36、最速の一番打者


 後半戦を迎える甲子園球場には文字通り死ぬほどの暑さが襲っていた。太陽は選手達の頑張りなんて知らぬ顔でギラギラと輝き体力を奪う。今夏最高最悪の猛暑はである。
 六回表、朝間高校の攻撃は九番井之上。ポジションはレフトの二年生。中々芸達者な選手で、今までの打席はギリギリで抑えて来た。


 一方、守備は阪野二高。ピッチャーはエース、市河俊。



 ようやくのエース登板に盛り上がる球場。沢山の歓声。
 阪野二高、背番号一番は大きく振り被った。

 (…インハイギリギリ。)

 高く掲げた右腕。そこから発せられた白球は線のように走り、ミットに勢いよく飛び込んだ。ビリビリと、鼓膜が揺れているような感覚を覚えながら、爾志はニヤリと笑った。

 「ストラーイクッ!!」

 球速149kmのストレート。浅賀の最速157kmには遠く及ばないが速い。それに、この球はまだ俊の全力じゃない。
 返球を受けて、俊はすぐに構える。そして、あっという間もなく井之上の傍を白球がまた通過した。速度が上がる。今度は150kmに。

 (…本当、頼もしいヤツだよ。)

 裕は心の中で小さく思う。
 無名の天才なんて呼ばれていたのがつい二年前で、今では全国で注目される浅賀に並ぶ投手になった。ピンチを乗り越え、チャンスをものにして来た選手。
 そして、俊は何事も無かったかのようにトップバッターを見逃し三振させてしまった。



 ついにエースが登板し、朝間高校も指揮が上がる。この王者朝間の選手は皆そうだった。目の前にある壁が高ければ高いほど燃えて来る。

 「やったァ!これで、エースと勝負出来るやんか!」
 「うっさい、天岡!黙っとき!」
 「ええやんかー!」

 わいわいと盛り上がる選手は皆、俊の投げる一球一球に釘付けだった。食い入るように見つめては、ミットに納まる度に感想を言い合う。
 ここまでで、俊は六球投げた。井之上に三球、直衛に三球。

 「高平出ろよ!俺に回せや!」
 「ちょっとは落ち付いたらどうやねん!」

 元気一杯に天岡は言った天岡に高平は怒った。一方で、二宮は何とも言えない表情をする。
 心を閉ざして、笑顔で表面繕っていたあの天岡はもういない。少しずつでも、天岡は昔のような笑顔を取り戻しつつある。嬉しい事は嬉しいのだが、不思議でしょうがなかった。
 そんな二宮を見て浅賀は首を傾げる。

 「何、変な顔してんねん。」
 「うっさい。元からや。」
 「おっと!」

 浅賀が笑うと、つられて二宮も笑った。

 「あいつ、よう笑うようになったなぁ。」
 「天岡か?」
 「せや。楽しそうに見えるで。」
 「ああ…。でも、不思議やん。」
 「何が?」
 「あの蜂谷ってヤツ、何したんかなぁって。…こんな事言いたかないけど、ほんまは俺、もう無理やって諦めかけとったもん。」

 嬉しさに寂しさを混ぜた何とも言えない表情を浮かべる。まるで、自分を戒めるようなその言葉を聞いて浅賀は一瞬動きを止め下を向いた。そして、砂だらけの汚れた床を見ながら言う。

 「…同じ境遇やから…。」

 ふっと浅賀は目を閉ざす。その中にはあの夏の夜が鮮明に思い出された。
 闇を払うように周囲を照らす大き過ぎる炎。
 火の粉を吹き上げ、家を、人を飲み込んでいく。
 溢れる野次馬。消防隊の決死の消火作業。
 炎の中に裸足で飛び込んで行った小さな後姿。

 「何事も諦めたらあかんねん。最後まで気張ったヤツは、泥だらけでも傷だらけでもかっこいいもんやし。」
 「何のこっちゃ。」

 浅賀は小さく笑った。

 今でもあの後ろ姿をよく思い出す。どんなに言っても、叫んでも、振り返らず炎の中に躊躇無く飛び込んで行ったあの後姿を。
 弟を抱えて二階から飛び降りて来たあの小さな姿を、生涯忘れないだろう。

