37、一進一退 ワンナウトランナー三塁。打者は二番、新。 小技の上手い右打者。ここまでノーヒットだが、前半戦では裕以外で唯一“ど真ん中”以外に投げられた打者である。 新は打席に立つとすぐに構えた。構え方は普通に。辺りからの応援が喧しいぐらいだったが、打席に立てば自然と音は消え去る。真っ直ぐに見据えた先はピッチャー、浅賀。 前の打席は三振に終わったが、確かに何かを掴み掛けた。打てる直前だったのだから。 (絶対に、点はもらう。) 手に力が篭った。 一球目はストレート。インコースに走る154kmの球だったが、新は驚くほど冷静だった。球速も球威も無い球みたいにひょいと避ける。 「ボーッ!」 ふう、と一息吐いて新は構え直した。いやに冷静で落ち付いている。後半戦を迎えて阪野二高は二点リードされている上にヒットはまだたったの二本。なのに、プレッシャーと言うものが新の中には存在しなかった。 一球目のストレートを見て、自信が沸いた。 (見える。) 全国一の速球が見える。最初の打席はまったく見えなかった。次の打席でその姿をはっきりと見た。今度の打席は、自信が沸いた。 しかし、奇妙な感覚が付き纏う。御杖の言葉を思い出す妙な球だ。 ――浮き上がる球だ。 新は集中する事でその言葉を意識の奥底にしまい込もうとした。 浅賀の球は落ちて来る球だ。それが浮き上がるはず無いのに。大体、裕は浮かないと言っていたし俊だって出塁した。浮き上がるような魔球を打てる訳が無い。 (この球は浮かない…。) 浮かないと知っている。 新はベンチからのサインを見て頷いた。 二球目はアウトコースのストレート。それもギリギリの際どいコース。新はそれを力一杯振った。しかし。 「ストライクッ!」 審判の声を聞いて新は小さく舌打ちした。 MAX156kmの速球。本当にたった一瞬しか目の前を通らない球だ。大袈裟に言えば飛んでいるハエを箸で掴むようなものかも知れないと新は思った。 さらに、三球目。二球目と対角線を結ぶインコース。 しかし、手が出ない。 「ストライクッ!」 くそっ。 新は肩を落とした。これでカウントは2−1になった。 (俺にもドロップ投げて来るかな。) そんな事を思いながらベンチを確認すると、違うサインが出ていた。 スクイズ。 一球目と二球目はファーストとサードがダッシュして来ていた。でも、三球目はして来なかった。 二球目に振りに行ったのと、三球目の見送り。さらにランナーが投手と言う事でも朝間はスクイズ警戒を解いたようだ。 (ツーストライクからスクイズかよ。) ファールも空振りも許されない最初で最後のチャンス。 バントなら慣れているけれども、この場面でこの投手で打つのは緊張する。でも、気付かれちゃいけない。 四球目、ストレート。 新はすぐさまバントに切り替えた。 「スクイズッ!?」 「…ッ!」 驚きを隠せない二宮を余所に濁った音を立てて打球は一塁方面へ転がった。 「ファーストッ!!」 二宮の声が響く。俊はホームまでの一直線を駆け抜けた。 ダンッ、と俊は確かにホームベースを踏んだ。 「セーフッ!!」 その途端に、割れるような歓声が球場を包み込んだ。 「ナイバンッ!新ーッ!」 ベンチから歓喜の声。アルプスが揺れる。 阪野二高の初得点だった。 二宮は立ち尽くしていた。 (ツーストライクからスクイズ…。) 思いきり振っていたから打って来ると思っていた。でも、前に阪野二高を調べた時この二番打者は小技が上手くて要注意だった。 (何で警戒解いたんや。くそっ。) 点数で朝間高校のリードは変わらない。でも、たった二点のリードだったのだ。それが縮まってしまった。 その時、浅賀が呼んだ。 「二宮ー。反省は後やでー。」 浅賀はにっと笑った。それを見て二宮は何も言えずに頷いた。 (ピッチャーに言われるとは。) 二宮は笑った。 その後、朝間高校は三番の禄高を内野ゴロで打ち取り六回を終えた。 朝間高校のベンチでは作戦会議が行われた。 監督を中心に輪を作る。 