42、決着


 新は滑り込み、送球が追う。
 砂埃の中で、審判ははっきりと両手を開いた…。


 「セーフッ…!」


 一瞬、静寂が訪れた。
 この瞬間、歴史が変わった。


 最強王者が、負けた…。



 「ゲームセット!!!」



 わっと叫びにも近い声が溢れかえった。今までで一番の、割れんばかりの歓声が球場を包み込む。
 声を枯らした応援、流した汗、全ての決着。

 浅賀はただ、立ち尽くしていた。
 完全に攻略される事の無かった覇王、浅賀。投手としての非は無く、投手としての勝利はあった。でも、一番欲しかったチームの勝利は、手に入らなかった。

 朝間高校の選手は、ただ、呆然としていた。
 誰も、負ける事なんて考えていなかった。負ける訳が無いと信じていたからだ。


 「勝ったんだ…。」

 新は立ち上がって呟いた。あの王者朝間に、勝った。
 込み上げる喜びと涙を止める術を新は知らない。ぼろぼろと涙が溢れ出て来ては土に染み込んでいく。

 「勝ったーッ!!」

 禄高が新に飛び付いた。禄高は満面の笑みで、目尻には涙が溜まっている。
 次々に集まって行く選手。胴上げが始まろうとしている中、裕はベンチで呆然としていた。

 (勝っ、た…。)

 この瞬間を、三年間夢見て来た。それが、今ここに、現実になった。
 約束は、果たした。

 今まで自分を押して来た約束が終わった。道が途切れた。でも、その先に新しい何かが見える。



 「裕ー!」

 御杖が呼んだ。キラキラ輝く目には涙。皆が呼ぶ。
 裕はゆっくりと立ち上がって、グラウンドへ向かった。足の痛みが動き出して来ていて、歩きたくないと思ってしまう。でも、勝利を皆で喜びたいと願った。

 「勝ったんだー…。」

 裕は人事のように呟いた。
 それを見て皆が笑う。胴上げが始まってしまう前に裕は皆を整列へと促した。




 「兵庫朝間高校と神奈川阪野第二高校の試合は、4−5で阪野第二高校の勝利!礼!!!」
 「ありがとうございました!!」




 歓声が終わらない、喜びも悲しみも悔しさも終わりが見えない。
 皆が涙を流している中、場違いなほど冷静に浅賀と裕は対峙した。

 「裕。」

 浅賀は普段と変わらない様子だった。悔しくて死にそうだけども、涙が出て来ない。
 裕は真っ直ぐに浅賀を見た。足の痛みが遠くなる。

 「恭輔。三年間…、ありがとう。」

 この三年間の全てを、この場所に置いていく。裕は笑った。
 浅賀は柄にも無く柔らかに微笑んで、前から肩を組んだ。

 「それは、こっちの台詞や。お前と親友で…ライバルで…よかった。」

 涙が零れた。浅賀だけじゃなく、裕も。お互いに相手の顔は見れないが、泣いているのは解る。
 この場所に来れた事を、嬉しく思う。この瞬間がある事を全てのものに感謝したい。



 「「ありがとう…。」」



 声が重なった。
 その時、皆が二人に駆け寄った。

 涙だか鼻水だか汗だか解らない顔で皆が集まる。
 感謝も懺悔も何も解らない言葉が溢れていた。


 「甲子園で逢おう。」

 「決着を着けよう。」


 あの日々が鮮明に思い出される。もう二度と訪れない過去は未来への道を作り出している。流した涙も、傷も全て背負って歩き出せる。
 甲子園なんて夢見てたあの頃には、こんな瞬間が訪れるなんて思えなかった。目の前に見えた高い壁に絶望を感じて呆然として。
 両親を失い、自分の無力さに泣きたくなって。強いふりして皆に嘘吐いてたあの頃には、こんな風に誰かを信頼して走れるなんて想像出来ただろうか。

 後悔と挫折。
 絶望と涙。
 懺悔と憎悪。

 その中で見つけたたった一つの光。


 「みんな…。」

 裕は皆の方を見る。一人一人の顔を見て、これが最高のチームだったんだと思い知った。
 もしも、この試合負けていても裕にとってはこれが最高のチーム。きっと、後悔なんてしなかった。

 「みんな、今までありがとう。」

 言いたい事は山ほどあるのに、それだけの言葉しか出て来なかった。言葉の代わりに涙が次々溢れて来て、地面に涙の跡が幾つも出来る。
 笑うべきなんだ、ここは。でも、笑えない。ただ、嬉しくて、嬉しくて。涙が止まらなくて。

 「馬鹿!それはこっちの台詞だろ?!」

 俊が肩を叩いて言った。その向こうから禄高が笑う。
 二年コンビの那波と斎が御杖をもみくちゃにして、それを爾志が笑いながら涙を拭って見ていた。
 最後のスライディングを決めた新に一年コンビの滝と久栄が抱き着いて泣いていた。新は喜ぶタイミングを逃して苦笑する。
 監督は笑いながら目尻に涙を溜めて拍手し、紗枝はタオルで顔を隠しながら笑う。
 応援席からも感謝や労わりの言葉が飛び、裕は唇を噛み締めた。

 辛い過去も哀しい思い出も、この瞬間の為にあったのだとしたら。
 それはきっと最高の記憶になる。

 ふっと意識が途切れていく。
 視界が白く霞んで…、ゆっくりと崩れるように座り込むと裕は意識を手放した。

 意識の遠くから聞こえる仲間と医者の声。消えて行く甲子園球場。
 全てがまるで夢のように…。


 こうして、夏が終わった……。










EPILOGUE...