 二宮は何か言いたそうにしていたが、浅賀はそれ以上言う気が無いように見えたので何も言わずに試合に目を戻した。
 丁度、高平が三振に終わったところでチェンジだ。後で東の怒鳴り声が響くのかと思うと人事ながらぞっとする。



 阪野二高エース、市河俊の快投により表を三者凡退で抑えた阪野二高は六回目の攻撃。
 立っているだけで倒れそうな暑さに眩暈を起こしそうになりながら、俊はベンチを後にした。手には銀色のバット。朝は僅かにぬかるんでいた土も今は乾いている。すぐにまた水分を欲してひび割れる事だろう。

 『六回裏、阪野二高の攻撃。バッター九番、市河君。背番号1』

 アナウンスを聞きながら、俊は「お願いします。」とバッターボックスに入る。今日最初の打席である。
 これまで、阪野二高は裕以外皆三振。見えなかった、反応できなかったと言う意見が殆どで、浮き上がると言う言葉は御杖だけ。
 攻略不可能の覇王、浅賀恭輔。その相手に俊は今、挑戦するのだ。尤もバッターとしてだが。
 でも、打てる自信はあった。

 (…打てない球なんて無い。それは俺がよく解ってる。)

 グッと俊は構えた。
 まず、初球。左腕の浅賀恭輔の投げた球はストレート。上に伸びた手から、投石機のように白球が落ちて来る。インハイの球は審判の判定のギリギリの枠に突き刺さった。

 「ストラーイクッ!」

 俊は反応を示さずに目を見開いていた。

 (すげぇ。)

 敵だと言うのも忘れて俊は関心してしまった。まず、球威球速が他の投手とは段違いなのだ。浅賀の投げる球は、言葉の通り走っている。耳に届いた音は、今まで聞いた事の無い球の走る音だった。
 使っているのは同じボールなのに、体格もそう変わらないのに一体何が違うのか。
 さらに、コントロール。これだけの球威と球速を持ちながらも制球力を一切落とさない。対角線のコースも、直球の後の変化球も完璧だ。
 以前の慶徳戦は左右のサイドスロー投手が投げ合った珍しい試合だったが、今度は左右のオーバースローが揃ってしまった。

 (…でも、打たなきゃな。)

 すっかり感心していた自分を戒めて俊は構える。
 この打席、絶対に出塁してやると、打てると裕に言ったのだ。打たない訳にはいかない。

 二球目はインハイから落ちるドロップ。後半戦になってから朝間のバッテリーはようやく本気を見せ始めてど真ん中一本では来なくなった。
 縦変化のカーブは俊の持ち球でもあるが、浅賀の球は何処か異質。御杖が浮かび上がると言った気持ちも解らなくは無い。この男ならどんな球だって可能に見えてしまうから恐ろしい。
 敵とは言え、尊敬に値する選手だと思った。でも、試合に関してはまた別の話。

 「…ッ!」

 同じコースの変化球にタイミングをずらされながらも堪え、俊はバットを振り切った。掌が痺れるような確かな手応えを感じて俊は走り出す。
 一塁の中間ほどになった時、遠くから声が聞こえた。

 「ショート!」

 打球はニ遊間で一度地面から跳ねてショートに掴まった。そこから投球までの流れるような動きで島崎は一塁へ向けて矢のような送球。
 今日は王者にしては稀なエラーを二度もしているので、俊は僅かにそれに期待していたが三度目は無い。地味だが、基本的な事をしっかりとやっているからこその王者。冷静で正確。

 (でも、一塁はいただくッ!!)

