40、最強の打者


 九回裏、バッター八番。
 背番号は二番、爾志浩人。阪野ニ校の三年生、正捕手。

 爾志はバッターボックスに立ち、バットを前に掲げる。
 点差はニ点。このニ点の重みはよく知っているが、引っ繰り返せない点差じゃない。

――勝とうぜ!ここまで来たんだから!
 禄高の言葉が蘇る。まったくもってその通りだ。ここまで来たら負けられない。
 最強王者の歴史を塗り替えてやる。


 一球目はストレート。前半戦、あれだけ苦しめられた超剛球は最高で157kmと言う高校最速。でも、もうストレートとしては攻略された球だ。
 爾志は初球から手を出した。バットに掠った打球は後ろに弾け飛ぶ。

 「ファール!」

 審判がコールした。初球から手を出した爾志を見ても、朝間高校は誰一人、顔色一つ変えない。冷静沈着で、ただいつも通りにいる。
 浅賀は無言で構えた。
 二球目もストレート。爾志は手を出したが、打球は今度一塁側に切れて行った。

 「ファール!」

 二回目のファールは大きかった。観客席が揺れる。
 これでカウントは2−0で追い詰められたが、普通ならば朝間バッテリーも心理状態は同じになる。でも、朝間バッテリーは普通の選手ではない。
 爾志に浅賀の鋭い視線が刺さった。睨んでいるのかと思うほど鋭く冷たい目だった。

 王者には、ここまで勝ち進んで来たと言う経験がある。
 だから、どんな状況だろうが焦る事は有り得ない。

 三球目はドロップ。爾志のバットは僅かに掠った。
 打球はニ遊間手前に転がる。爾志は走り出した。一方で打球を掴んだのは、ピッチャーの浅賀。非常に冷静な手つきで一塁への送球。

 「アウトッ!」

 ニ、三歩ほど前で送球は届いた。審判の声が聞こえてからも爾志は一塁を踏む。そして、大きく息を吐いて戻って行った。

 (ドロップ…、なんて落差だよ。)

 その球に驚きながらも爾志は最後の打席を終えた。悔いの残る打球だった。



 ワンナウトランナー無し。次の打者は投手、市河俊。
 ベンチに戻った爾志と入れ違うのは裕。ネクストバッターズサークルに向かうのだ。その時、爾志は裕を呼び止めた。

 「裕!」

 裕は振り返る。

 「何?」
 「お前…、足は…。」
 「全然平気!最後なんだ、キャプテンらしいとこ見せたいじゃん。」

 へへ、と笑って裕はまた一歩踏み出した。そして、今度裕を呼び止めたのは監督の右京だった。

 「蜂谷君。」
 「何すか?」

 裕は笑顔のままで訊く。まるで表情が凍りついたようだったが、怪我で苦しい様子なんて微塵も見せなかった。

 「頑張って。」

 右京は微笑み、裕は下唇を噛み締めて頷いた。バットを掴む手に力が篭ってギリと音を立てる。

 「阪野ニ校は、あたしが出会った中で一番素敵なチームだったよ。」

 右京は続けた。

 「市河君は勝利への意志を。」

 ネクストバッターズサークルから出た俊はふっと振り返ったが、そのまま歩き出す。

 「爾志君は、勝つ為の確実なプロセスを。」

 ベンチに戻った爾志と右京の視線が合う。

 「御杖君はチームワークを。」

 御杖は顔を上げた。

 「新君は揺ぎ無い信念を。」

 新は何とも言えない表情で首を傾げる。

 「禄高君は希望と優しさを。」

 禄高は軽く笑った。

 「那波君は諦めない心を。斎君は意地を。」

 那波と斎は顔を見合わせて笑い合った。

 「久栄君と滝君は、自信と絆を。」

 久栄と滝は二人で顔を見合わせた後、同じ方向に首を傾げた。
 右京がそこまで言ったところで、皆の視線が裕に集まる。そして、右京は言った。

 「蜂谷君は、皆に夢をくれた。」

 裕は息を呑んだ。だが、右京は微笑む。

 「君の夢にこれだけのものが加わったね。…前に、君はあたしに言った。“夢の為にこいつ等がいるんじゃない、こいつ等の為に夢がある”って。」
 「はい。」
 「君の夢は、皆の夢になったよ。」

 皆の目が輝いた。裕の頭の中に、俊の言葉が蘇る。

――これがお前の選んだ道だ。いい事も悪い事も引っくるめて…最高の道だったんじゃねぇの?

