35、逃げ道の向こう側


 グラウンド整備が始まり、乾いて来てはいるがまだ少し抜かるんだ土を部員達が均して行く。
 これから始まる後半戦に備えて裕は早々とトイレに向かった。あえて一人で向かったのは、誰かと行けば何か問われる気がしたからだ。

 確かに足の痛みはあるが気にならない。気のせいだと思えば思えてしまうくらい。
 それでも、ゆっくりと足を気にしながら裕はトイレへ入った。その時、誰かにぶつかって尻餅を着く。

 「ってぇ〜。すんませんっ!」
 「や、こっちも見てへんかった。すまん。」

 大阪弁に疑問を感じながら裕は顔を上げた。立っていたのは浅賀だった。

 「は?恭輔なんでここいんの?」
 「なんや、裕か。謝って損した。向こうのトイレ壊れてんねん。」

 浅賀は手を差し出して裕を引っ張り立たせた。

 「ふーん。あ、トイレトイレ!」

 裕はそのまま無視してトイレへ向かう。
 しばらくして裕がトイレを出ると、浅賀は壁に寄り掛かってまだそこにいた。

 「…戻んねぇの?追い出された?」
 「アホか。」

 浅賀は笑った。

 「そや、お前足速なったなぁ。50m走いくつ?」
 「誰が敵に言うかっつーの。」
 「ええやん。減るもんでも無いし。」
 「つか、お前コントロール良くなったな。インコースびっくりした。」
 「はは、あれいきなり投げられた奴は大体びっくりして三振や。ま、これも中ニの時お前に死球食らわせたお陰やね。」
 「ああ、頭にね。死ぬかと思った。」
 「俺も死んだかと思った。」

 裕が笑うと浅賀も笑った。
 しばらくの間、中学の頃の思い出やその後の出来事の話に花を咲かせていると裕は思い出したように口を開いた。

 「あ、そうだお前前半最ッ悪だな!」
 「なんや、いきなり。」
 「ど真ん中直球!嘗めてんのか!」
 「でも、打てへんかったやん。」

 言い返せず、裕はぐっと息を呑む。だが、すぐ負けじと言い返した。

 「今に逆転してやるよ。そんな嘗めてると、簡単に負けるぞ。どっちにしても俺達が勝つけどな。」
 「はは、言っとけ。」
 「いつまで見下してんだっつーの。勝つ気の無いヤツに勝利は訪れないって、エイジに言った事そのまま返されるような事すんなよ?」
 「せえへんよ。…俺は、負けん。」

 浅賀が軽く笑って返すと裕は思っていたが、予想と違って浅賀は真剣な表情で言ったので裕は肩を竦めた。

 「俺は、負けん。俺の勝利を信じてるヤツの為に。」

 その並々ならぬ様子の浅賀の言葉を聞いて裕も表情を消す。だが、すぐにからかうように明るく笑った。

 「何だそれ。サンタクロースにでもなったのかよ。」
 「そんなんちゃう。冗談やないねん。…俺は、約束したんや。絶対に、勝つと。」

 浅賀の脳裏には裕太の顔が浮かんでいた。絶対に勝つと約束した。縁担ぎでも何でもいいから、あの小さな少年の夢を潰させたくない。
 だが、今度裕は鼻で皮肉そうに笑った。

 「恭輔、いい事教えてやるよ。…人は人の為になんて生きられやしない。ましてや、人の為に勝つなんて出来る訳がねぇんだよ。」

 裕は冷たく言い放った。浅賀が何か考え、思い詰めている事も解っていたけどもあえて言い切った後に鼻で笑って見せた。
 浅賀はそれを聞いて無表情のまま言う。

 「それを、お前が言うんか。」
 「…じゃあ、誰が言うってんだ。どいつもこいつも自分犠牲にしやがって。自分の心はどこにあるんだよ。」

 浅賀が答えないまま、裕は続ける。

 「勝ちたいと思うのは、お前自身じゃねぇのかよ。」

 裕の真っ直ぐな目が浅賀に突き刺さる。浅賀は何も言わなかった。

 「お前はそうやって逃げ道作ってんじゃねぇのか?負けた時の事考えて。もしくは、勝つ事の意味探してんじゃねぇのか?勝ち続けりゃ価値も薄くなって来るだろうな。今まで下して来たチームの思いが背中に圧し掛かって来るもんな。そいつ等の夢を潰す権利や理由を探してんだ。でも、勝ちたいと願うのに権利や理由がいるか。」

