32、王者の四番


 二回表、朝間高校の攻撃。互いに得点の無いまま、今度は朝間高校最強の打者が打席に立つ。

 『バッター四番、サード天岡君。』

 わっと凄まじい声援が飛んだ。何百人もの声の塊が打席に立つただ一人の男に向けられる。そう、王者朝間の最強打者。

 「お願いしまーすッ!!」

 思わず微笑んでしまいそうなほどの元気な声で天岡はバッターボックスに入った。子供みたいな性格で、とても王者の四番とは思えないが、あの朝間高校の分厚い層を勝ち抜いて来たのだからその実力は本物。

 「よーし、来ーいッ!!」

 観客席から幾つか笑いが零れた。
 だが、天岡はふざけている訳でも無く本気。だから、グラウンドにいる選手は誰一人気を抜かない。そして、これから朝間高校はしばらく左打者が続く。

 「サイドスローか。武藤君思い出すなぁ。」

 ニコニコと天岡は笑顔を崩さない。
 独り言が多いな、と滝は思いつつ配球を組み立てる。

 「な、あのショートにいる人がキャプテンやろ?あの小さい人。」
 「え?あ、はい。」
 「あれが“ユウ”か。予想以上に小さいなぁ。そうや、君一年やろ?すごいなぁ、先発やんか。」
 「君、私語は慎みなさい!」
 「あっ!すんませんでした!!」

 ペコリと天岡は頭を下げる。

 「怒られちゃった。」

 ペロリと舌を出し、笑って天岡は構えた。滝はやりにくそうにサインを出す。マウンドで久栄は頷いた。
 一球目はアウトハイのボールになる直球。さすがの王者もサイドスローにてこずっている。だから、四番と言う最強の打者の今日の様子を見ておきたいのだ。



 (あれが恭輔の言う最強打者か。)

 裕を見て天岡は笑う。裕はそれに気付いたが大した反応はしなかった。
 そして、天岡はチラと投げられた球を見て肩を落とす。

 (ボールや…。)

 残念そうにしながら見送る。
 審判がボール、と予想した通りのコールをした。



 意味深ニ笑った天岡を不審に思いつつ裕は打球に備える。子供っぽいが、実力がある。飾りの四番でない事は明らかだ。
 空気が違う。特に投げられる直前の前を見据える眼はキンと澄んでいて全てを見通すようだった。

 (初めて見るタイプのバッターだな。)

 裕は思った。
 だから、油断できない。嫌な予感がして冷や汗が流れる。それでなくてもくそ暑い太陽の下だけど。まるで、鉄板の上で焼かれているようだ。昨夜の雨が蒸発して暑い空気が上がって来る。

 (頼むぞ、久栄、滝…。)



 裕の心配は杞憂ではなかった。



 (今、ちらっとしか見てなかったのに…。どういう目ぇしてんだよ。)

 滝は次のサインを送る。さっきから、酷い悪寒がする。この真夏の太陽の下にいるのにだ。
 風邪かと考えてみるが、違う。寒気がするのだ、この打者から。



 「無駄や。」

 朝間高校ベンチで浅賀は呟いた。

 (天岡にはどんな配球も効かん。サイドスローやろが、対角線の配球やろが意味は無い。)

 それ故の四番なのだから。



 (…来た!今度はボールやない!)

 天岡は動き出す。待っていたのは、“ボールじゃない球”。
 嬉しそうにバットを握る。笑顔が隠せない。鋭い風を切る音が聞こえ、確実に手応えを感じて天岡はバットを振り切った。



                           
……キィィインッ……



 澄んだ音。テレビの中で何度も聞いた音だと、滝は自分でも驚くほど冷静に思った。
 打球は皆の目を集めながらどんどん伸びて行く。空気抵抗も何も無い無重力空間を走っているように止まらない。それ以上にでかい。まるでアーチのよう。

 「よくやった。」

 一足先に東は笑った。東だけでなく、朝間高校は皆笑った。



 打球は、静かにアルプスに落ちた。



 「ホームラン…!」

 ワーッと今まで一番大きな歓声が上がった。その割れんばかりの歓声が天岡を包む。誰も動けない。天岡だけが丁寧にバットを置いて走り出した。さっきと同じ笑顔のままで。当然だと言わんばかりに。



