肉眼では殆ど捕らえられない。落下する球筋に加え、体感速度はそれ以上になる。 だが。 (…なめんなッ!) 投げたと殆ど同時に動き出す。バットを短く持ってスイングスピードを上げる。 普通に振ったんじゃ間に合わない。 打球は澄んだ音と共にサード手前に飛んだ。 天岡は一瞬驚きはしたものの軽く捕球して流れるようにファーストへ送球。しかし、裕は一塁を走り抜けた。 まだにわかに湿った土が跳ねる。 「セーフッ!」 応援の声が大きくなった。反対に、朝間高校側のアルプスは驚きの声が溢れる。 今の球速は156km。悪くない。それどころかかなり速い。 驚きを隠せないのは朝間ナイン。だが、慌てる事は有り得ない。 驚きつつも普通に次に備える。 「ナイバッチー!」 「ナイランッ!」 阪野二高のベンチは盛り上がる。高校最速の球を投げる浅賀に対抗するつもりは無いが、こちらは高校最速の足を持つ先頭が出たのだ。盛り上がるのが当然。 「続けー!」 新がバッターボックスに入る。その横で禄高はふう、と息を吐いた。 (よかった…。) グラウンドの裕を見て奥歯を噛み締める。 あの医者の言葉が頭を離れない。“ドクターストップ”が。 相手がヤブ医者だったらよかったと何度も考えたくらいだった。だが、ドクターストップを受けた裕は禄高にこう言った。 ――皆には黙っててくれ。 頭を下げて。 決勝を前にキャプテンを、最速の一番打者を欠かす訳にはいかない。それは皆同じだけども、ここで運動を続ければ裕に将来は無い。スターのようにとは行かないが、将来の有る選手をここで潰す訳にもいかなかった。 でも、ここは裕が血反吐を吐く思いで望み続けた場所なのだ。それを奪っていい訳が無い。それこそ、そんな権利は誰にも無い。あの医者にも、禄高にも。 「…禄高君。」 禄高は顔を上げた。右京は神妙な表情を浮かべている。 「蜂谷君の足、あたしが無理だと判断したらすぐに交代させるよ。」 禄高は頷いた。 (…頼むから、もってくれ。) 祈るような思いで禄高がバットを握り締めた。 一方、新はバットを構え、気合を入れながらも驚きを隠せない。 (すげぇ…。あいつ打ったよ。) 正面にいるのがあの浅賀恭輔だと思うと緊張してしまう。 微かに笑顔を浮かべ余裕の表情。まるで、先頭を切ったみたいだ。 (よく打ったよな。) 新は汗を拭った。それが冷や汗でない事を祈って。 未だに驚く応援席。いつまで驚いてんだと新は苛立つ。 (まだ引き摺ってんのかよ。勘弁してくれよ、浅賀恭輔だって俺らと同じ高校生だろ。) 新は構える。 そう、新は気付いていない。それどころか、阪野二高選手は誰一人気付いていない。この長過ぎる驚きの意味を。裕が打った事がどれだけすごいのかを。 「…ストライック!」 「え?」 新は瞬きをする。 (今、投げた?) まったく目で捕らえられなかった。こんな事は初めてだった。 「ストライク!」 手が出ない。姿が捕らえられない。投げた事さえ解らない。 「…ストラーイクッ!バッターアウト!!」 いつの間にか追い込まれていて、終わった。 何もかも速過ぎる。こんな投手が高校野球にいるのか。 とぼとぼとベンチへ戻る新の横をすれ違いながら禄高は肩を叩いた。 「ドンマイ。…どうだった?」 「化物だ。球なんて見えやしねぇ。」 「マジかよ。」 大袈裟だな、と思いながら禄高は笑った。今は裕が無事に一塁に辿り付いた事で少しだけだが肩の荷が下りた気分。そもそも、裕をこの試合送り出した事で罪悪感で一杯なのだ。 「全部直球だったじゃん。ど真ん中だったぜ?落ち付けって。」 「…バーカ。俺は冷静だよ。」 打者を不安にさせる訳にもいかないので新はそれ以上言わなかった。 だが、新の言った事は全て新自身が打席で感じた真実。禄高もまた、それを身を持って知る事になる。 (見えない球なんて有り得ない。相手は同じ高校生だし、裕は初球を打ったんだ。打てない筈がない!) 禄高は構えた。自然と力が入ってしまい、緊張しているのが解る。でも、試合開始前よりは遥かに楽。 新の言葉を頭の中で繰り返せば不安が過る。だが、裕の出塁が自信をくれる。 (来い!) 浅賀の投球。 塔から落ちて来るような、投石機のような。どちらにせよ、迫力がある。威圧感と言った方が正しいか。 速いなんてもんじゃない。 一瞬、白いものが視界に映った。 「ストライークッ!」 すぐにミットを確認する。