さっきのスクイズ警戒を解いた事、投手がいい当たりを出した事、キャプテンが潰れた事などを話して行く。話す一方でなく、意見を言ったり互いに否定したり肯定したり。 そうして出した結論は一つだった。 「チャンスやで。」 そう、これはチャンス。 一失点だが、リードは変わらない。ここで突き放さなくてはならない。 打者は三番の比和から。 皆で拳をぶつけて気合を入れ直し、比和はグラウンドへと向かった。 一方、阪野二高ベンチ。 初得点で明るいベンチの空気だが、御杖は真っ直ぐに裕を睨んでいた。 「何で、言わなかったんだよ。」 御杖は言う。 「俺らが頼りないからか?お前、自分がいないと駄目だとか思ったのか?自分なら潰れないと思い込んでんのか?自惚れんなよ!」 裕は何も言わなかった。 確かに、阪野二高の皆は心の何処かで裕を支えにしていた。明石商業の打率十割にしたって、さっきまでの出塁にしたって。全国一の俊足がいると言うのは安心に繋がった。 でも、それが潰れた時の事を考えていなかった。その時にどれだけの不安が襲うのか誰一人考えられなかった。 裕はしばらく黙り込んでいたかと思えば、ゆっくりと口を開く。 「俺はそんなに傲慢じゃない。出来る事と出来ない事くらいちゃんと解ってるよ。だから、走ったんだから。これは出来る事なんだって。」 裕は続ける。 「それに、俺は自惚れるほど自分の事好きじゃねぇしな。」 そう言って軽く笑った。 「蜂谷、もういいから下がってろ。」 話しに割り込んで来たのは新。 「俺らはお前なんかいなくても勝てんだよ。解るだろ。」 「ああ。…でも、下がらない。」 裕は立ち上がった。 「ほら、立てない訳じゃない。まだ走れるし。…荷物になったら、置いてってくれていいからさ。」 それだけ言って、グラウンドへと走り出した。その後姿はさっきと変わらない。 いつもの小さな後姿だったが、頼り無い訳ではなかった。 『七回表、朝間高校の攻撃はバッター三番、比和君。背番号9』 点数上朝間のリードは変わらないが、阪野二高はさっきのスクイズで2−1に距離を縮めた。更に、そんな阪野二高を再び突き放すかのようにこの回、朝間は四番に回る。 比和はこれまでまったくと言っていいくらい活躍していない打者。比和は今までの打席を思い出しながらゆっくりと構えた。 (何や、俺、今日全然ダメダメやね。) 心の中じゃ自分を戒めてはいるが表情は緩んだままだった。やる気の有無さえ疑われる。 しかし、これが比和と言う男なのだ。 爾志はサインを送る。 (…遣り難い。でも、腐っても朝間の三番だ。油断はしない。) 俊はそのサインを受け取って頷く。 比和は、一年生。 今日の朝間高校の選手はベストメンバーで来ている。その中での三番打者は九人中唯一の一年生。阪野二高打線にも一年生はいる。滝は本来捕手だがバッティングを買われている。 有能な一年生同士だが、滝と比和には大きな違いがあった。それは、踏んで来た場数。 初球はストレート。 比和は力一杯スイングした。 ヒュゥ。 風を切る音が爾志の耳に届いた時、打球は一塁方面で切れた。 「ファールッ!」 あちゃあ、と言いた気に比和は肩を落とした。爾志は次のサインを出す。 次は変化球。比和は動き出した。俊の投げた球ドロップは比和のバットを避けてミットに飛び込む。 「ストライクッ!」 比和は大きくはぁ、と溜息を吐いた。そんな比和を見て爾志は次のサインを出す。 (打つ気あり過ぎなのか。それなら簡単だ。) 次はボールになる変化球。同じくドロップだ。四番の前なのに、ランナーは一人も残しておきたくない。 比和は動いた。それを見て爾志は掛かったと思った。 (ん?ボール?) 比和がボールだと気付いた時にはもう遅い。それでも、鋭い音がした。 打球は三遊間。御杖と裕の間を擦り抜けた。 「レフトーッ!」 爾志の声。レフト、滝の前に打球は落ちた。 「ファーストッ!」 滝からの送球。だが、それも虚しく比和はすでに滑り込んでいた。 「セーフ!」 審判の声を聞いて朝間ベンチからは「ナイバッチ」の声が聞こえた。比和は手袋を外し、息を荒くしながら笑う。 