 これが、俺の歩いて来た道なんだ。
 苦しい事も、哀しい事も、辛い事もあった。でも、それに見合うだけの楽しさや喜びがあった。仲間に出会えた。ここに立てた。それが嬉しい。

 「夢は、叶えるもの。頼んだよ、キャプテン。」
 「はい!」

 裕は大声で返事をしてベンチを出た。背中は軽くて足は軽快に進む。
 太陽の光が眩しかった。

 裕の後姿を見送り禄高は一人思った。それは勘違いとも思い違いとも、見間違いとも取れる事。

 (あいつって、あんなに大きかったっけ?)

 身長159cmで未だに160cmも無いチビが自分より大きく見えた。酷い錯覚だ。蜃気楼かも知れないと馬鹿な事を考えた自分を心の中で笑った。



 俊はバッターボックスに立った。これが正真証明、高校の公式戦最後の打席になる。ここは譲れない。
 普段、余り人を褒めない自分だが、この浅賀恭輔は同じピッチャーとして尊敬に値する。あれだけの剛球を投げても未だに疲れを見せずにいる。本選は全てたった一人で投げて来た化物は、全国一位のチームのエース。
 はっきり言って、自分は浅賀には勝てない。少なくとも今は。俊の球は150kmを越えるが浅賀は最速で157kmだと言う。まだその最高速度を見せていない。
 更に、浅賀はここまでストレートとドロップだけで乗り切って来た。だけどまだ、フォークが来ていない。浅賀はまだ一度も決め球を見せていない。

 もしもここで、そのフォークを投げられたら自分は打てるだろうか?

 その答えは、自分に問いかける前から知っていた。答えはノーだ。打てる訳がない。下手をすればドロップさえ危ない。

 色々と思考を巡らせる俊に投げられた一球目は、爾志と同じくストレートだった。でも、その高めのストレートを俊は見送った。

 「ボーッ!」

 ギリギリのコースだったがボール。審判の判定を聞いて俊は息を吐いた。
 本当に嫌な投手だ。今のに手を出したらきっと打ち上げていた。

 二球目は、ドロップ。爾志が打てなかった球。
 俊はバットを振ったが、当たらない。ボールはストンと綺麗にミットへと落ちて行く。

 「ストライクッ!」

 俊は目を擦った。一緒に汗も拭う。
 今のはただの空振りじゃない。ドロップの軌道を測っただけだ。カウントは1−1だからきっとまた投げられるだろう。

 三球目はストレートだった。ドロップに身構えていた俊のスイングは遅れて空振り。
 ストライクのカウントが一つ。追い詰められた2−1。

 (あっという間に追い込まれちまった。…カウントは整ってる。何が来る。)

 決め球が来るか。ドロップか。ストレートか。三種類でも、凡庸な投手ならばどれをとっても十分な決め球にするだろうに。

 四球目。最後の一球はドロップ。もちろん、ストライクゾーンだ。
 結局、この試合を通して俊に決め球は投げられる事は無かった。でも、俊はこのドロップを打てる。


 キンッ!