 (これが朝間高校の四番、天岡晃治かよ。どいつもこいつも化物じゃねぇか。)

 裕は拳を握り締めた。まったく無駄な動きが無かった。本当に今、滝はサインを考えて出したのかと疑いたくなってしまうほどに。まるで、天岡がバットを振ったところに投げたかのような。

 「なあ、蜂谷君。」

 はっと振り返ると天岡が立っていた。何時の間に立っていたのか。いや、それ以前に何で立っているのか。
 困惑する裕を差し置いて天岡は口を開いた。

 「あんたが最強打者なんやろ?恭輔の言うてた。」

 ニッコリとぞっとするくらいの笑顔で天岡は言う。そのぞっとした理由に裕はまだ気付いていなかった。例えるなら天使のように穏やかな笑顔なのに、見る度に寒気がする。

 「恭輔の球打ったんはすごいけど、何であんたが最強やねん。朝間の四番は俺やのに、おかしいやろ?」
 「何が…。」
 「やから、叩き潰す。」
 「は?」

 一層楽しそうに天岡は笑った。

 「完膚無きまでにな。」

 その笑顔に、背筋が凍った。さっきの寒気を越える。それはまるで、憎悪のようだった。探していた親の仇を見つけて思わず笑ってしまった復讐者の笑顔。
 天岡はまた審判に注意される寸前で走り出した。その後姿を、裕は呆然と見つめていた。



 (何だあいつ。好き勝手言いやがって。)

 苛立つ。今すぐあの背中を蹴り飛ばしてやりたいほどの怒りだったが、裕はそれを静かに腹の底にしまい込んだ。流石に、こんな事で切れるほど短気ではない。
 それよりも、裕はすぐさまタイムを取ってマウンドに駈け寄った。久栄は膝に手を付いて肩で息をしていた。まだ二回の表だと言うのに酷く疲れているように見える。

 「大丈夫か、久栄。」
 「…ッ…。すんません。」
 「俺のせいです。俺が変な配球したから…。」
 「反省はまだだ。この回終わってからにしよう。」

 禄高は視線だけは真っ直ぐに、口角を上げて笑う。
 その笑顔を見て裕は、さっきの天岡の笑顔が一層不自然なものに見えてならなかった。こんな時にとは思うが、まるで天岡のあの笑顔は、人形。

 「そういえば、蜂谷なんか言われてなかったか?」

 新の言葉で裕に皆の目が向く。そこで、ようやく裕は意識をこちらに戻した。深く考え込んでいたらしく名前を呼ばれただけで心臓が飛び跳ねた。それを悟られまいと裕は苦笑する。

 「…叩き潰すってさ。完膚無きまでに。はは。」
 「それって、俺達全員へのを代表して裕に言ったのか?」

 御杖は言った。

 「…俺に、かな。」

 あの状況を考えるとそうとしか思えない。裕は御杖の質問に納得して自分に確認する。すると、御杖は表情を沈めた。

 「ま、とにかく次抑えような。ショート打たせろよ。」
 「ファーストも余裕だぜ。」
 「深く入っても長打にはさせねぇから。」

 次々と久栄と滝の肩を叩いてポジションに戻って行く。その頼もしさに安心しつつ滝は気合を入れなおした。

 「悪かった、俺のせいだ。」
 「謝るなよ。投げたのは俺だろ。」

 滝は小さく笑って戻って行った。



 「ナイバッチ。」
 「おー、ナイラン。」
 「暗ッ!せっかくホームランやのにー!」

 淡々とした仲間の反応に天岡は泣き真似をした。思わず笑いが零れる。

 「嘘やん。ようやった、さすが四番や。汚名返上やな。」
 「汚名やったんか。」

 わいわいと盛り上がるベンチは明るくなって行く。
 子供のような笑顔を浮かべる天岡だが、東は一人それを冷静に見ていた。

 (ほんま、恐ろしいな。)

