38、道程


 『七回裏、阪野第二高校の攻撃は四番、御杖君。背番号5』

 御杖はバッターボックスに立った。これまでノーヒット、全打席三振の記録。守備を抜けばいいところ無し。
 今、御杖にプレッシャーはあったが、決して枷ではない。

 (あの球、やっぱり打てない球じゃないんだ。)

 浮いて見えると言うのは思い込みかも知れない。御杖は構えた。
 一球目は、ストレート。二メートルも上から投げられた球は勢いを殺す事無くミットに飛び込む。

 「ストライクッ!」

 御杖は動かなかった。
 動かなかったが、違和感を覚えた。



 (ん?)

 今の球は、浮いていた?
 ついさっきまでの考えを一気に覆すような感覚だった。そして、グリップを握り締め浅賀を見た。

 (この球、浮いてねぇや。)

 七回裏に来て、ようやく御杖は答えに辿り付いた。今まで何を迷っていたのか。裕が浮かないと言った理由も、俊が打てた事も解る。この球は、沈まないだけで。

 (この球は市河の球に比べて落ちない。だから、浮かんでいるような錯覚が起こるのか。)

 種が解れば後は簡単だ。
 二球目、アウトコースのストレート。御杖は振り切った。もう、迷わない。

 キンッ!

 打球は三塁方面に切れた。

 「ファール!」

 わっと歓声が上がる。今までの御杖の打席を見れば当然の事だが、そのファールは目覚めたかのような迷いのないスイングだった。
 そんな一打を見て二宮は息を呑む。

 (そうや、こいつが四番なんや。)

 今まで目立っていなかったけども、こいつが阪野ニ校の最強打者。二宮は次のサインを出した。
 阪野ニ校と明石商業の試合を忘れた訳ではない。初打席でホームランを打ってしまうような打者なのだから。

 三球目はストレートではない。この試合、まだ二球しか投げられていないドロップ。
 二宮は、これで打ち取ったと思った。だが、御杖は振り切る。

 (なめんなよ!)

 これまで御杖が三振だったのは、投げられた球が全部ストレートだったからだ。どんなにいい球だろうが、いい場所に決まろうが御杖の敵じゃない。
 甲高い音が響いて打球はレフトの頭を超えた。



 「ナイバッチーッ!」

 阪野ニ校ベンチから声が飛ぶ。結局御杖は三塁打になった。
 それを見て裕は大きく息を吐いてベンチに深く座り込んだ。御杖が「球が浮かび上がる」だの言っていたので心底心配していた。

 (よかった…。)

 もう七回裏だけども阪野ニ校はまだ引っ繰り返せる。



 一方、阪野ニ校は御杖の目を覚ますような一撃を反撃の狼煙に那波がニ遊間を抜ける二塁打を打つ。その間に御杖は生還し、再び一点差まで縮めた。
 しかし、朝間も阪野ニ校をそのまま勢いに乗せる事は無く、六番の滝と七番の斎を三振に抑えた。
 ツーアウトランナー二塁の中、八番の爾志はショートへのゴロを打ったがイレギュラーで運が味方し、ツーアウトランナー一塁、三塁。
 そこで、朝間は俊を四球で出し満塁策を取った。

 負傷したキャプテンを相手に阪野ニ校のチャンスと勢いを同時に殺そうとしたのだ。


 『バッター一番、蜂谷君。背番号6』

 バッターボックスに立った裕はすでに肩で息をし始めていた。ベンチから立ってここまで歩いて来ただけでこの通りだ。何故、裕がまだグラウンドに立っているのか二宮には解らなかった。

 (もうフラフラやんか。何で交代せぇへんねん。そんなに控えがおらんのかい。)

 さっきから狙われている事に気付いていないのか?守備も攻撃も穴になっているのに何故も下げようとしないのか。二宮はそれでもサインを出す。油断も手加減も無い。

 一球目はストレート。裕はついさっきの打席で倒れるまでは全て出塁した。恐らく、浅賀の球で打てないものは無いだろう。だからこそ、この状況で最も打てないだろう球を。
 この球威のある剛球を。

 だが、裕は振らなかった。ストライクカウントが一つ。スコアボードではランプが一つ点灯。

 まったく動かなかった裕を見て二宮は様々な思考を巡らせる。

 (今の、ただ見送っただけか?)

 違和感を感じて、二宮は次のサインを出す。二球目もストレート。
 その球がミットに納まった時、裕は動かなかった。

 (…コイツ、もしかして。)

 二宮は裕を見たが、表情は暗くて見えない。ただ、汗が酷くて息が荒い。メットの鍔で隠れているから余りよく解らないが、顔色が悪い。

 (コイツ、バット振れないのか?)