 裕の目は変わらず真剣だったが、浅賀は暫くして小さく笑った。どこか力が抜けたように肩を落として。

 「…変わらんなぁ、お前は。」
 「お前等が変わっちまったんだよ。」

 浅賀も、笹森も変わってしまったんだと裕は思った。中学のあの頃みたいに無心で勝利に食らい付こうなんてしている自分がおかしいのかも知れないが、二人は大人になった。

 「いつまでも、子供のままじゃおられんやろ。」
 「でも、それが大人だって言うんなら俺はずっと子供でいい。」

 浅賀は笑った。つられて裕も小さく笑う。

 「何か、思い詰めてんなら言えよ。敵だろうが何だろうが…、親友には代わりないんだから。」

 それを聞いて浅賀は軽く返事をすると踵を返して歩き出した。後ろ手に手を振りながら廊下の角を曲がり、浅賀は裕の視界から姿を消した。



 「あ、二宮。」

 角を曲がって暫く歩くと、トイレの方へ二宮が向かって早足に歩いていた。声を掛けるまでまるで気付いていなかったが、すぐに二宮は顔を上げる。

 「おー、恭輔。天岡見ぃひんかった?」
 「そこですれ違ったで。」
 「ほんま?」

 二宮は浅賀の指差した方向へ行こうとする。何かを無心で、それでも必死に思い詰める様子の二宮の腕を咄嗟に掴む。
 二宮は引っ張られた方に傾き、びっくりしたように目を丸くした。

 「何や。」
 「訊きたい事あんねん。天岡の事や。」

 何時にない真剣な目で浅賀は言う。仕方なく二宮は足を止め、浅賀の方を向く。

 「あいつ、何を隠しとる。」
 「は?」
 「高校で会った時からずっと気になっとった。あいつ、おかしないか?何か裏があるとちゃうんか。」

 それを聞いて二宮は思わず黙り込んだ。浅賀のその質問は、二宮がこれから天岡に話しに行こうと思っていた本題だった。

 「何でいつもあんな顔しとんねん。お前幼馴染やろ。今までお前に任そ思て放っといたけど、もう時間切れや。教えろ、全部。」

 入学して、野球部で出会ってから天岡は気になっていた。確かにずば抜けた実力があったが、それ以上に中身が異常なんだと思った。
 子供みたいに笑ってるくせに心の中ではいつも真っ黒い闇が居座っているような感覚だった。腹黒いとかそんな意味じゃない。天岡は多分部内一純粋だけども、裏があるような気がしてならない。

 「人には触れられたくないもんがあんねん。お前にもあるやろ。」

 二宮は視線を落として、呟くように冷たく言う。だが、浅賀は引き下がらない。

 「…でも、仲間やろ!あいつが今でもそうやって苦しんでんの、もう見てられん。早いとこ心ん中の闇から出してやらんと二度と出られへんやん!」

 それを聞いて二宮は再度目をまん丸に開いて驚いた。そして、すぐに顔をくしゃりと歪めて笑った。

 「恭輔がそんな事言うとは思わんかった。」

 二宮が小さく信じられないと笑うように、浅賀自身も自分がこんな事を言うと思わなかった。天岡の事をそう感じていたのは事実だが、放っておくつもりでいたのに。
 干渉されたくない内容ならば干渉しまいと思っていたのに。
 二宮はゆっくりと話し出した。

 「言うてええ事かなんて解らんけど、俺ももう見てられん。…あいつが今住んでる家、親戚の家だって知っとるか?」
 「ああ、親が亡くなったからやろ?」

 二宮は頷く。
 昔、天岡自身が言っていた。親が死んで今は親戚の家に住んでいるのだと。前住んでいた家よりも広くていいと笑ってはいたが、確かにその笑顔には影があったようにも思う。

 「あいつん家な、小学校入学する前はめっちゃ仲良いええ家族やった。おとんとおかんと天岡と。近所でも評判で、あいついつでも幸せそうやった。いつも…、笑顔やった。今とは全然違う。」

