33、本気の一球


 三回の表、朝間高校の攻撃。天岡のソロホームランで先取点を得た朝間高校と阪野二高の点差は一点。
 勢いのあるまま追加点を得たい朝間高校の打者は八番島崎。ポジションはショートの二年生。連続する左打線の最後の一人。

 「先頭切るぞー!」

 裕の声が響く。喧しいほどの声援にも負けじと彼方此方から声が返って来る。裕は大きく深呼吸して打球に備えた。



 天岡はベンチに座って応援をする訳でも無く、膝の上に肘を置いて手を組んでグラウンドの方に目を向けていた。グラウンドでは島崎がバッターボックスに立つ。

――…お前は、叩き潰されたら立ち上がれんやろ?蹴落とされたら這い上がれんやろ。

 さっきの浅賀の言葉が引っ掛かっていた。試合中に考え事をするのは初めてじゃないかと思ってしまうくらい久々だった。確かに昔何か考え事をしながら試合したりはしたのだろうが、天岡はそれを思い出せない。

 (どういう意味や。…お前も、俺が恵まれてるって言うんか。)

 自分だって、叩き潰されたり蹴落とされたりした事なんてないくせに。

 「…行けーッ!」

 仲間の声でふっと自分の世界から返って来る。島崎が走り出している。打球は三塁線。中々いいところに転がっている。島崎は下位打線にしては足が速い。きっとセーフになる。



 「ファースト!」

 バントを捕球した御杖が叫ぶ。矢のような送球が禄高に向けて飛んだ。だが、島崎は滑り込んだ。
 スライディングと一歩遅れて球がミットに届く。審判が「セーフ」と言った。

 「くっそ。」
 「足速いなぁ、あの八番。」

 先頭を出したと言うのも何処吹く風で裕は感心したように言った。

 「50m何秒くらいかな。五秒は無いな…六秒前半くらいか。」

 独り言のように裕はぶつぶつと呟いている。試合の事など忘れたように裕は楽しそうだった。

 「おい、裕?」
 「え?何?」
 「…何じゃないだろ。」

 呆れた御杖が溜息を吐く。裕は誤魔化すように苦笑した。

 「明石商業と試合やった時も思ったけどさ、皆足速いんだよね。負けられないなって思うよ。」
 「お前50m走いくつ?」

 御杖が訪ねると裕はにやっと笑った。

 「秘密。」
 「はぁ〜?秘密にする意味が解らない。」
 「秘密主義者だからさ。」
 「何だそれ。」

 御杖は不満そうだったが、それ以上は追求しなかった。
 とにかく、これで朝間高校は先頭が出た。次の打者は二年のレフト井之上。



 (井之上は流すタイプ。足は速くない…が、小技が巧い。)

 滝が井之上を見るとバントの構えをしていた。それに備え前進守備。

 (送るのかな。…初球はボール。)

 滝がサインを出すと久栄がマウンドで頷く。そして、投球。
 滝のサイン通りの外角高めのボール。だが、井之上はそれを見送る。

 「ボーッ!」

 滝は心の中で舌打ちしながら次のサインを出す。次は内角。
 サイン通りの内角。今日はコントロールの調子がいい。しかも、いい感じに荒れている。特にストレートが伸びてていい感じだった。

 井之上は動き出す。だが、バントじゃない。

 (…ヒッティング!)

 急に構えを変えて井之上は打った。だが、ストレートを捕らえきれずぼてぼてのゴロが三塁線に転がった。それを御杖が素早く捕球し投げる。

 (二塁は間に合わない。)

 送球は一塁へ。二塁では島崎が滑り込んだ。やはり、八番にしては足が速い。

 「アウト!」

 審判の声。それを聞いて滝はふっと胸を撫で下ろした。
 これで、ワンナウトランナー二塁。打者は一番に戻って直衛。一回表で俊足を披露した選手だ。

 (この人はミートが巧い。打って来るタイプだ。)

 足の速い選手を二人も背負いたくは無い。滝は慎重にサイン出す。



 (打って来ないかもな。)

 打者を見て裕は思った。別に深く考えて出した結論ではない。直感みたいなもの。構えは普通だけどバントして来るような気がした。だから、一瞬走者を見た目が気になる。
 多分、滝は気付いていない。裕には滝も久栄も緊張しているように見えた。四番が近付いているからだろうか。

 (…楽にさせてやりたいな。)

 親になった気分で裕は思った。少しでも背中を軽くしてやりたかったから。



 直衛は突然バントに切り替えた。滝が驚きで慌てそうになるのも関係無くバントした打球は三塁線ギリギリに転がる。一瞬御杖の動きが遅れた。
 二塁の島崎は三塁へ駆ける。

 (くっそ…!)