『四番、バッター天岡君。背番号5』 天岡が、バッターボックスに立った。 今日の天岡の成績、ニ打席ニ本塁打、打点ニ。打てばホームランの凄まじい実力に久栄と滝は手も足も出なかった。 ここが後半戦の分かれ目。 俊はマウンドでふっと目を閉じた。 (俺は食われねぇぞ!) そう固く思い、そして、目を開いた。 天岡は子供のような笑顔で待っている。 (やっとエースやぁ。腕が鳴る!) そして、一球目。 アウトコースのストレート。 キンッ! 打球は勢いよく飛んだ…が、三塁側に切れた。 「ファールッ!」 ほっと胸を撫で下ろす阪野ニ校ナイン。今までボール以外はホームランだったからこその安堵だ。これまでは天岡のソロホームランだったので最低の二点で抑えたが、今度はランナーがいる。 二球目、インコースにストレート。 天岡は振り切った。 打球は今度一塁側に切れる。 「ファールッ!」 あっという間のツーストライク。 (あれ?) 違和感を感じたのは二宮だった。 これまで、天岡が二球も続けてファールした事があっただろうか。最近の記憶を探してみるが、そんな事は無かった。覚えている限り、ゼロだ。 (どしたんや、天岡。) 不安を感じながら二宮は天岡を見守る。 二球続けてのファールに違和感を感じたのは二宮だけではなかった。爾志はその普通の選手ならば普通の事を酷くおかしな事に感じて眉を顰める。 (もう、カウントは2−0だ。何だ?前半より随分…。) その先の言葉を爾志は思い付かなかった。何かが変わったのは手に取るように解るけども、その正体を爾志は知らない。 それを知っているのは、たったの二人。この広い球場で二人の人間しか知らない。朝間高校に一人と阪野ニ校に一人。 三球目。阪野ニ校バッテリーは最後の球のつもりだ。 その最後の球は、エースの決め球。高速スライダー。 真上からの投球でのスライダーは通常相性が悪い。だが、俊はこの球を決め球にするのは相性がいいからだ。それは、俊のその高速スライダーが通常とは異なっていたから。 (…うおっ!) 天岡は信じられないものを見るように目を見開いた。 高速のスライダーが、縦に滑って来る! (これが…スライダー?!) 天岡は振ったが、そのスライダーはバットを擦り抜けるように走る。 「ストラーイクッ!!バッターアウトッ!!」 振り切った姿勢のまま天岡はしばらく動けなかった。だが、少ししてバットを下ろし、冷静になる。 (あれが…阪野ニ校エースの決め球高速スライダー…。) 一試合の中でも投げるか投げないかの貴重な球だった。その為に資料が少な過ぎる。実際に打席で見ると魔球のようにも思えた。 天岡は俊の方を向いて思い切り睨み付けてやろうと思った。だが、その表情は無意識に笑っていた。 これでワンナウトランナー一塁。 「ナイピッチ!」 「さー抑えるよー!」 阪野ニ校は自然と声が出る。今まで以上に明るい雰囲気。それだけ、朝間の四番を抑えたと言う事実は大きい。 だが、まだ一つ目の山を越えただけに過ぎない。左打線が続く。 次は五番のキャッチャー二宮。今日はろくな成績を残していないが、本来はすごい打者であり、普通の強豪なら余裕で四番に座れる実力。 二宮はバッターボックスに立ち、まずグラウンド全体を見渡した。 (阪野ニ校は手堅い守備で定評があったけど、守備やったらうちと並ぶなぁ。) 広いグラウンドに隙が無い。だが、二宮はさっきの作戦会議を思い出す。そう、もう狙う場所は決めているのだ。 (場所は、ショート!) 二宮は裕が不調だと言う事を忘れてはいない。隙があれば付け込む。勝利の可能性は一パーセントでも高い方がいい。卑怯だろうが関係無い。勝者こそが正義だ。 裕は皆が声を出している中で殆ど無言だった。いつもは率先しているが、今日は違う。 自分自身、やばいと言う事は解っている。皆が心配してくれている気持ちも有り難い。 (でも、ここだけは譲れないんだよ…!) 荷物になったら置いていってくれと言って、置いて行こうと言う人は誰もいなかった。それが期待か同情かは解らないが、言葉通りの荷物になる訳にはいかない。 