39、背負った番号


 『九回表、朝間高校の攻撃は……。』

 ざわめきの球場でアナウンスはその名を確かに告げる。
 歓喜と、希望と、自信と、絶望と、不安を背負った朝間高校の最強の打者。

 『四番、天岡君。背番号は五番。』

 天岡はバッターボックスに真っ直ぐ立った。そして、同じくらい真っ直ぐな目で正面の投手を見る。
 この試合を通して、天岡は変わった。目に光が宿った。自信に溢れていて、朝間には希望を与え、阪野二高には不安を与える。
 ふー、と息を吐いて天岡は少し目を閉じた。それはおそらく数秒と掛からない刹那、心の中で描いた走馬灯。この三年間の野球が全て蘇る。
 入学、入部、きつい練習、勝利の喜び。天岡はもう逃げたりしない。哀しさも喜びも全て受け止めてここに立っている。全国一の四番として。

 高校最後の試合で、こんな舞台に立てた事を誇りに思う。

 「お願いしますッ!」

 腹の底から出した声は、思いの外大きかった。

 一方、阪野ニ校は内野ポジションが動いた。裕はファーストに、ファーストだった禄高はサードに、サードの御杖はショートに。
 裕は微妙に使い難いミットを右手に備える。左で投げるなんて、どれくらいぶりだろう。そんな事を考えていると、足にあの痛みは無かった。


 真夏の甲子園、決勝。観客は多く、客席は殆ど満席。
 王者、朝間高校に一点差で食らい付くのは殆ど無名の高校。窮鼠猫を噛むと言うが、この場合猫に噛み付いたのは本当にただの鼠だったのか。


 パーパラー パーパー
 あまおかー


 応援は騒がしく、皆声を枯らしながらそこにいる。
 負ける訳にはいかない。

 一球目のストレートを天岡は振り切った。打球はファースト方面に切れる。

 「ファールッ!」

 天岡は息を吐いた。そのため息には、呆れにも近い気持ちが僅かに混ざっていた。
 一体、どうしてこれまでこんな投手が無名だったんだろうか。今の球速は152kmで、さっきよりも早くなっている。
 見る目が無かったと言う事に呆れながら、こんな投手と戦える事を嬉しく感じた。オーバースローの高速スライダーと言う異端を目の前で見れた事。きっと、この投手は浅賀と並んで大物になる。

 二球目のカーブを見送り、ボール。

 天岡は高校三年間を通して、三振をした事が無い。もしかしたらあるかも知れないが天岡は覚えていない。少なくともこの一年は本当にしていないのに、この最後の試合で三振を取られてしまった。
 悔しいが、嬉しい。

 三球目、ストレート。ギリギリのコースを見送るが。

 「ストライクッ!」

 カウントは2−1になった。
 天岡は唾を呑み下し、静かに構えた。次に来るのは恐らくあの高速スライダー。

 来い!

 心の中で強く念じながら天岡は前を見据える。
 そして、予想通りの高速スライダー。天岡のバットは僅かに掠り、打球は後ろに弾けた。

 「ファール!」

 当たった事に驚き、喜ぶ。
 打てない球じゃない。更にその次も天岡はカットした。

 「ファール!」

 その次も、その次も。

 ファール、ファール、ファール。
 天岡自身何回カットしたか解らないくらい、粘った。真ん中で捕らえる事が出来ない。力で持って行こうとすれば絶対に空振る。
 投げている俊も、天岡も、すっかり息が上がっていた。その一歩も引かない勝負に観客は固唾を呑んで見守る。喧しい応援の中に静寂があった。
 だが、裕は叫んだ。

 「ピッチャー負けんな!」

 その声に即発されて、グラウンドの彼方此方から声が返って来る。

 「ピッチャー頑張れ!」
 「サード来い!」
 「落ち付いてこー!」

 すっかり息が上がって、狭くなった俊の視界が一気に開けて行く。ふう、と一息吐けば後は冷静だった。

 (天岡は化物だ。だけど、俺が止めずに誰が止める!)