 御杖が打球を追う。

 「俺がカバーいる!三塁よこせ!!」

 捕球した御杖に裕の声が届いた。

 (三塁かよ!)

 言葉の通り御杖は三塁に投げた。間に合わないと思ったが本気で。同時に「何故」と思いながら。
 御杖の考えを裏返すように、送球は島崎が塁に触れる一瞬前に届いた。その送球を裕はすでに一塁へ半分向いたまま右手でキャッチして、勢い良くそのまま投げる。テニスでサーブを打つような姿勢。
 その動きに御杖はぎょっとする。

 (何だあれ!)

 だが、送球は鋭い。
 真っ直ぐ進む送球を少しでも早く捕ろうと禄高が精一杯手を伸ばす。

 キャッチとタッチは殆ど同時だった。でも。

 「アウトー!」

 わっと歓声が上がる。応援席からは「蜂谷」と何百人もの大きな声の塊が降って来た。
 裕は心底よかった、と安堵の息を吐く。これでチェンジになる。汗が地面に落ちた。

 「すっげぇ!さっきのあれ何すか!?」
 「テニスみたいでしたよ!」

 斎と那波が跳び付く。

 「一回やってみたかったんだよねー。」

 裕は軽く笑って言った。

 「ダイレクトキャッチ…すげぇな。」

 御杖がびっくりしたまま言う。

 「いやいや…。あそこで御杖の送球がなかったら全部パァだったし。」
 「裕と野球してると本当飽きないよ。」

 そう言って御杖は三塁を諦めかけていた自分を戒めた。
 三回裏の阪野二高の攻撃は八番の爾志から。最悪でも一番の裕まで回る。



 ベンチに戻り、裕は水分補給をする。グラウンドでは浅賀が練習球を投げていた。

 「裕。」
 「ん?」

 コップの中のスポーツドリンクを飲んだまま裕は声の方を見た。そこにいたのは禄高。

 「あんまり、飛ばし過ぎんなよ。」
 「平気だよ。」

 喉を鳴らして最後の一口を流し込むと裕は笑った。

 「お前の代わりはいねぇんだから。下手すりゃ試合途中でグラウンド去る事になるぞ。」
 「…気をつけるよ。」

 渋々裕は頷く。それでも、禄高の心配そうな表情は変わらない。

 「禄高。」
 「何だ?」
 「ありがとな。」

 禄高は何も言えずにそのまま歩き出した。罪悪感はまだ、胸の中に残ったままだった。



 それから、裕はすぐにベンチの端で拗ねている俊の隣に座った。俊はちらっと裕を見ただけですぐに目をグラウンドへと移した。打者は爾志。相変わらず浅賀はど真ん中直球しか投げない。

 「俊。」

 俊は声も出さず、眼だけを裕に向ける。裕はグラウンドを見ていた。

 「六回から出番だ。」
 「知ってるよ。つか、出さなかったら殺す。」

 裕は笑った。

 「殺されんのはやだな。…浅賀の球、見ててどう?打てそう?」
 「…多分、な。俺なら打てる。」

 俊の目は真剣だった。
 同じフォームで背も殆ど変わらない。だが、浅賀は俊よりも上にいる。

 「頼りにしてるよ。お前が出塁すりゃ、俺が送ってやる。」
 「そっか、お前以外まだ誰も出てねぇんだな。」

 それどころか当てる事すらままならないのだけど。裕が小さく苦笑するのを見ながら俊は黙り込んだ。そして、暫くすると顔を上げる。

 「…なぁ、裕。お前、何か隠してねぇか?」
 「何を?」
 「重大な…この試合…いや、それ以上に影響する何かを。」
 「…はは。何だそれ。」

 その時。

 『九番、ピッチャー久栄君。背番号10』

 アナウンスと共に久栄がネクストバッターズサークルから移動する。結局、爾志も浅賀の球には触れる事も出来なった。これで七人が連続で三振している。
 久栄の次は一番に戻る。一番打者は裕。