 そう思った時、裕は軽く咽た。一球納まるごとにバットを下ろしている。

 (決まりだ。…コイツ、もう…、バット振る力も残ってねぇんだ。)

 限界なんだと思った。そして、裕の限界に気付いているのは二宮だけではない。浅賀もまた、マウンドから見て奥歯を噛み締めた。昔なら今すぐに駆け寄ってぶん殴っても交代させたところだ。
 だが、今は違う。敵だ。浅賀はサインを受け取って投げた。

 ツーアウトで投げたのはストレート。
 裕は、ようやく動いた。


 (なめんなよ…!こんなとこで、終わらせるか…!)


 力一杯バットを振り切ったが、まるで力が入っていないようだった。コキンと軽い音を立てて打球は三塁線に転がる。打球としてはスクイズ。気持ちとしてはヒットだった。
 グッと地面を踏み締めて一塁へ向かって走る。ランナーは当然全員スタート。

 ズキン。
 ズキン。
 ズキン。

 膝に何かが刺さるような痛み。視界が歪む。眩暈がした。その時。

 「アウト!」

 本塁で審判の声が聞こえた。裕はそこで動きを止めて膝に手を付いた。

 (俺があんな打球打ったからだ…。)

 額の汗を拭って裕は立った。傍には俊がいた。珍しく手を差し出しているものだから裕は驚いて笑ってしまった。俊は眉間に皺を寄せて言う。

 「手、貸せ。一人で帰れねぇだろ。」
 「は、はは。…なめんな。」

 裕ははっきりと言い切って、俊を残して歩き出す。相変わらず視界は歪む上に眩暈がして、膝からは倒れそうになるくらいの痛みが襲う。
 俊は裕の後ろ首周りを掴んだ。

 「強がってんな。」

 そのままズルズル引き摺るようにベンチへ帰って行く。裕は唖然としたままだった。
 その途中ですれ違ったのは浅賀。酷く、険悪な目つきだった。

 「…何で、交代せぇへんの。」

 裕は何も言わなかった。だが、浅賀は続ける。

 「そうやってしがみ付いて、何になんねん。俺達は、お前が潰れても責任取れへんからな。」
 「…いいよ。」

 責任なら、自分で取る。
 その言葉を裕は口には出さずに胸の内で消化した。



 そして、阪野ニ校ベンチ。

 「ドンマイっす!蜂谷先輩!」

 まず声を掛けたのは那波だった。それに続くのは斎、滝、更に久栄。

 「浅賀さんの球めっちゃ重いっすよねぇー。しかも速いし!」
 「斎先輩三振でしたもんね!」
 「滝もだけどな!」

 わいわいと盛り上がる後輩達。今、一点差で負けている阪野ニ校は追い上げムードだ。
 四人の後ろからひょいと顔を出したのは禄高。

 「裕、ポジションチェンジだ。」
 「え?」
 「お前はファースト。俺はサード。御杖がショートに動くから。お前両利きだったし大丈夫だろ?」
 「禄高も右利きだったしね。」

 御杖が笑う。裕は信じられないものを見るような目だった。

 「何で?俺がチャンス潰してんのに…。」
 「チャンス?」

 爾志は笑った。

 「チャンスってのはピンチと表裏一体だろ?どっちに転ぶかなんて解んねぇもんだよ。」
 「うわー、爾志いい事言う!」
 「だろー?」
 「でも親父臭ッ!」
 「ああ゛?!」

 笑い合う爾志と禄高の奥には新。

 「…んな顔してんなよ。キャプテンなら偉そうにしてろ。」
 「無茶言うなっつの。コイツがキャプテンになった時点でそんなの無理だろ。」
 「はは。違いねぇや。でも、これが阪野ニ校のベストだろうけど。」

 笑い合う皆は満塁のチャンスを潰された後のようでは無かった。
 裕は、言葉が見つからず開いた口をすぐに閉じた。言葉は出て来なかったけども、代わりに涙出そうだった。そんな裕の肩を俊が叩く。

 「これがお前の選んだ道だ。いい事も悪い事も引っくるめて…最高の道だったんじゃねぇの?」

 俊は軽く鼻で笑った。裕の俊が叩いたのと反対の肩を爾志が叩き言う。

 「さ、行こうぜ裕。お前の選んだ道だ。最後まで気張れよ!」
 「さっき、お前がいなくても勝てるって言ったけど…訂正する。お前は阪野ニ校の斬り込み隊長なんだ。いなきゃ困るんだよ。」

 爾志の後に新が続く。裕は一度力無く笑った後に、出来得る限りの大声で言った。

 「…あと二回だ!守るぞ!」
 「「「おおッ!!!」」」



 その後、朝間高校はヒットを続け、走者一塁三塁になるもチャンスを生かせずスリーアウト。得点には至らず。
 阪野ニ校の攻撃。新は内野ゴロで出塁し、禄高はレフト前ヒットで無死走者一塁二塁になり、御杖もヒットで満塁になるも後が続かずスリーアウトでチェンジ。

 朝間高校対阪野二高の決勝戦は、三対ニで朝間リードのまま最終回を迎えた。