41、勝利の行方 ワンナウトランナー二塁。次の打者の二番、新は小技の上手い選手。 今日のこの試合、前回の打席にスクイズで追加点を入れた。 阪野二高の応援席では、皆が祈るように試合を見つめる。泣きそうになっている人さえいる。 今の点差は一点。裕が帰ってくれば同点になる。そして、阪野二高は延長戦になれば勝てない。エースも切り込み隊長も限界だから。 裕が三塁にいれば点を取るのはそう難しくない。もちろん、裕が全快だと言う仮定のもとでだが。 一球目はドロップ。 新は打ちに行きそうになったが、堪えて見送る。 「ボール!」 一球目からドロップ。朝間は新がバントすると思っている。確かにバントの方が楽だ。でも、ドロップを相手に打つのは恐い。 二球目もドロップ。 新は振り切ったが、バットは掠りもしない。 「ストライクッ!」 審判の声が聞こえた。 (くそ…。なんだよ、この落差は。) これが本当にただの縦カーブなのか?新はその疑問を抱きながら顔を上げる。 真っ青な空が広がっている。柔らかな雲が浮かび、鳥が羽ばたく。空はこんなに平和なのに。愚痴のような事を思って新は自分を心の中で笑い、目を戻した。 (後の事は後のヤツらに任せて、俺は俺の出来る事だけをやろう。) ここで併殺ならゲームセットだ。新は構えた。 (今、俺に打てるのは六回に打ったあのストレートだ。) 今は確実に打てるものだけを狙おう。そう思った矢先だった。 三球目、ストレート。新は振りきった。 ガキンと鳴ってボールは一塁方面に飛んだ。新はバッターボックスから走り出す。 この場面で一番重要なのは、自分が間に合う事じゃなく、裕が三塁に行くと言う事。 裕は二塁を蹴った。砂埃が舞う。一切無駄が存在しない、流れるような走りだった。でも、途中で僅かに体制が崩れる。 膝の爆弾が動き出した。タイムリミットは残り僅か。新がアウトになったらツーアウトだ。なら、絶対に走者三塁は譲れない。阪野二高の延長戦の余裕は無いのだから。 一塁セーフの声が聞こえた。新はどうにか間に合ったようだ。 三塁まであと僅か。…間に合わせる! 「サード!!」 浅賀の声だった。 ファーストがバント処理をしたから、ピッチャーがベースカバーに入ったんだ。最悪だ。…でも、 (三塁はもらう!!) 裕は加速した。三塁が射程距離に入りラストスパートを掛ける。その裕の後ろからは矢のような送球が迫っていた。 負けたくない。その思いだけで裕は三塁に飛び込んだ。ここで間に合わなければもう試合は絶望的。ほぼ同時に送球。裕は飛び込み、三塁ベースに左手をタッチ。同時に届く送球を取ろうと腕を伸ばしていた天岡は、裕の滑り込みで体制を崩して倒れ込んだ。 しん、と静まり返る中、審判は両手をゆっくりと開く。 「セーフッ!!」 間に合った! 歓声をが上がる。同点はもう目の前だ。負けるはずが無い。そう皆が思った。不安な表情も皆消し飛んだ。勝っている訳でもなく、ただチャンスと言う訳でも無いのに。 興奮を隠し切れない阪野二高ナイン。得点圏に辿り付いたこのワンプレーは湿っぽくなったベンチを沸かすに十分だった。新は土を払いながらベンチに戻る。 もくもくと砂埃の舞う三塁は未だに視界が悪い。浅賀は誰にも気付かれないように舌打ちした。 砂埃の中で天岡がゆらりと立ち上がる。 観客たちが少し落ちついた頃、皆が異変に気付いた。 「…まずいッ!」 ランナーがいつまで経っても起き上がらない。裕が動けないでいる状況は今日で二回目。那波がコールドスプレーを片手に走る。 審判がタイムを取った。 敵だと言う事も忘れて浅賀は三塁まで走った。那波が同着する。 「裕!どないしたんや!?」 裕は届いた左手はそのままで、姿勢は丸くなって膝を抱え込んでいた。 「裕!しっかりせぇよ!」 「…っ。」 「担架急いで!」 審判が担架を呼ぶ。球場は一時騒然となった。 裕は表情を苦痛に歪ませて、これが裕?と思わせるほどだった。 担架が到着しようかと言う時、裕は立ち上がった。 「大丈夫です。」 さっきまでが嘘のように裕は笑って見せた。だが、医者と担架が到着。 医者は裕の膝の診察を始めた。 「…まずい、な。これは、折れる。」 