 「おし!点、取って来るよ。」
 「一人でか?」

 裕は何も言わなかった。ただ光を背景に微笑んでそのまま、ゆっくりとベンチを出て行った。
 その姿がやけに印象に残り、俊は不安を隠せない。嫌な予感が胸に突き刺さった。


 「四番!」

 浅賀の投げる一球、一球を凝視していた御杖は俊の声にびっくりしながら振り返った。

 「何?」
 「お前、次は打てるんだろーな。」

 怒った口調の俊に皆が聞き耳を立てる。ついさっきまで拗ねて無言を通していたのだから不気味と言わざるを得ない。
 御杖はその問いに難しい表情を浮かべた。

 「…打てない。」

 御杖は目を閉じてゆっくりと言った。そして、目を開ける。

 「次の打席、俺は見て来る。もちろん、打てるんだったら打つ。」

 どんな実力さを見せ付けられようと御杖の目に絶望は無かった。俊はそれを聞いて目を伏せる。

 「見たら、打てるのか?」
 「…打てる。いや、打つ!でなきゃ勝てないだろ。」

 御杖は真っ直ぐに言う。

 「…頼む。」

 俊の様子がいつもと違うので、傍で聞き耳を立てていた禄高と目を合わせる。禄高も御杖と同じく動揺していた。丁度、グラウンドでは久栄が三振でアウトになった。

 『一番、ショート蜂谷君。背番号6』

 バッターボックスには裕。俊は顔を上げる。ついさっきの、裕の顔が頭に染み付いて離れない。。まるで、死ぬ間際のような微笑。

 (何隠してんだよ。仲間じゃねーのかよ。従兄弟だろうが、言えよ!)

 苛立ちを抑えながら俊はグラウンドを見つめていた。



 三回裏ツーアウトランナー無し。阪野二高は九番の久栄まで三振が八つ。全てど真ん中なのに誰も打てない理由が裕には俄に理解出来なかった。

 (何で、打てないんだ?)

 球が消える訳でも無い。はっきりと落下する球筋が目に見える。それもど真ん中って解ってるのに。
 疑問を抱えながら裕は集中し始めた。ゆっくりと構え、浅賀の方を向く。

 一球目、裕にはど真ん中の直球は無い。アウトローのストレート。裕は振り出す。濁った音と手応えを感じ、打球は後ろへ飛んだ。

 「ファール!」

 歓声も遠くに裕は小さく唸る。

 (外角は芯に当てられないな。…もっと早く振らないと。)

 スイングスピードの遅さは裕自身気付いていた。さっきは短く持って速く振ったが、外角はそれでは届かない。当てるだけで一杯。

 二球目、今度はインハイストレート。ギリギリのコース、それも急に対角線。裕は思わず仰け反る。球の走る音が耳に残った。

 「ストライク!!」

 裕は驚いた表情だったが、すぐに楽しそうな笑顔を浮かべた。

 (あいつコントロールよくなったなぁ。)

 裕の浅賀との最後の対決は中学だった。それ以来会う事はあっても対決した事は無い。だから、三年間は随分大きいと思った。このスピードとコントロールを身に付ける為に一体どれくらい練習したんだろう。一体何球投げて来たんだろう。

 (打ってやろ。)

 ニィ、と笑顔を浮かべる。もう、これで内角だろうが恐くない。浅賀は絶対当てない。性格はもちろんだが、技術としても。

 三球目は、今まで投げて来た球とはまったく違った。
 縦に孤を描いて落ちて行く変化球。

 (…ドロップ。)

 裕はもう動き出している。二宮は後ろでにやっと笑った。直球に備えたままで振るのが早い。だが。

 (嘗めんな!)

 キン、と澄んだ音が鳴った。打球は高く上がる。レフトとセンターの前、直衛と井之上が追う。
 それを見て浅賀は気付いて叫んだ。

 「声出せ!」

 その声で一瞬二人の動きが強張った。だが、ガツンと衝突。二人は互いに尻餅を着き打球は落下する。
 それをお構いなしに裕は一塁を蹴った。

 (アホーッ!)