 天岡晃治は、浅賀恭輔と共に一年の頃からレギュラーの座を得た化物。
 誰もが浅賀の才能の目を見張り、今年の逸材は浅賀だと決め付けた中で現れた男。150km台の球を次々にホームランした天岡は、他の選手の有無を言わさず四番に座った。
 実力は誰もが認めるところ。三振と言うのは本当に記録に少ない。ただ、波がある。それでも悪くてツーベース。良い時はもちろんホームランを量産する。
 昔、東は天岡に「得意なコースはあるか?」と聞いた時こう答えた。

――ストライクゾーンです。

 と。
 そう、天岡に苦手なコースは無い。どんな球種も配球も通用しない。ボールでなければ全て飛ばす。
 無敵の打者がいるならば、きっとこんな男なのだろう。

 「…なぁ、天岡。」

 水分補給していた天岡は顔を上げる。コップの中の半分くらいのスポーツドリンクが中で揺れた。浅賀の表情はグラウンドをバックにしているせいか伺えないが不機嫌気味に低い声を出した。

 「お前、裕に何言うたんや。」
 「何や、気になるんか。」

 天岡は軽く笑う。

 「偉い事は言うてないよ。ただ、“叩き潰す”て言うただけや。」

 からからと笑う天岡を浅賀は睨み付けた。浅賀の鋭い目を見たのは久しぶりだな、と心の中で思う。

 「怒らんでや。別に暴力やないし。…やっぱ、朝間の四番打者として“最強打者”に言っとかなあかんかと思て。」
 「何アホな事言うてんねや。」

 はぁ、と浅賀は盛大に溜息を吐いた。くだらないと言わんばかりに。それを見て天岡はむっとする。

 「アホちゃうよー。俺にも、プライドがあんのや!」
 「何がプライドや。」
 「お前がテレビであんな事言いよるから、俺は四番として肩身狭いやろ!最強はお前ちゃうんかい!みたいな。」
 「…それもそうやね。」

 浅賀は小さく笑った。

 「でもな。」

 言葉途中のまま浅賀はベンチを出る。ネクストバッターズサークルに向かうのだ。眩し過ぎる日差しを受けて、まるで光の中に消えるようだった。

 「あいつを潰すんは、俺や。」

 浅賀の表情は無く、そこには怒りも恨みも無い。だが、天岡はその淡々とした主張に思わずぐっと天岡は押し黙る。
 そして、浅賀はもう一度笑って出て行った。



 『バッター五番、キャッチャー二宮君。』

 さっきの特大ホームランの後なだけあって応援が凄まじい。打者の二宮は、少しばかり喧しそうに眉間に皺を寄せてバッターボックスに立った。



 (キャッチャーか。)

 さすがキャッチャーなだけあって大きい。
 のんきだとは思うが、どんな場面でも心の余裕がなくてはならないと思う。それが裕のモットーだ。

 「なあ、裕。」
 「何?」

 バッターがまだ構えていないのをいい事に御杖は話す。

 「さっき、あの天岡君が叩き潰すって言ったって言ったじゃん。」
 「うん。」
 「あれってさー…、裕に言ったとしたら俺すっごい屈辱だと思わない?」
 「へ?何で?」
 「…四番は俺だよ?」

 裕は御杖の顔を見る。表情こそ変わらないが、怒っている。静かに怒っている。
 背後に炎が見えるようだ。

 「悔しいなぁ。俺なんて眼中にないみたいじゃん?」
 「…叩き潰してやれよ。」

 裕は小さく、呟くように言った。普段温厚な人間が怒るとここまで恐いのか、と思う。火山噴火のような爆発的な怒りじゃなくて、静かに街を侵食する溶岩のようだ。
 御杖は怒らせてはいけない人間だな、と裕は肝に銘じた。

 その後、二宮はどうにかファーストフライで打ち取りワンナウトランナー無し。
 六番は投手、浅賀。



 (この人はボールには絶対に手を出さない。状況に応じて打ち分ける人だ。)

 滝はサインを送る。
 そのサインは野手へのもの。

 (隙をついて来るし、足もある。投手だからって甘く見ると痛い目に合うんだ。)

 滝のいいところは、相手を決して嘗めないところ。どんな相手でも全力で戦う。
 まだ一年と言う事は、周りは殆ど自分より上なのだから。



 (一球目は、スライダー。)