 二宮はポツリポツリと語る。

 「でも、あいつが小学校入学してから全部崩れた。父親が、通り魔で殺されてからや。」

 ギョっと浅賀は目を見開く。二宮は力が抜けて行くように壁にもたれ掛かり、泣きそうな声を搾り出して話した。酷く悲痛な声だった。

 「それから家、おかしなった。…あいつの母親は、手ぇ上げるようになった。」
 「それって、虐待…か?」
 「…あいつ、痣作るようなった。でも、誰にも言わんかった。体育の授業でも目立つようになった。保健室で湿布とか張ってもらったりしとったけど、次の日にはまた新しい傷出来てた。俺も、先生もおかしいって気付いとったんやけど、天岡何も言わんかった。先生が家に行くってなっても、天岡断った。来ないでやって泣いて断った。」

 二宮はそのまま座り込む。膝を折り畳んで顔を埋めた。

 「でも、あいつついに骨折った。火傷も生傷も沢山あって、膿んでて熱出して病院に運ばれた。母親は来んかった。そんで…、あいつが入院したその夜に病院の屋上から飛び降りて…死んだ。」
 「何や…それ。」
 「やから、あいつはきっとまだ自分を責めてんねん…。自分が悪いと思っとる。許されないと、許されちゃいないと思っとる。幸せにはなれないって、なっちゃいけんて思っとる…。」

 浅賀は言葉が出て来なかった。これが全て真実ならば、天岡は。
 二宮は立ち上がらない。立ち上がれない。浅賀はあの時、自分の言った言葉を思い出す。

――…お前は、叩き潰されたら立ち上がれんやろ?蹴落とされたら這い上がれんやろ。

 天岡は叩き潰されないし、蹴落とされないと言った。もう、自分がどん底にいると思っているからだ。
 どんなに笑っていても、どんなに明るい場所にいても、天岡は救われていない。どんな言葉を掛けられても心に響かない。

 「やから、いつも本音を見せない。人の為には一生懸命になるし、救ってやりたいって思っとるのは本音なんやろけど、それはきっと償いみたいなもんやねん…。」

 償う事なんて、何も無いのに。

 「自分を犠牲にして、自分の為には生きない。この学校選んだのも、親戚に金の迷惑掛んで済むからや。近くてスポーツ特待やし。」

 二宮はゆっくりと立ち上がった。

 「俺、あいつと話す。こんな時かも知れんけど、なんか今日はいつもと違う。ピリピリしとる。」

 その理由が、何となく浅賀には解った。そして、小さく笑う。

 「…大丈夫や。」
 「え?」
 「放っておけ。…この先に、得意分野のヤツがおるから。」

 浅賀は、笑った。
 運命と言うものがあるのならきっと、天岡は今日の為に野球を続けて来た。今日この日にその闇から救われる為に。同じとは言えないけれども、似たような闇を抱えた相手に出会う為に。
 ふっと、裕の顔が過った。



 その頃。

――いつまでも、子供のままじゃおれんやろ。

 浅賀の言葉を反芻して、裕は壁にもたれ掛かりずるずると座り込んだ。それから暫く目を閉じる。
 真っ暗な闇が見えた。急な孤独感。真夏の空気が澄んで冷えて行く気がした。そんな時にはあの日が蘇って来る。両親が死んだ火事の夜が。
 無力だった自分。肝心な時にいない。後悔ばかりが積もって前が見えなくなる。

 でも、立ち上がれない訳じゃない。まだやれる。まだ頑張れる。
 ゆっくりと裕は目を開けた。その視界に天岡の顔が飛び込んで来た。


 「…ぅわッ!!」

 びっくりして壁に張り付く裕を見て天岡は笑った。

 「何や、大丈夫か。」
 「え、ああ。何してんの。」
 「心配してた。」

 天岡は軽く笑う。その目を見て裕は違和感を感じた。
 そして、本当に子供みたいに明るくて純粋な笑顔なのに何で寒気がするのか、試合中にさえ感じたあの悪寒の正体、裕はようやく今その答えに行き着いた。