 サインは決め球の高速スライダー。皆が信じている球。負けない、負けたくない。これで丁度二十球目を迎えた。そして、投げる。

 投げた球は今まで投げて来た球よりも深く、早く変化してミットに飛び込んで行った。


 「ストライクッ!!バッターアウト!」


 審判が叫んだ瞬間、俊は無意識にガッツポーズを作った。声こそ出さなかったが、今にも叫び出したい気持ちで一杯だった。
 天岡はバットを下ろした。手に力が篭る。声にならない叫びを心の中に閉じ込めた。

 打てなかった。
 あれだけ掠った球が、最後の最後で打てなかった。

 俯き、ベンチに戻る。すれ違ったのは二宮で、咎めようともしなかった。ただ、肩を軽く叩いて行った。
 ワンナウトランナー無し。打者は五番。

 『バッター五番、二宮君。背番号二番。』



 そのアナウンスが聞こえ、天岡はベンチから身を乗り出して応援する。でも、心ここに在らずでまったく違う事を考えていた。
 脳裏に描くのは、最後に空振ったあの高速スライダー。今更攻略もくそも無いが、打てなかった事が何よりも悔しくて泣き出したくなる。
 更に、浅賀のあの言葉を思い出す。二年の最後の試合で全国に言ったあの言葉を。


 『…最強の打者に告ぐ!俺達は約束の地にてお前を待つ!!…早くここまで上がって来い。』


 結局、浅賀の言う通り自分は最強にはなれなかった。だけど、向こうが最強と呼ばれるに相応しいかを天岡は知らない。


 試合は進み、二宮はカウント2−3まで粘った。天岡のあの連続カットで俊にも疲れがあった。序盤の目を見張るような球のキレが無い。狙うなら、ここだ。

 フルカウントで投げられたカーブを二宮は打った。
 驚くほどいい当たりで、打球はセンターの頭を超えた。

 「回れ回れッ!」

 コーチャーが忙しなく腕を回し、二宮はダイヤモンドを駆け抜ける。足はそれほど速くないが、十分二塁は射程距離だった。
 そして、滑り込んだ途端に聞こえる審判の声。

 「セーフッ!」

 真夏の炎天下も知らないような大きな応援が降り注ぐ。斎は届かなかったボールを握り締めた。
 ワンナウトランナー二塁。

 『バッター六番、浅賀君。背番号一番。』

 声援を背中に受けながら、浅賀はバッターボックスに立つ。一点差で勝ってはいるが、阪野二高と戦うのに一点は少ない。せめて、もう一点欲しい。

 爾志はサインを出す。
 俊が疲れているのは解るが、ここで負ける訳にはいかない。浅賀は最低球数で終わりにしたい。
 三球三振、投げるのは決め球。

 俊は頷いて、その球を投げた。
 浅賀はそれをただ見送る。

 「ストライクッ!」

 嫌な見送り方をされたなと思いながら爾志は次のサインを出す。次も、同じ球。ただしボール。
 浅賀は眉間に皺を寄せている。

 まるで、キレが無い。もはや高速でも何でも無い。
 天岡に投げていた時の球がまるで嘘のようだった。

 二球目はボールになるスライダー。でも、浅賀は動かない。

 「ボーッ!」

 浅賀は肩を落とした。

 (そういや、コイツは明商の試合で崩れた投手やったな。疲労が癒えなくて、後半から登板したんか。)

 なら、もう限界のはずだ。ここで決めてやる。


 三球目もスライダー。今度は動いた。
 迷いの無い力強いスイング。バットは確実にヒットした。

 グングン伸びて行く打球をセンターが追う。まるで基本を確認する練習のような、綺麗なセンター返し。
 フェンスに激突した打球の斎は飛び付いた。打球と同じく衝突したが斎は球を零さない。

 浅賀はアウトになったが、二宮は本塁に辿り付いてしまった。
 結局、打ち上げ過ぎてしまったが浅賀は真ん中であのスライダーを捕らえている。

 一点を入れられ、阪野ニ校はマウンドに集まった。



 「俊、平気か?」

 訪ねたのは裕。顔色が何時の間にかすっかり回復している。さっきまでの様子はまるで嘘のようだ。俊は裕の質問にゆっくりと頷いた。
 禄高はいつもの元気一杯の声で言う。

 「勝とうぜ!ここまで来たんだから!」

 その言葉に皆が同意する。
 二点差に開いてしまったが、誰一人その状況を悲観しない。誰もが皆、朝間に勝てると思っている。勝利への意志は、消えずに今も燃え盛る。

 「打たせて行こう!後ろ守ってるから!」
 「そうそう、ショート打たせてよ。俺、せっかく動いたのに何の仕事もしてないじゃん。」
 「サードもなー!」

 それぞれ好きな事を言ってそれぞれポジションに帰って行った。疲れ切った俊の背中は、不思議と軽い。
 皆の後姿には番号。2・3・4・5・6・7・8・9…。

 (そうだ、俺がエースなんだ。あいつらに心配されるようじゃ駄目なんだ。)