 左打者の浅賀には食い込んでいく球だ。
 仰け反らしてやるつもりで投げた球に浅賀は反応した。バットは動き出し、スライダーを迎え撃つ。だが。

 「ストライクッ!」

 浅賀はすぐさまキャッチャーミットを見た。確かにストライクゾーン。

 (…さすがサイドスロー。横変化は適わんな。)

 ぐっとバットを握り締める。さっきの滑るような球筋を思い出す。外一杯から食い込んでくる球を弾き返して内野を抜こうと思ったのだ。広いのは一塁と二塁の間。

 (…打てない、事も無い。武藤のスライダーよりはマシや。)

 慶徳の武藤の投げるスライダーを思い出す。左サイドのスライダーは、左打者である浅賀から逃げて行く球だった。デッドボールにも近い場所から一気に曲がり、ストライクゾーンギリギリに飛び込む。
 あの球に比べれば、なんて打ち易い。

 一方、一球目を空振りさせた滝は次のサインを出す。
 次も変化球。ただし、カーブ。


 同じ山なりで投げられた球。ただ、スライダーほど速くない。
 それでも、さっきのスライダーを見て修正して来た浅賀のバットはカーブが到着する前に振り出す。

 (…カーブ!?)

 ガン、と鈍い音が響き打球は浮き上がった。フラフラと頼り無さげな打球はピッチャーを越え、セカンドの真上へと飛んだ。

 「セカンドー!」
 「オッケー。…っと。」

 パン、と軽く捕球して新は笑った。審判のアウトが遅れて聞こえた。
 これでようやくツーアウト。



 浅賀はゆるゆるとベンチに戻った。さっきの直衛や高平のように怯える様子も無い。反対に二宮はまだ報告中で東の怒声が飛ぶ。四番の天岡がホームランを打ったのに、五番の二宮がファーストフライじゃ当たり前だ。

 「浅賀も報告せぇや!」
 「あ、はいはい!」

 水分補給をしようと伸ばした手を引っ込めて浅賀は東の元へと向かった。

 「浅賀も何やあのヘボいセカンドフライは!」
 「えーっと、すんません。」
 「すんませんちゃうやろ!」

 浅賀はポリポリと頭を掻いた。怒られても、反省のしようが無いのだ。確かにスライダーだと思ってカーブを打ったせいでセカンドフライを打つ事になった反省はするべきなのだろうが。
 何よりもまず、打撃に関してはやる気が出ない。あの一年投手も悪くないし、そこらの三年投手よりも遥かにいいとは思うがどうにも打ってやると言う気になれなかった。

 「やる気無いんか?!」
 「いえ、やる気って言うか打つ気が出んのです。」
 「何でや。」
 「何でって…。」

 浅賀はちらと二宮を見た。二宮は苦笑する。どうやら同じ考えのようだ。

 「別にやる気が無い訳やないんです。負けたくないし、優勝したいんですけど。」
 「向こう、エース登板してへんやないですか。えっと、市河君?」

 浅賀は頷く。

 「あの久栄君には悪いと思うんですけど、眼中に無いです。」
 「市河君の球やったら思いっ切り飛ばしてやろって思うんですけど。」
 「そんな事言って、エース登板せぇへんかったらどうする気や。」
 「登板しますよ。」

 ひょい、と天岡が顔を出す。

 「俺が引き摺りだします。あの一年生は崩れますよ。ホームラン連続されたら。」

 天岡は笑った。どうやら、天岡は打席全部ホームラン狙いらしい。馬鹿らしいし、でかい事を言い過ぎだと思うが天岡なら可能。笑うに笑えない。

 「まぁ…、お前が言うんやったらほんまにやりそうやけど、あんまり嘗めると後で痛い目見るで。」
 「えー?俺痛い目見た事無いです。」
 「やから、恐いんや。」

 浅賀は皮肉たっぷりに言った。どうやら、まださっきの不満は解消されていないらしい。

 「…お前は、叩き潰されたら立ち上がれんやろ?蹴落とされたら這い上がれんやろ。」
 「叩き潰されんし、蹴落とされんもん。」
 「やから、恐いんや。」

 浅賀は笑って行ってしまった。グラウンドでは六番が打ち取られチェンジを迎える。天岡はきょとんとしたままでいた。その肩を二宮が軽く叩いて「チェンジだぞ。」と言う。

 「天岡、恭輔怒らせたやろ?」
 「ちょっと、向こうのキャプテンに宣戦布告した。」
 「馬鹿やなぁ。向こうのキャプテンはあいつのライバルやんか。なるほどなぁ。」
 「何がや。」