 九月、阪野第二高校。
 三年生の階である二階廊下を禄高は走っていた。部活を引退してろくな運動をしていなかったせいか、あっという間に息が上がる。

 …ジョギングくらい、しようかな。

 一人ごちて、教室に飛び込む。そして、叫んだ。

 「ゆーう!」

 教室の中央で、男女数人の中で談笑していた裕は禄高のいる入り口の方へ顔を向けた。禄高はその姿を確認して歩き出す。
 裕は傍に置いておいた松葉杖を持って立ち上がろうとしたが、圧倒的に禄高の方が速い。禄高は裕の前に立って両肩を掴んだ。
 真剣な表情の禄高に裕は目を丸くする。

 「裕。」

 いつもと違う禄高の様子に戸惑いながら、一体何事かと裕は息を呑む。
 禄高は言った。

 「阪野一高の文化祭に行こう。」
 「は?」

 阪野一高と言えば、阪野二高の姉妹校だ。
 何事かと思えばそんな事か、と裕は盛大にため息を吐いた。

 「お前、俺を怪我人だと思ってないだろ。行けるか、そんな場所。」
 「馬鹿!もったいねぇな!お前、自分の状況解ってねぇな?!」

 裕は苦笑する。
 甲子園優勝を果たしてから、阪野二高は一気に有名になった。学校も報道され、特に裕と俊、御杖はファンが次々現れて忙しい日々を送っている。道を歩けばサインを求められ、撮影され。
 疲れ果てた裕と御杖とは違って俊は相当なストレスを抱えている。

 「こんな人気の今、もったいない!」
 「馬鹿。」

 裕は言う。

 「別にいらねぇよ、そんなん。俺は一人で十分。」

 にっこりと笑って裕は携帯を見せた。裏側に張られたプリクラには裕と紗枝…。
 一瞬にして禄高は顔を般若のように変貌させた。

 「惚気んなこのクソ――ッ!!」
 「わーっ!!」

 禄高が裕の首を締めていると、教室の入り口に幾らか疲れた顔の御杖が立っていた。

 「ちょっといいかー?」

 裕が禄高を無視して返事をすると、御杖は教室に入って輝く笑顔を浮かべていた。
 阪野二高野球部は知っている。この御杖がどんな男なのかを。とんでもない曲者で、腹黒だ。

 御杖は営業スマイルで言う。

 「裕、進路どうした?」

 三年生ならではの質問。大会の最後の最後まで残った野球部は皆受験で焦り出した。ラストパートを掛けるべき夏休みを青空の下で白球を追いかけ続けていたのだから。

 「俺は大学受験だよ。」
 「あ、やっぱり?」

 裕は受験生だ。甲子園効果でスカウトも来ていたが、裕は全てを蹴った。その理由は二つ。一つは大学に行きたいから。もう一つは、足である。
 あの試合で悪化した足は手術を余儀なくされた。でも、裕は手術を受けずここにいる。受ければ治るけど、裕は別に気にしていない。日常生活に障りが無いと解った以上、どうこうしようという気が起きないのだ。
 裕の野球はあの試合で本当に終わった。これ以上続ける気は無い。

 一方で、プロ行きを決めたのは俊。
 某球団からのドラフト一位指名でさっさと進路は決まってしまった。今は、今までと変わらず野球をしている。さらに、他の仲間はと言うと…。
 新は大学受験。難関大学だが、要領のいい新なら大丈夫だろう。爾志は医療系の有名大学。将来は病院である家継ぐ為である。御杖は東大。裕が世界に名を轟かす御杖貿易会社の存在を知ったのは、恥ずかしながら最近の事だ。故にその社長となる前の修行のようなもの。
 禄高が実家が寿司屋なので、このまま修行に入る。だからのんびりだ。

 さらに、脩はプロテニスプレイヤー。中学、高校での実績はばっちりなのでこのまま留学して行く。
 笹森はプロの夢をさっさと止めて裏業界へ行く。簡単に言うと極道の若頭の修行に入るのだ。
 浅賀はプロ野球選手。ほぼ全ての球団からドラフト一位指名を受けて前代未聞の契約額で自分の道を進み始めた。

 禄高は問うた。

 「裕って何の大学行くの?」
 「俺?」

 裕はにこりと微笑んだ。

 「福祉…心理って言う方がいいのかな?」
 「はぁー…。」

 禄高は反応に困っていた。
 これを言ったのが別の人だったのなら大笑いしてもいいけど、裕だと言えない。なるほどと心の中で納得している自分がいる。

 「将来、びっくりするよ。」

 御杖は笑った。
 こうして考えると、すごいメンバーだったんだと思う。社長に院長に板前にプロ…。こんなチームをよく束ねたものだと御杖は感心する。

 その時、チャイムが鳴った。
 御杖は小さく声を上げて早足に自分の教室へと帰って行く。これは一日最後のチャイム。

 「さて、帰るか。」

 裕はカバンを背負って歩き出す。禄高は荷物を一杯抱えてその後を追う。
 野球部はこれから練習だろう。一ヶ月ほど前は、自分達もあの場所にいたけども。

 今は新しいキャプテン、那波の元で新しいスタートを切った。
 引退は寂しいけども、やり遂げた感覚が清清しい。

 裕は大きく背伸びした。松葉杖が倒れそうになるがすぐに支える。
 追い付いた禄高を見て、笑った。


 「行こう。」


 また、歩き出した。






Fin.