 甲高い音と共に打球は驚くほどよく伸びた。ぐんぐん伸びる。柵を超えるかと淡い期待を抱いては見たが所詮夢。打球はライトとセンターの間に落ちた。
 俊はダイヤモンドを駆け抜ける。二塁に滑り込んだと同時に送球が届いたが、判定はセーフだった。

 息が上がって肩が上下する。今のは自分でも褒めてやりたいくらいに速かった。
 決して足は遅くない俊だけど、二塁に間に合うとは思わなかった。勝負するような絶体絶命のピンチでも無かったが、もう九回裏。俊は大きく咳き込んだ。

 ワンナウトランナー二塁。打順はついに一番に戻った。



 
「甲子園で逢おう。」

 その約束から三年が過ぎた。沢山の逆境に堪えて、困難も乗り越えて。再会を決着として時が流れ、裕はバッターボックスに立った。
 この瞬間をどれだけ待ち望んだのだろうか。アルプスから笹森エイジが、マウンドから浅賀恭輔が、バッターボックスから蜂谷裕が高鳴る心臓の音を聞いていた。

 出来る事なら言葉を交してから最後の勝負に向かいたいところだけども今は試合中。言葉はプレーの中で語るのがプレイヤーと言うものだ。

 浅賀はニッ、と口角を上げて笑った。裕の顔色が思いの外よくて、その目に昔以上のキラキラした輝きが見えたからか浅賀は嬉しくてうずうずしている。こいつを綺麗に打ち取れたらどれだけ嬉しいんだろう。

 裕は口を真一文字にして身構える。中学の時よりも身長が伸びて、中身は大人になって、親友は変わってしまったんだと心の中で落ち込んでいたが、今は馬鹿らしい。浅賀は変わってない。夢中で白球を追い回したあの頃のままだ。

 笹森は拳を作って見守る。この舞台に自分がいられない事は残念で悔しいけれど、今この瞬間に立ち会えた事が嬉しい。アルプスの人込みに埋もれながらもその目は何処にも離れない。

 天才と呼ばれたピッチャーと、最強と呼ばれた小さなバッターが対峙する。



 浅賀は、一球目を投げた。



 ゴウゴウと唸るような強烈なストレートだった。裕は力一杯振り切ったが球速はそれ以上に速かった。バットは虚空を切る。
 ドン、と勇ましい音を立てて球はミットに。電光板を見て観客がざわめく。
 今の球速は157kmだった。浅賀の最高速度だ。この試合で投げて来たストレートで一番速い。

 「ストライクッ!」

 少し遅れて審判は言った。
 裕は気にもしないで靴の裏に付いた土をトントンと落とした。そのままバットを持った左手を前へ掲げ、すぐに構え直す。



 二宮はサインを出す。
 さっきのフラフラだった姿がまるで嘘のようだ。でも、疲労は絶対に蓄積してる。そう見えないだけの筈。ならばスクイズも有り得る。
 守備にサインを出そうとした。でも、浅賀の目を見た瞬間その考えは吹き飛んだ。

――こいつはスクイズなんかしない。

 浅賀の目はそう言っていた。
 何の確証があるのか知らないが、浅賀があんな目ではっきりと自己主張するのは珍しい。二宮は渋々サインを下げた。



 二球目もストレート。叩きつけられるような球筋に目が眩むが、打てない訳じゃない。いや、打てない訳が無い。裕はフルスイング。二宮の耳に風を切る音が届いた。
 殆ど音も無く打球は三塁に切れる。ファールだが、阪野ニ校の応援は盛り上がる。
 でも、それ以上に盛り上がりを見せる朝間高校の応援。

 今の球速、158km。

 浅賀の自己ベストを超えた。たった一キロの重さは浅賀も裕も解っている。浅賀は未だに発展途上。頂上は見えない。だけど、発展途上ならバッターも同じだ。
 カウントは2−0だったが、ここまでは予想の範疇。劇で言うならば序章。

 (この際、速度なんて関係ねぇや。)

 裕は心の中で呟いて構えた。今、裕の頭の中には三種類しかない。ストレート、ドロップ、フォーク。球種だけで一杯一杯だ。球速まで計算に入れる余裕は無い。
 三球目はドロップ。確かに菖蒲ほどの急な落差は無い。ただ、速い。でも、速度は裕の頭の中には無い。
 その変化球を冷静に見送る。