 浅賀は心の中で叫ぶ。慌てて直衛が拾い投げる。しかし、裕は三塁に滑り込んだ後だった。

 「セーフッ!」

 エラーではあったが、阪野二高の応援は一気に沸いた。阪野二高は初めてランナーがスコアリングポジションに辿り付いたのだから。
 裕は立ち上がった。次の打者の新のバントは職人芸だ。だが、一打席目で球が見えなかったと言っていたから余り期待は出来ない。でも、もうツーアウトだ。せっかくのチャンスもここで決めなきゃ意味が無い。

 (頼むから、決めてくれ〜っ!)

 祈るような気持ちで裕は新を見つめた。



 「監督!あれがドロップですよね!?」

 斎がひょいと顔を出して言う。右京は頷いた。

 「すっげー。俺、一瞬フォークかと思った。」
 「すっごい曲がったなぁ。」

 斎と那波が試合も忘れて盛り上がる。それを聞いて右京は口を開いた。

 「浅賀君のフォークはドロップよりすごいよ。」

 それを聞いて二人は動きを止める。

 「明石商業の菖蒲君のフォークほど急に沈まないけど、速い。」

 斎と那波は顔を見合わせ、ぎこちなくベンチの前の方へ出て行った。
 二球連続の直球、それも対角線。その後すぐにドロップ。二宮は裕に対してだけはまともに配球している。

 (こっちをまだ嘗めているんなら勝算はある!)

 右京は新の方を見た。



 責任重大な中で新はバッターボックスに立つ。

 (ヤバイな。俺、まともに浅賀の球見えねぇんだけど。)

 一打席目には浅賀が投げた事にさえ気付けなかった。いつのまにか球はミットに納まっていた。
 でも。

 (蜂谷は打ったんだ。打てない球じゃない。つか、打てない球なんて有り得ねぇよな。)

 それを答えるように裕は笑った。
 一番打者が打率十割なんて記録を叩き出してしまうから、新にはプレッシャーがあった。だけど、それを乗り越える事でプレッシャーが安心に変わる。

 (ど真ん中だ。当てる。)

 初球、変わらずど真ん中。新は振り切った。だが、当たらない。

 「ストラーイクッ!」

 当たらなかった。でも、心臓が高鳴った。

 (見える。)

 一打席目とは全然違う。禄高の言う通り白いものが確かに通った。
 その事実が新を勇気付ける。ついさっきの自分の考えを裏付けるからだ。

 二球目も新は振った。手応えを感じたが打球は前に転がる事は無かった。掠ったもののミットの中に飛び込んで行ったのだから。

 「ストラーイクッ!」

 審判の声を余所に新は呆然と思った。

 (当たるんだ。)

 掠っただけではあったが、当たったと言う事実が酷く嬉しかった。そして、すぐに構える。
 三球目、絶対前に転がすと誓って新は振り切った。しかし、新の振り切ったバットは掠りもしなかった。

 「ストラーイクッ!バッターアウト!」

 そのまま新は愕然と立ち尽くす。最後は本当に打てると思ったのだ。せめて、転がせると。そうすれば裕は絶対に本塁に帰る。そして、初得点だと。
 チェンジの事も忘れたようにしている新のその傍に裕が駆け寄った。

 「惜しかった。」
 「…惜しかった?何処が。掠りもしなかったのに!」

 くそっ、と悔しそうに新はバットで地面を叩く。裕はそんな新の横を通り過ぎる瞬間に一つ言った。

 「最後の一球は、アウトローだったよ。」

 新は裕の方を見る。信じられなかったが、裕は振り返ってにっと笑った。
 そう、最後の一球はアウトローのストレート。浅賀が裕以外に投げた唯一ど真ん中以外の球だった。

 当てられた訳でも無いのに、新は手が震えた。最後の一球ではあったが、確かに二宮はサインを出し、そして浅賀はその通りに投げた。普通なら当たり前の事なのに驚きを隠せない。

 「新ー!チェンジだぞー!」

 ベンチから禄高が呼んだので、新は慌てて走り出した。