 俊は滑り込んだ。もうもうと砂埃が舞って、同時に届いた送球は判定が難しい。審判は目を細めてゆっくりと両手を開いた。

 「セーフッ!!」

 一気に歓声が巻き起こった。阪野ニ校は裕以外の打者初のヒットである。



 「よっしゃあッ!!」
 「ナイバッチー!」

 予想外の俊の活躍に誰もが驚いた。裕以外の打者で初めに打つのが、六回から登板した投手だなんて誰が予想出来ただろう。
 右京は出来るだけ表面ではいつもの顔を保ちながら、心の中で喜んだ。
 これで、浅賀の球を裕が打った理由は中学からの友人だからだと言うだけの理由ではなくなった。つまり、打てない球ではないのだ。

 裕はゆっくりとバッターボックスに立った。ランナーが出た。まだチャンスと呼ぶにはいささか早いが、ここで逃す訳にはいかない。次があるなんて甘い期待はしない。
 自分には“今”しかないのだ。この瞬間しか。

 裕は俊をふっと見た。俊は何も言わず、何も反応せず自分の仕事をきっちりとこなす。
 リードを取って、裕を信頼して待つ。裕はさっき自分の言った言葉を思い返しながらバットを握り締めた。

 俊が出塁したら、送る。
 それが、裕の仕事だった。



 陽炎上るグラウンドを禄高はベンチから見つめていた。祈るように握り締めた拳はじっとりと汗ばむ。それが、ただの暑さから来るものではないと禄高自身気付いていた。
 前半は二点のリードを許してしまい、阪野二高は未だ得点ならず。ピンチもピンチだが、まだ心に余裕があった。それは、無敵の一番打者が勝利の可能性を皆に示すように出塁し続けているから。裕がいる限り阪野二高は負けないと、皆心の何処かでそれを支えにしているのだ。

 だからこそ、禄高は不安だった。

 (…神様、頼む。)

 禄高は祈った。
 勝敗の事ならば神には祈らない。それくらいは自分の力で勝ち取ってこそ価値のあるものなのだから。だから、禄高が祈るのはそれじゃない。

 (あいつを、潰さないでくれ。)

 裕から野球を取らないで。
 それは禄高の祈りだった。ぐっと瞼を閉ざして一層強く拳を握る。肝心の裕は今打席に立っている最中。前半に何事も無かったからと言って、後半に何も無いとは言えない。
 あの医者の言葉が死刑宣告のように残酷な言葉となって反芻される。

 その時、わっと賑やかな歓声がグラウンドの向こうから聞こえた。聞き慣れた金属音に、一塁へ向かって疾走する後姿。
 裕の打球は三遊間を抜ける強いライナー。

 打球がレフトの少し前まで転がったところで俊は二塁を蹴った。
 送球は間違い無く三塁へ行く。裕は一塁を目指す。そこで、異変に気付いた。



 (変だな。)

 妙に息切れする。いつも走る時傍に流れる風が無い。視界が縦に揺れる。心臓に合わせて、膝がギリギリと痛み出した。

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 一生懸命走ってるのに、一塁が遠い。思うように足が動かない。カクンと膝が抜ける感覚。届かない。
 俊が三塁に滑り込んだ時、裕はまだ一塁に辿り付いていなかった。それを浅賀は見逃さない。

 「ファーストや!」

 三塁に投げ掛けた送球は方向転換してファーストミットに届いた。そのすぐ後に裕は一塁を踏んだ。

 「アウトーッ!」

 ワンナウトランナー三塁。ランナーを進めただけで裕の仕事は成功。彼方此方から声援が飛び交う。だが、事はそれでは済まなかった。



 「裕が一塁前で刺された…?!」

 声を上げたのは御杖だった。
 いつもの裕なら余裕で二塁まで行ける時間だった。それが、一塁さえも届かない。

 (違う、何だあの走りは。)

 あの妙な走り方は、足を庇っているようでは無かったか?
 その時、右京が声を上げた。

 「誰か行って!」

 御杖はふっと一塁を見る。すると、一塁から外れたファールゾーンの壁に寄り掛かって動かない裕の姿が目に入った。
 誰かが叫びにも近い声で裕の名を呼んだ。それで我に返り、御杖は咄嗟にコールドスプレーを手に取った。
 だが、すでに禄高はベンチを飛び出していた。