――心が、凍ってんだ。

 答えが解った瞬間、涙が出そうになった。こんな哀しい目を今まで見た事が無い。笑っているのに何処か冷めている瞳の奥で、心が助けを求めているような気がした。

 「ん?何?俺の顔に何か付いとる?」
 「ああ…、表情が張り付いてる。」

 天岡は眉を顰める。

 「何がやねん。」

 また、軽く笑う。

 「天岡、君。」
 「天岡でええよー。その代わり俺も蜂谷って呼ぶし。」
 「…何で、笑えない?」

 ピタリと凍りついたように天岡は動きを止めた。裕はそのまま続ける。

 「表情が、死んでんだよ。マネキンみたいに。」

 裕はふっと視線を下に移す。目を見て話すのは基本だろうけど、天岡の目は余り直視したくなかった。見る事が辛くて、苦しくて。
 あの寒気や悪寒、その苦しみが何処から来るものなのか。それは天性のものではなくて、恐らくは天岡が過去に心の中に圧し込めた思い出なのだろうなと漠然と感じた。

 「あんたの過去に一体何があって、それが理由で何を失い何に苦しみ何に涙したかなんて俺は知らない。それでも、あんたは全部乗り越えてここにいるんだって…、俺はあんたの事すげーヤツなんだって思ったけど、違ったな。」

 裕はゆっくりと顔を上げる。天岡の表情は変わらない。

 「あんたは逃げてたんだ。過去から、現実から。全てを受け入れる事を拒絶して、何も無かった事みたいにしてる。表面繕っておけば気付かれないと思ってんだ。」
 「…何を、言うてんねん。」

 天岡は冗談を流すように笑った。でも、その笑顔もまた凍っているように見えて裕は目を背ける。だけど、その瞳の奥で助けを呼ぶ声が聞こえる。凍った瞳の奥で泣き声が聞こえる。

 「もう、いいよ。そんな顔して笑うな。だったらいっそ、表情なんて無い方がずっとマシだ。」

 強がって、笑って。
 何で天岡がこんな風にならなければならなかったのかを考えると苦しくなった。心をここまで凍らせ笑顔を浮かべ続ける事になるほどの何があったのか。

 「お前は、そうやって笑いながら別の事考えてるんだろ。そうやって何もかも隠しながら、心の中では誰か助けてくれないかって願ってる。」

 裕はぐっと息を呑み込んだ。何も知らないくせに相手の触れられたくない部分に干渉するなんて趣味の悪さもいいところだが、放っておけないのだ。お節介だと、迷惑だと言われても。
 例え理解出来ない事で、変える事なんて不可能だったとしても、敵だとしても、誰かが一生をこんな風に過ごさなきゃならないなんて考えただけでぞっとする。だから、助けてやりたい。それが余計に本人を傷付けたとしても。

 「…自分だけが不幸みたいな顔してんなよ!解るんだよ!」

 天岡は強く拳を握り締めた。そして、眉を顰めて裕を睨み付ける。

 「…お前に何が解んねん!!解らんやろ!今まで幸せな道歩いて来たお前には!!」

 裕ははっとした。天岡の哀しみが表に姿を現したような気がして。
 助けて欲しいから、こんなに真剣に怒りをぶつけて来てるんだと思った。色んなものを圧し込めて何でも無いふりしてるくせに本当は救って欲しかったんだ。

 「解んねぇよ。でも、お前は間違ってる。…消し去ってしまいたいくらい辛い記憶はどうすればいいと思う?忘れるんじゃない、圧し込めるんじゃない。受け止めるんだ!正面から向き合って!!」

 こんなに苦しんでいるくせに隠そうとして。助けて欲しいくせに強がって。本当に、何でこんなに辛くなるまで堪えていたんだろう。傷は放っておけば膿む事くらい知っている筈なのに。

 その時、天岡は左手で裕の胸倉を掴んで右手で左頬を思い切り殴り付けた。その時左手を離したので裕の体は軽々と吹っ飛び壁に衝突する。
 裕はゴホゴホとむせ返りながら、口の端が切れて流れた血を拭った。天岡は肩を上下させて荒い呼吸を整える。