「じゃ、まだ折れてないんですよね。」 裕は子供っぽく笑った。 「もう、止めなさい。君は仲間を信頼して下がるべきだ。」 「仲間なら信頼してます。でも、俺の意志がここを譲れない。」 その時、那波が一歩踏み出す。 「蜂谷先輩、何でそんなにやるんですか。俺が、代走しますよ。禄高先輩が帰してくれる。だから…。」 「ありがとう。気持ちだけで十分だ。」 那波の言葉に裕は笑顔を返した。驚くような満面の笑み、その顔を見て、もう何を言っても無駄だと理解した。 「もう一度言います。大丈夫です。…ここは俺の三年間の夢なんです。」 医者は眉を顰める。 「夢って言ったって、ここで君は一生を駄目にするかもしれないんだよ?これからの未来があるんだから…。」 「未来なんて、知らない。俺には今この一瞬しかない。お願いします。」 裕の表情は主張を現すように凛としていたが、冷や汗がぽたりと落ちた。自分の限界ならとっくの昔に理解している。それでも、譲れないから。譲ってしまったら、自分が消えてしまうような気がするから。 「お願い、します。」 那波は頭を下げた。実際、恩人でもある先輩がこんな状況で胸中穏やかじゃなかったけどもそんな事は言っていられない。 (諦めたり、逃げ出したりするのはとても楽だと思う。でも、それじゃいけない時がいつか必ず来る。) 裕にとって、それが今なんだと思った。 こんなに必死に、泣きそうになりながらもグラウンドに立とうとするこの人を止める権利は何処にも無い。 この人は勝たなければならないんだ、今日この試合で。 「君も何を言っているんだ…!」 医者は理解出来ないような目を那波に向ける。でも、裕は引かない。 「理解、出来ませんか?あなたにはありませんでしたか?何があっても譲りたくないものが。」 真っ直ぐな裕の視線が医者に突き刺さる。これ以上、医者は言葉を繋げない。遠くから救急車のサイレンが聞こえ、だんだんと近付く。 そして、この甲子園球場で止まった。 天国からの迎えが来たくらいの気持ちで裕はそのサイレンを聞いていた。 「解った、よ。でも、試合が終わったら…いや、このワンプレーが終わったら君は病院だ。いいね?」 「はい!ありがとうございます!!」 裕は大きく頭を下げた。でも、そのすぐ後に肩を掴まれた。 「ダメだ。」 何時の間に来たのか、それは見慣れた従兄弟だった。 俊は裕の前に立ち塞がる。 「お前に試合はさせられない。」 「何で。絶対本塁に着くよ。」 「違う。もう、限界なんだろ?…他のヤツが走るだけだ。」 「限界なんて越える為にあるもんだよ。」 裕は俊を押し退ける。真っ直ぐ見た目は今まで見て来たどんな目よりも真剣で鋭かった。 「俺のグラウンドはここなんだ。誰にも譲れない。」 汗が落ちる。 誰もがきっと気付いてる。足を庇うような動き、多過ぎる汗に顔色の悪さ。 でも、誰も止められない。 真っ青になっている天岡の肩をポンと叩いて裕は笑った。 「これは俺が選んだ道だ。お前はただ当たり前の事をしただけ。」 天岡は、何も言わなかった。 倒れ込んだあの瞬間、鈍い音がした。怪我が進行したのは事実。そこに関わっていたのも事実。でも、天岡は普通の事を当たり前にしただけ。 滑り込みを止めようとしただけ。だから、何も悪くない。悪いのはそれでもグラウンドに立つ裕。 でも、誰も悪くない。 自分の信念を通しただけ。勝ちたいと戦ってるだけ。 浅賀はマウンドに戻り、ゆっくりと目を閉じた。その行動は裕のジンクスに酷似している。 絶対に勝てると言う自信を生むジンクス。そして、目を開く。そこにはいつもの世界が広がっていた。 試合が再開される。 ワンナウトランナー一・三塁。打者は三番、禄高。クリンナップ最初の打者は副キャプテン。 ベンチからの応援も一際気合が入る。 「裕、大丈夫なのかよ…。」 爾志はグラウンドを見て呟いた。すると、俊は半ば睨みつけるように見て言う。 「大丈夫な訳ねぇだろ。」 「じゃあ、何で行かせたんだ!?」 「お前なら止められたかよ!!」 あんな目で訴える男を止められるものか。 九回裏、一点差で負けている中で三塁走者が裕である事がどれだけ皆の支えになるか。裕でなければ間に合わない。 (禄高、繋いでくれ…。) 御杖はネクストバッターズサークルで心の中で呟いた。禄高はバッターボックスに立つ。 真剣な表情は、いつもの禄高の印象を消し去った。お調子者の禄高はここにいない。 静かに、バットを構えた。 スクイズは打てない。三塁走者にいつもの安心は無いから。併殺の危険が大き過ぎる。 一球目、ストレート。 インハイの球は唸りながらミットに飛び込んでいく。思わず仰け反った。 「ストライクッ!」 禄高は無言で地面を均した。 (すげぇ…。御杖の言った通り浮いて見えた。) 最高のストレートは浮いて見えると言う。浅賀の球がまさにそれなのかもしれない。 当然だが、浮く筈が無い。この球は予想した場所に落ちて来ない。それが半端じゃないバックスピンのせいなのか、浅賀の豪腕のせいなのかは解らない。 でも、禄高にも解る事が一つある。 この球を打てると言う事。 さっきの球速は159kmだった。まだ、上がる。この完成にも近い投手がまだ発展途上だなんて聞いて笑ってしまう。でも、この男はきっとまだ上手くなる。正真正銘の化物なんだから。 でも、裕は打った。俊も打った。新だって。 だから、打てる。 二球目、低めのストレートを禄高は叩いた。打球は三遊間、地面スレスレの鋭いライナー。 ショート島崎を抜いて、打球はライトに飛んだ。しかも、地面に着いた瞬間予想できない方向へ弾け飛ぶ。 イレギュラーを知り、裕は飛び出した。 足が、軽い。 周りの景色が後ろに飛んでいく。 音が消える。 視界が狭くなって、本塁だけに意識が集中する。 誰にも、止められない。 滑り込んだ瞬間、本塁は歓声に包まれた。狂気にも近い喜び。審判の声なんて聞かなくても解る。送球なんて全然間に合っていないのだから。 「セーフッ!!!」 同点!阪野二高ベンチから声が上がった。 裕は立ち上がり、ベンチへ向かう。足の痛みは消えていない。今から、急に痛み出した。 走る瞬間、無かった痛みが襲う。それでも、足は止めない。自分の足で歩く。 ここまで来たのは自分だから。 ここから去るのも自分なんだ。 「ナイバッチ禄高ーッ!」 歓声の中、ようやく辿り付いたベンチで出迎えたのは紗枝だった。 「お疲れ様。」 笑顔が、温かかった。 そのせいか、疲れが一気に来た。試合中なのも忘れて、目の前が暗くなって行く。 眠くなって来た…。 でも、まだ寝れない。 そんな事を考えながらベンチに倒れるように座った。即座に医者が傍に寄り、足を見る。 「折れてますね。」 医者ははっきり言い、裕は笑った。 「はは、やっぱり。」 でも、不思議と今までほどの痛みは無かった。きっと、この足は使命を果たしたんだろう。 自分の足だけども、褒めてやりたいとさえ思った。 そんな裕を見て、紗枝は静かに微笑んだ。 一方、試合はワンナウトランナー一塁、三塁。打者は四番。 『バッター四番、御杖君。背番号5』 バッターボックスに御杖は立った。恐らく、これが最後の野球になる。 勝つしかない。勝ちたい。勝利への意志が勝利を呼び込むのなら、きっと勝つのは自分達だ。 二宮はサインを出す。同点に並ばれた。スクイズもありえる。 どこに打たれても、朝間はもう抜かせない。この打者を打ち取る。 御杖は構えた。気合の入った守備を見て、溜息を一つ。 (最強最悪の相手だったな。こんな凄いチーム、生まれて初めてだった。) もう、打つ場所なら決まっている。二宮の裏を書いて、三塁走者を生還させる方法。 御杖は、力強くスイングした…。 キーンッ! 打球は上がった。伸びる。伸びて行く。 二宮はその打球を見つめた。 (柵越え狙いか!?でも、届く訳が無い。) センターが追い付いた。ホームランには一歩足りない。 でも、御杖は笑う。 (ホームランなんていらない。そんな綺麗な得点は、相応しくない。欲しいのは泥だらけの一点。) センターのグローブに、打球は落ちた。 その瞬間、新は走り出す。 (これが狙いだ!!) センターからの矢のような送球が本塁へ向かう。 新は、足が速い。 阪野二高には裕がいたから目立ちはしないけども、他の高校なら余裕で一番を張れる足だ。 その足と、送球。どちらが速いか。 新は滑り込んだ。 |