 グラウンドではタイムが掛かる。何事かとザワつく球場の片隅で裕は壁にもたれてズルズルと座り込んだ。

 「裕!しっかりしろ!」

 裕は何も言わない。審判や近くの選手が集まり、遅れて右京も現れた。だが、裕はゆっくりと立ち上がる。

 「…すんません、大丈夫です。」

 それだけ言って、裕は禄高の肩を借りながらベンチへ向かう。
 その後姿を、浅賀は何も言わずに見つめていた。



 「大丈夫かよ…。」
 「ごめん、ごめん。」

 申し訳なさそうに言う裕に肩を貸しながら禄高は奥歯を噛み締めた。そして、黙り込んだ禄高の横顔を覗き込んで裕は言う。

 「…俺、お前に重荷負わせてんな。」
 「馬鹿言うな。重くも何ともねぇよ。」

 禄高の言葉に嘘は無かったが、罪悪感があった。
 裕をこの試合に送り出した責任、皆に言えない後ろめたさが罪悪感となって背中に圧し掛かる。禄高はしばらく目を閉じて言った。

 「…俺さ、すっげぇ臆病者なんだよ。だから、お前が潰れたら嫌なんだ。仲間が哀しむ姿も見たくない。」

 ゆっくりと禄高は続ける。

 「臆病なのに馬鹿だとは思うけど、誰にも傷付いて欲しくないんだよ。出来るなら、皆救ってやりたい。馬鹿だよな。…自分で臆病だとか言ってるくせに、救いたいだなんて。」

 禄高の開いた大きな瞳には、哀しみが揺れていた。それを見て、裕は言った。

 「臆病じゃなきゃ、何も救えないよ。」

 一瞬驚いた顔をした禄高だったが、それ以上の事を口にはしなかった。裕もまた黙り込んでベンチへ向かう。しかし、禄高の表情には笑顔があった。



 一方、グラウンドでは試合が再開された。打者は二番、新。
 俊はさっきの遣り取りを見て小さく舌打ちをした。

 (…裕と禄高が隠してたのは、こいつか。)

 さっきの裕の姿を思い出す。お陰でなるほど納得がいった。

 (うちのキャプテンに副キャプテンは揃いも揃ってお人好しかよ。)

 自分はあんな怪我抱えて隠してるくせに、俺に何て言った?あの準決勝、明石商業戦で潰れそうになった時に殴ってまで引き下がらせたじゃないか。

――
明日も投げんだろ!?

 確かに、この決勝の次は無いけれど。ここで潰れていいのか?

 (あいつは、さっきまで出塁してチャンスを作り続けて来た。それなのに、得点は無い。)

 二点差が後半戦を迎えてから重く圧し掛かる。

 (…点、取ってやらなきゃな。)

 俊は人知れずそう決心した。あの馬鹿二人を力一杯殴ってやれたらきっとせいせいするだろうけども、何も解決しない。責めるのは試合後でいい。
 そう誓った俊とは違い、二番打者の新はただ真っ直ぐに投手を見据えていた。脳裏に過るのはついさっきの出来事。

 (あいつ、そんなに俺達が信用出来ないのかよ。)

 それは、怒りだった。
 怪我を隠してまで試合に出たのは、自分達だけじゃ頼り無いから?確かに、阪野二高は皆が皆あの小さな一番打者を心の支えにしてる。あいつがいれば俺達は負けないのだと。

 (でも、それがプレッシャーになってんのかもな。)

 プレッシャーを掛けられる人間の進む道は二つある。一つは、天才と呼ばれる人達。プレッシャーを受けるほどに強くなる。他の何も関係無く進んで行く。
 もう一つは、潰れる人間。つまり、凡人。過大評価は時に身を滅ぼす。プレッシャーに堪え切れなかった人の行く末など容易く想像つく。

 心の何処かで、裕は前者だと思っていた。

 (でも、違う。そんなタマじゃねーよな。)

 他の何も関係無く進んで行くなんて器用な真似出来るタマじゃない。

 (…なら、潰れるに決まってんじゃねぇかッ!!)

 弱いくせに強がってるヤツほど迷惑なヤツはいないと新は思っていた。そんな人間がいたら、なんて手の掛かるヤツだろうと。でも、それがこんな身近にいた。

 新は大きくゆっくりと深呼吸をする。
 夏の暑い空気が肺に染み込んで来た。湿気は大分よくなっている。明石商業との試合に比べればずっとマシだ。
 そして、構える。

 (あいつに教えてやらねぇと。…俺らにはお前なんて必要ねぇってな!!)