確かに、投げられた。 投げられた瞬間さえ解らない。確認するだけで精一杯で打つなんて不可能なように思う。飛ぶ蝿を箸で掴んだと言う宮本武蔵の気分だ。 (マジかよ。) 全国一の速球を見て息を呑む。 だが、驚いている場合じゃない。次が来る。 「ストラーイクッ!」 動けない。一瞬しか視界にいないこの球をバットに当てるなんて人間に出来るのかと思う。 視界にいるのは、知らなければ白球だなんて解らないだろう。白いものが通過した。一球見ただけで解る実力差。 「ストラーイクッ!バッターアウトッ!!」 見る度に自信が無くなる。打てる訳が無い。 浅賀恭輔は、もう違う世界の人間。 (打てんやろ。) 二宮はニヤリと笑う。三振でトボトボとベンチに帰って行く後姿。 一番打者が出塁するのは二宮の中では前提条件だった。中学からのライバルで、三年間浅賀の球を見つめ続けて来た男だ。打てない道理があるものか。 だが、他の打者はどうか。二番も三番も、確かにいい打者ではあるのだろうけども所詮はこの程度。レベルが違う。 次は四番。三振で抑えれば勢いは朝間に向く。阪野二高に勝利の可能性は一欠けらでも残さない。 『四番、サード御杖君。』 アナウンスを聞きながら禄高はベンチに戻った。ベンチでは新が変わらず「見えなかった。」と言っている。メットを預けて禄高も監督へ報告に向かった。 「すんません。打てませんでしたって言うか、手が出ませんでした。」 「あの球は、見えなかった?」 右京の質問に口篭もると、新が困惑の目を向けた。 「いや、見えなくは…無いんですけど。」 「けど?」 禄高は考えながらグラウンドに目を向ける。打者は御杖。御杖なら、と期待を抱く。 「白い何かが通過した…みたいな。本当一瞬なんですよ。球の出所も解らないし。」 グラウンドからストライクの声が聞こえた。 「とにかく振ろうとは思ったんですけど、動けませんでした。」 「…禄高君が投げられたコースを教えてあげようか。」 右京は笑った。 「全部、ど真ん中ストレートだよ。」 「え!?」 「禄高君だけじゃない、新君も。」 禄高は息を呑む。どこに投げられたかさえ解らなかった。 浅賀はただ投げているだけなのだ。それもど真ん中に。二宮に至っては受けているだけ。指示も何もしていない。 ミットに納まった時のズドンと言う重い音が耳に残っていた。 カウント1−0で御杖はバットを握り直した。 確かに浅賀の球は速い。こんな球を内角に放られたら膝をついてしまうかもしれない。 (でも、追えない球じゃない。少なくとも、ど真ん中に放っていてくれる内は。) 二球目。変わらないど真ん中ストレート。明らかに嘗め切っているコースだが、今は感謝したい。 目が慣れるまではど真ん中に放って欲しいくらいだ。 「…ストラーイクッ!!」 御杖は、振り切った。コースはど真ん中。明らかな振り遅れだが、それ以上に違和感があった。 (何だ、この球…。) 心臓がバクバクと音を立てる。 あの落下する球が御杖の目に異常をもたらす。 ――球が、浮かび上がる。―― 御杖はバットを握り締める。有り得ない球筋が見えた。 オーバスローの落下する球が浮かんで見える。 (そんな筈無い!オーバーの球が浮く訳…!) 浅賀はそんな御杖を笑うようにすぐさま構えた。御杖も混乱のまま構える。 あの球筋を見てから身体が強張る。動く事を拒否する。頭は回らず、球は一瞬にしてミットに吸い込まれた。 「ストラーイクッ!!バッターアウトッ!!」 歓声が、遠かった。 (これが、覇王浅賀恭輔。) 世界が違う。化物だ。 才能とかそんなレベルじゃない。 「大丈夫か?」 二宮が声を掛ける。御杖は動けずに立ち尽くしていた。 「…あれが、今の高校野球界最速の球や。」 小さく笑い、二宮は走って行った。 「チェンジだぞ。」 ポン、と肩を叩いて裕は言った。 「浅賀って、オーバースローだよな?」 「はぁ?」 裕は何言ってんだこいつ、と言わんばかりに言う。だが、御杖は本気。それは本気の質問。 「見れば解るだろ。」 笑って裕は走って行った。 (…やっぱ、俺の見間違いだったんだ。) 浮く筈無いと強く思い御杖もその後を追う。 朝間高校と言う全国一位のチームに、現在の高校球界最速の球を投げる浅賀。その力を胸に刻み付けながら阪野二高は守備に向かった。 二回表は朝間高校の攻撃。 レベルの違いに絶望などしていられないのだから。 |