 二宮が一人納得したように手をポンと叩くので天岡は眉を顰めた。

 「…お前は恵まれてるって言う話や。」
 「恵まれてる?…それを、俺に言うんか。」
 「……チェンジや。」

 二宮はそれ以上何も言わなかった。そして、自分の持ち物を持つと先に走り出す。天岡は一人遅れて三塁へと向かった。


 明るい太陽、暑い日差し。天岡は夏が好きだった。この中に入れば、自分は救われる気がして。
 この世界に、死んでも戻りたくない場所がある人間はどのくらいいるんだろう。
 頭に返って来そうな声がある。その声を振り払うように首を振って天岡は太陽を見上げた。相変わらずの眩しい太陽が、そこにはいた。



 二回裏。阪野二高は攻撃だと言うのに勇み足でいる選手が極僅か。殆どの選手は戸惑いを隠せない。
 四番の御杖を責めるつもりは無いが、四番があれほど綺麗に三振した後なのだ。それもど真ん中三球。逃げ腰にもなる。

 「…なあ、御杖。」
 「ん?」

 つい今の今まで応援していた裕は急に黙り込んだかと思えばやけに真剣に話しかけた。御杖はつられて声を止め裕の方を見る。裕は考え込んでいるようだった。

 「あの、天岡ってヤツ…。なんかおかしくないか?」
 「は?何が?知り合いなの?」
 「いや、違うけど…。なんて言うか、恐いって言うのかな。」
 「まぁ、確かにすごい打者だとは思うけど。…つか、恐いとか言っちゃうのってキャプテンとしてどうなんだよ。」
 「いやいや、そういう恐いじゃなくて。」

 慌てて裕は否定する。

 「あいつ寒気がする。笑ってても、悪寒って言うか…。」

 裕の発言を聞いてネクストバッターズサークルの滝は振り返る。さっき、グラウンドで滝自身が感じたのと同じだった。真夏の太陽の下だと言うのに酷い悪寒。それが実力から出るオーラに近いものだと自分の中で納得していたがどうやら違うらしい。滝は静かに耳を傾けていた。

 「違うんだよ。俺、あんなヤツ初めて見た。強打者は強打者なんだけどな。」

 表現する言葉が見つからないまま裕は考え込む。丁度グラウンドでバッターアウトの声が聞こえた。
 さすがの那波もがっくりと肩を落として戻って来た。落ち込んでいるのは手に取るように解るから、監督に任せてお咎めは無しにした。

 現在の高校野球界最速の155kmを越える直球を投げる投手、浅賀恭輔。
 苦手なコースが無く、得意なコースがボール以外と言うホームランバッター天岡晃治。
 王者と呼ぶに相応しい実力を備えた選手達。

 その中で、特に浅賀はまだ実力の半分どころか四分の一も出していない。
 そんな浅賀に歯が立たないまま阪野二高は短い攻撃を終えた。一人三球で終わった。浅賀はこの回、たったの九球しか投げていないのだ。



 「さ、行くぞ。」

 さっと裕は立ち上がる。久栄と滝は不安を胸にグラウンドへ向かおうとした。その時。

 「…五回まで、頑張れ。」

 小さな、呟きのようだった。
 久栄が振り返ると、そこには阪野二高のエース、市河俊が拗ねたようにそっぽを向いて座っていた。昨日投手が久栄だと言われてからずっと不機嫌なまま無口だったのに。

 「六回から俺が登板する。」

 目の前が、パァっと拓けたような感覚だった。何の確証も無い希望なのに、二人は安心を覚えた。
 “俺達にはこの人がいる。”と。
 明石商業戦で交代させられてから密かに心配していたがどうやら回復したようだ。

 「頼むぞ。」
 「……はいッ!」

 二人は声を合わせて大声で返事を返す。丁度、グラウンドから二人を呼ぶ裕の声が響いた。