 「ボーッ!」

 ギリギリだが、コースから外れていた。
 ふっと息を吐いて裕は目を閉じる。これは、裕のジンクスで自分の中に自信を生む。自己暗示と言ったら誤解を生むだろうか。でも、こうして集中する事で周りの音が全て消える。
 元々緊張感に欠けると言うか、能天気な性格の為にプレッシャーを感じる事は余り無いが、音が全て消えれば雑念が消えて一球一球に集中出来る。

 目を開く。意識の中で、周りの景色が消えて正面には浅賀が立っていた。
 そして、瞬きをすれば試合の景色が帰って来る。もう、大丈夫。

 カウント2−1の四球目は決め球だった。この試合で初めて姿を現すフォーク。速い。
 落ちて来ると言うよりも向かって来ると言う表現が近い。この球は一体何百人の三振を奪って来たんだろうか。いや、投げる事自体が稀なのだから少ないか。そんな事を考えて裕は振り切った。

 鋭い音を上げて打球は飛んだ。また三塁側に切れた。

 「ファールッ!」

 僅かに球の下を叩いたせいだ。流石にいきなりは芯で捕らえさせてくれない。でも、そんなのは時間の問題だ。すぐにでも捉え切れる自信がある。
 ただ、自分にはタイムリミットがある事も裕はちゃんと知っていた。

 足に抱えた爆弾が起爆しない内に終わりにしたい。
 三年前のあの約束は、今まで自分を色々な形で支えて来てくれた。逆に苦しめる事もあった。そんなあの約束は今果たされた。
 だから、今度は決着を着ける。



 自分の野球全てに決着を着けよう。



 五球目、フォーク。一瞬で落ちてくるジェットコースターのような球。だが、その球は最後まで走り切る事は出来なかった。

 キィンッ!!

 打った瞬間、手応えを感じた。これは伸びる。
 高さは無いが、スピードのある打球だった。打球はあっという間にレフト横。俊は三塁を蹴る。


 レフトのスムーズな送球。だが、俊は滑り込んだ。
 何時の間に乾いたのか砂埃が舞って、ホームの視野は酷く悪かった。数秒して、審判は動き出す。

 確かに、両手を左右に開いたのだ。


 「セーフッ!!」

 一瞬、何が起きたのか解らなかった。俊は顔を上げて瞬きをする。
 だが、周りの皆の笑顔で現実を見た。夢中で走って滑り込んで――、判定はセーフ。

 柄にも無く俊は大きくガッツポーズした。
 九回裏ワンナウト。阪野ニ校は王者朝間に再び一点差――。



 浅賀は電光板を見て息を吐いた。
 点数は4−3…。ワンナウトランナー二塁。レフトは横に落ちた打球はこれ以上に無いくらい綺麗に取って素早く投げたのに、一体何時の間に二塁に来ていたのか。ホームに目が行って気付かなかった。
 でも、これが限界だった筈。

 (あいつの足なら三塁まで余裕で行けたはずや。でも、二塁。爆弾、動き出したんとちゃう?)

 このまま、逃げてやる。
 浅賀は静かに次の打者に備えた。



 裕は膝に手を付いて大きく息をした。膝がズキズキと痛み出した。どうしてこの足は肝心な時に動いてくれないんだ。その苛立ちさえも痛みに打ち消されてしまう。
 そんな裕を三塁から天岡は呆然と見ていた。

 (最強…か。)

 最強ってのは、打てない球が無い事。そして、皆から認められている事。
 もしも、その皆に自分が含まれるとしたなら裕は間違い無く最強なんかじゃないのに。最強じゃないとするなら、最高だろうか。敵ながら感心してしまう気力だと思う。

 (恭輔、お前の言う最強の打者は…確かに最強やね。でも、もしかしたら“最高”の方が合ってるかも知れへんよ。)

 そんな事を考えて、天岡は笑った。