この先何が起こっても、勝利は決して諦めない。何が起きても、勝つまでは倒れない。 裕は汗を拭った。 キンッ。 鋭い音と共に打球が飛んだ。二宮は一塁へ向かって走り出す。 飛んだ方向は狙い通りショート。正確に言えば三遊間。さっき比和の打球が抜けた場所。前半は鉄壁の守備を見せた場所が何故か後半戦は穴に見える。 裕は二メートルほど前で跳ねた打球を捕って二塁へ投げた。しかし、間に合わない。 「セーフッ!」 投げた後で、裕は膝に手を付いた。 帽子がズルリと落下する。 大して動いていないのに、すっかり息が上がっていた。裕は両目を固く閉じる。 (…力一杯投げたのに…。) いつも通りの球が投げられない。二塁で刺せたはずだったのに。 (俺は、荷物だな。) ぐっと唇を噛み締めて裕は立ち上がる。その時、頭に帽子が被せられた。 被せたのは御杖。目はまだ無人のバッターボックスの方を向いたままで言う。 「しゃんとしろ。んな申し訳無さそうな顔すんな。」 「…俺、荷」 「荷物じゃねぇから。」 御杖の目が今度は裕を見た。ギラリと光る鋭い目だった。 「まだ、チャンスでもピンチでも無いしな。」 「ワンナウトー。」 御杖が言ったすぐ後に、俊がグラウンド全体に呼び掛けた。まるで、タイミングを見計らったように。 「…お前の事荷物だなんて思うヤツはいねぇよ。馬鹿。見損なうな。」 裕は何も言えず、俯く事しか出来なかった。 ワンナウトランナー一塁、二塁。朝間高校の攻撃は続く。次は六番、ピッチャー浅賀。 浅賀はバッターボックスに立ち、まずショートを見た。監督が言うには狙いはショート。確かに二宮はその通りに打って出塁した。 (…死にそうな顔してんなや、裕。そこはお前が選んで立った場所や。) 狙いはショート。そう思いながら、浅賀は初球のドロップを思い切り打ち上げた。 「…ライトッ!」 高いフライ。距離はあるが速さは無い。誰もが皆その一球を見守る。ライトの那波は捕球体制に入った。 グローブに打球が納まった瞬間、コーチャーのGOと言う声が聞こえた。那波は即刻送球。 比和が三塁を蹴った。さらに二宮は一塁を蹴って二塁へ。 セカンドの新が中継に入った。 「ホームッ!!」 爾志に送球が向かう。その瞬間比和は滑り込んだ。 「セーフッ!」 それを聞いてすぐさま三塁に向くが、すでに二宮は三塁に立っていた。 朝間高校に追加点。 犠牲フライを打った浅賀は比和を引っ張り立たせるとベンチへ戻って行った。 そのすぐ後、朝間ベンチから東の怒鳴り声が響く事はすでに誰もが予測しているが浅賀は怯えたり苛立ったりする様子もない。 「……ツーアウトー!」 悔しさを隠せない顔で俊は言った。 「次抑えるよー!」 「バッチ来い!」 四番を抑えたところからの油断だろうか。浅賀が犠牲フライを打つなんて予測もしなかったし、出来なかった。 グラウンドから上がる声はもう緩んではいない。次絶対抑えると言う張り詰めた緊張感がある。 結局、俊は七番の矢尾を三振で抑えた。 三対一で二点のリードに戻された阪野二高は気合を入れ直すが、ショートからの元気な声は結局一度として上がらなかった。 ベンチに戻った天岡はメットを置き、守備に向かおうと思った。だが、ふっと今の打席を思い出す。 結局、三振だった。首を傾げる天岡に二宮は声を掛けた。 「なー、天岡。どしたん?」 「へ?今の打席?」 「せや。」 天岡は首を傾げて困ったように笑った。 「んー?何でやろなぁ。打てへんかった。すまんな。」 「いや、怒ってる訳ちゃうねん。お前が三振すんの珍しいから。」 その時、通り過ぎる浅賀は笑った。それを見て天岡が不満げに言う。 「何笑ってんねん!こら、恭輔!」 「何がやー。仕方無いやん。」 浅賀は笑う。 「お前等下らん事話してんなぁって思て。」 「下らんて。」 二宮が軽く笑う。 「だって、三振するのは普通やんか。三振した事無い方がおかしいやん。」 「はぁ。」 気の無い返事をしたのは天岡。それをもう一度浅賀は笑いグラウンドへ走って行った。 |