 「じゃあ!お前は出来るんか!!…父親が訳解らんいかれたヤツに殺されて、たった一人の家族の母親が狂って自分に手ぇ上げるようなって…、最後自殺して!」

 天岡は今にも泣き出しそうな目をしていた。

 「そんな過去も全部受け止めて前向いて生きて行けんのかッ!!!」

 その叫びを聞きながら裕は、ゆっくりと立ち上がって天岡を見つめた。裕には天岡の心の中を知る術は無いけれど、一つ思った事がある。
 天岡は、あの頃の自分に似ている。

 親が死んで、何時の間にか笑うのが癖になっていたあの頃の自分と。

 自然と涙が零れた。同情じゃない。ただ、悔しくて。こんな叫びを今の今まで隠して笑って来た天岡が余りに悲しくて。
 涙が顎を伝って床に落ちる。それでも、止まらなかった。
 あの時、自分がどうして欲しかったのか今なら解る。自分に似た天岡を前にしてなら。

 無力感も、孤独感も全部知っているから。
 全て背負っていかなければならないんだと言う恐さも絶望も解っているから。



 「もう、楽になっていいんだよ。」



 裕は言った。
 きっとあの頃、自分は許されたかったんだ。肝心な時にいなくて、家族を護ってやれなかった自分を許して欲しかったんだ。二度と帰って来ない両親に問い掛けて、そう言って欲しかったんだ。

 「苦しかった。哀しかった。辛かった。悔しかった。俺にも解るよ!!…お前は、悪くないんだよ。もう、許されていいんだよ。もう…、笑ってもいいんだよ。」

 幸せになっていいんだと、背負った荷物は下ろしてもいいだと。
 天岡は、無表情だった。でも、大きな目から涙が一筋流れていた。まるで、氷が溶けて水になったように止まらない。



 「天岡ッ!」

 角から二宮が、その後からゆっくりと浅賀が現れた。

 「あのな…って、どした!?」
 「…何が?それは俺の台詞やん。」

 いつもの調子で天岡は言う。だけど、その目からは涙が溢れていた。その事に天岡自身気付いていないようだった。
 慌てる二宮を余所に浅賀は角に消えて行く裕の後姿を見た。振り返りはしなかったけれど。

 「…戻ろか。もうすぐ試合開始やろ?」
 「まぁ…、もうちょいかかるとは思うんやけどね。」
 「ほんま?結構時間経ったように感じられたんやけど。」

 天岡は笑った。その笑顔を見て二宮はぎくっとする。あのマネキンのような笑顔じゃない。昔に比べれば確かにぎこちなくはあるが、本当の笑顔だった。

 「…裕と何話しとったん?」

 浅賀は問う。

 「別に?世間話や!」

 天岡は、いつもの調子で軽く言うとまた笑った。それを見て浅賀は心の中で小さく裕に「ありがとう。」と呟いた。



 裕はゆっくりと自分のチームのベンチへの帰路を辿る。天岡に殴られた左頬が時間を追うにつれて痛んで来た。どうやら、口の中も切れているらしく血が溜まる。吐き出したとは思うが場所が無い。
 結構時間が経った気がしたが、誰も呼びに来ない辺りそんなに経っていないのだろう。せいぜい十五分ほどくらいか。濡れたグラウンドだから割りと時間が掛かっているのかも知れない。
 しばらくすると、前から足音が聞こえたので手の甲で口の端の血を拭った。

 「あ、裕!遅ぇよ!」

 禄高が手招きする。その向こうで那波と斎が顔を出していた。

 「作戦会議始められなかっただろー…って、どうした?そこ腫れてねぇ?」

 禄高は裕の頬を指差して言う。

 「そうか?さっき転んだからかも。」

 皆の目から頬を隠すように触れると、まだ僅かに熱を持っていた。確かに腫れている。禄高は怪しんではいたが、それ以上追求するような事はしなかった。

 「大丈夫だよ。余程の事でも無い限り俺は潰れないから。」

 心配する禄高の肩をポン、と軽く叩いて裕はベンチに入った。



 六回の表は朝間高校の攻撃で打者は九番の井之上。二年の右打者で、さっきの打席ではバントと見せかけてヒッティングに切り替えランナーを送った。
 小技の上手さはあるが、特に目立った感じは無い。ついでに言うなら足が他の選手より少し速いくらい。
 これから始まる後半戦が全てになる。二点差で負けているが、あの王者を相手にしているのだから大奮闘だと褒めるべきかも知れないが右京は決してそんな素振りは見せない。