 背負った番号は伊達じゃない。それを証明しようと思った。



 そして、俊は皆の言葉も無視して投げ切った。疲れを見せないキレのある球はバットに掠りもせずにミットに飛び込み、三球三振に抑えた。

 朝間高校の最後の攻撃が終わり、今度は阪野ニ校が最後の試合を迎える。
 ベンチでは阪野ニ校ナインがその最後の攻撃に備える。

 裕は眩暈を感じながら、医務室で服の下に何十にも包帯を巻き付けていた。そんな様子を見て、医者は眉を顰める。

 「骨はまだ折れてはいません…が、罅が入ってる。君も解るだろう?」
 「…。」

 裕は答えずに足を摩った。

 「悪いが…、ドクターストップだ。もう試合は無理でしょう。」

 はっきりと医者は言う。付き添いに来ていた紗枝は目を潤ませながら口を手で覆った。だが、とうの本人は顔色一つ変えずに笑った。

 「これで二回目です。ドクターストップ。」

 医者ははっとして右京を見たが、右京は俯く。

 「…あなた監督でしょう?!」
 「解っています。私は教育者として失格です。いえ、監督としても。」

 右京は手で握りこぶしを作る。でも、そのまま俯いた顔を上げた。

 「これは私のエゴです。でも、私にはこれ以外の選択を出来ない。」

 そんな右京の言葉を聞いて裕は笑った。

 「俺は、医者に何を言われても引き下がれないんです。」

 裕の目は真剣だった。

 「ここは俺の舞台だ。誰にも譲れない。このユニホームは、背番号は飾りじゃない。プレイヤーが着るもんなんです。」

 真っ直ぐな目には確かに揺ぎ無い意志があったが、顔色は悪い。大丈夫、平気と言う言葉とは遠く掛け離れている。
 紗枝は固く目を閉じて、床を踏み締めた。

 「…裕。」

 そっと小さな裕の背中を紗枝は抱き締めた。突然の事に裕は目を見開いて挙動不審に紗枝を見る。

 「もう、止めよう?無理だよ…。」

 紗枝の大きな目には涙が溜まっていた。裕は気をそらすように笑ってみたが、紗枝は変わらない。

 「裕が辛いの解ってる。苦しいくせに…無理して笑わないでよ。」

 裕の表情が凍った。

 「全然平気じゃないくせに、全然大丈夫じゃないくせに…。何で、無理すんの…。」

 裕は俯いた。表情は暗い。

 「もう、十分頑張ったよ。裕が自分の事認められなくても、あたしが認めるよ。だから、もう止めて…。」

 紗枝の目から涙が零れていた事も、声が震えていた事も、心配掛けている事も全部解っていた。皆がどんな気持ちで自分をここにいさせてくれたのか、浅賀がどんな目で見ていたのか、全部知っていた。

 でも、ここだけは譲れないから。

 「…紗枝、離せ。」

 裕は冷たく言ったつもりだった。でも、声は震えていて。

 「ここだけは、譲れないんだよ…。誰にも、譲れない。」

 紗枝が一度しゃくりを上げて言う。

 「誰にも?」
 「誰にも。」
 「辛くても?」
 「辛くても。」
 「…最後まで、走れる?」
 「走る。」
 「勝てる?」
 「勝つ。」

 紗枝が笑う。それに合わせて裕も笑った。

 「お前は心配なんかすんな。俺を信じてろよ。」
 「うん、信じてる…。」
 「俺は勝つから。倒れても絶対立ち上がるから、見てろよ。」

 裕はピースして子供っぽく笑った。そして、紗枝が離れると裕は立ち上がる。
 それを見て監督と医者は盛大に溜息を吐いた。

 「…解りました。例外として、試合出場を許しましょう。でも、救急車は待機させておきます。」

 医者はそう言って、更に念を押す。

 「いいですか?あなたは重傷なんです。これから試合で何かあったら、一生その足は使い物にならないかも知れない。責任は取れませんよ。」
 「いいです。俺が責任を取ります。」

 裕ははっきりと言った。医者はもう一度溜息を吐いた。
 そして、裕は医務室を出る。足の痛みは何時の間にか消えていた。