 「これからの後半戦は、投手が交代する。」

 そう、阪野ニ校はついにエースが登板。これで後はいなくなってしまう。
 疲れ切っていた久栄は顔を上げて俊を見るが、それを見る限り大丈夫そうだと思った。

 「皆、しっかり抑えてね。市河君も飛ばし過ぎ無いように。」

 右京が言うと沢山の返事がまとまって返って来た。

 「あと、打撃!」

 うっ、と御杖が呟く。それを聞いて右京はにっこりと胡散臭いくらいの笑顔を浮かべた。

 「何か気付いた事あるかな?」

 うーんと裕は唸った。その中で禄高は口を開く。

 「なぁ、裕。あの球打つコツって無いのか?」
 「ええ!?…う〜ん、ちょっと速いだけの球だよ。」
 「蜂谷君は目がいいからねぇ…。」

 攻略の糸口にはならないと右京は溜息を吐く。前半戦は裕以外はまるっきり手が出ず、全て三振だった。裕だけが出塁した理由は、中学時代からの付き合いもあるだろうが、もう一つは驚異的な動体視力。慶徳の武藤も認めたくらいの。

 「…あのさ、変な事訊くけどさ。」

 言い難そうに御杖が言う。

 「浅賀君が投げたのって、全部直球だったよな?」
 「うん、全部ど真ん中のね。」

 嫌味を込めて裕は言い笑った。だが、御杖はそれを気にせずまた考え込む。

 「何?そういえば、お前一回でも変な事言ってたよな。あいつオーバースローだよなって。」

 裕の質問に御杖は頷き答えた。

 「なんか、あいつの球おかしいよ。…俺、あの球が異常なコース走って見えるんだ。」
 「異常なコース?まあ、確かに落下する球だけどど真ん中ストレートじゃん。」
 「うーん。」

 そう言われて御杖は腕を組み考え直す。だが、裕が真剣な表情を向けた。

 「具体的に言って見ろよ。…お前の目には、どんな球に見えたんだ?」

 御杖は少し言い辛そうに、ゆっくりと答える。

 「浮き上がる球だ。」
 「はっ?!」

 馬鹿にするような、呆れるような疑惑の目で御杖の事を皆が見つめる。

 「…待て、御杖。今、変な言葉聞こえた。」
 「あ、ああ。俺も。状況を余計にややこしくしそうな言葉。」
 「やばいやばい。耳おかしくなった。もしくは笑えない冗談。」

 御杖の言葉を聞き違いだと思い込んで流そうとする。苛つきながらも御杖はそれを黙って堪えていたが、その話し合いは一向に終わる気配を見せない。
 その中で果敢にも俊は質問をぶつけた。

 「で、本当に浮くのかよ。」

 皆は一瞬動きを止める。それらを差し置いて御杖は確かに頷いた。

 「ああ。すっげー速いから錯覚かと思った。でも、二回目の打席でちゃんと見たんだ。」
 「浮いてたか?」
 「…確かに、浮かび上がった。」

 その意見を曲げずに貫く御杖を見て、裕は少し真剣に考え始める。よく考えれば御杖がこんな時に冗談や皆を惑わせる言葉を言う筈が無い。つまり、全て真実。
 それを頭に入れながら裕は言った。

 「…御杖、浅賀の球は浮かねぇよ。」

 それは、裕が中学からずっと見て来た浅賀の球だった。この試合でも、浅賀の球は浮かばない。あれは落ちて来るストレートなのだ。

 「…そう、だよな。」

 それを聞いて御杖は落ち込むように項垂れる。

 「でも、打てない球なんて無い!…次、俊が出る。俺が送る。だから、お前等頼むよ!!」

 にっこりと笑い、裕は皆に大声で言った。当然、朝間高校のベンチには聞こえていないだろうが。
 御杖はぐっと唇を噛み締めた。今日、まったく役に立っていない。一度もボールを打っていない。それでも、平気で四番を任されているのだから、負けられないし、期待に答えない訳にはいかない。

 「任せろよ!」

 わっとベンチが明るくなる。裕と御杖は笑い、拳をぶつけた。



 その数分後、試合は再開された。
 後半戦、何かが終わりを告げる戦いが。