『…第××回全国野球選手権決勝戦優勝は神奈川県立阪野第二高校…。』

 ラジオの声を聞いて裕太は愕然とした。ふっと過った浅賀の声は消えて行く。
 この目はもう、二度と光を見る事は無い…。


 Letter...


 あの試合が終わって数日、裕は松葉杖をつきながらとある病院を訪れていた。
 怪我の為に皆より一足先に神奈川に帰る予定だったが、浅賀の付き合わされて弱った身体に鞭打ってここまで来た。まったく知らない、光の溢れる清潔感のある病院。ここならどんな病も治ってしまう気がした。

 浅賀に大して無い荷物を罰のように持たせ、裕は歩を進める。行き先はさっき聞いたばかりだ。
 目の見えない少年の元。背が低く、それでも頑張った少年。でも、神様は彼から野球の出来る体を、視力と言うものを奪い去ってしまった。

 そんな彼の夢は、甲子園だと言う。そして、ある尊敬する男に会う事。
 浅賀が言うには、その尊敬する男と言うのは蜂谷裕、本人なのだそうだ。

 「俺が尊敬に値する器か?」

 ポツリと裕は言った。浅賀は苦笑する。

 「甲子園優勝チームのキャプテンが尊敬されん筈無いやろ。」
 「優勝は俺の力じゃない。」
 「自分の過小評価もええ加減にせえ。度を越えると嫌味やぞ。」

 キツイ口調で浅賀は睨み付けて言うと、裕は黙った。
 そのまま暫くは無言で廊下を歩いたが、裕は再び口を開く。

 「俺に何をして欲しいんだ?」

 裕は訊く。
 こんな身体で、前のように走り回れる訳も無い。気の効いた言葉を掛ける器用さも無い。
 事情を知らずに同情も出来ない。こんな自分に何が出来る?

 浅賀は大きく溜息を吐いた。

 「それは俺に訊かんでや。俺も解らへんもん。」
 「何だ、それ。」
 「勝つって約束して…、負けた。俺にはもう、お前を連れて行く事くらいしか出来へん。」

 浅賀は俯く。
 裕太の手術を成功させたくて、勝つと約束した。それなのに負けてしまって、裕太はどう思っただろうか。責めるだろう、恨むだろう、憎むだろう。会っていい権利も無い。
 裕は鼻で笑う。

 「お前が泣きそうな顔してんな。そんな顔で会う気かよ。」
 「どうせ、見えん。」
 「見えなくても解る。」

 その入り口の前に立って、浅賀は深呼吸をした。心の準備をしているのだ。裕はそんな浅賀を無視して扉を開けた。
 ガラガラと開いた扉の向こうには窓。真っ青な空に雲が浮かぶ。その手前にある白いベッドには一人の少年がいた。
 目に巻かれた包帯が痛々しくて、見えている筈も無い空を見つめている。

 「お母さん?」

 その顔を向けて裕太は首を傾げた。
 浅賀は唾を飲み下し、覚悟を決めて声を発した。

 「俺や。」

 裕太は、動きを止めた。

 「恭輔?」
 「そうや…。」

 浅賀は罰が悪そうに俯く。裕太は少し身を乗り出したが、すぐに元の姿勢に戻った。

 「試合、惜しかったんやね。最後の最後で…。」

 その言葉を聞いて、浅賀は胸が締めつけられるような思いがした。
 過去には戻れないと知りながら、あの試合の日に帰れたら…。

 「俺は…、約束果たせ…。」

 浅賀は、その言葉を最後まで言えなかった。悔しさが、哀しみが、涙が込み上げて来る。沈黙が流れて、時計の秒針が刻む音が一つ一つ突き刺さるようだった。
 その時、ようやく裕が言葉を発す。

 「初めまして!」

 裕は浅賀と裕太の間に割って入って裕太に手を差し伸べた。当然見えるはずもないので、裕は裕太の手を取る。

 「どなたですか?」
 「俺は蜂谷裕。阪野第二高校キャプテン。」
 「優勝チームの?」
 「そう!」

 裕はころころと笑う。さっきまで部屋にあった張り詰めた空気が何時の間にか消え失せている。柔らかくて温かい空気が流れていた。

 「この浅賀恭輔の友達ってか、親友だな。」
 「親友…。」

 少しして、裕太は動きを止める。

 「名前、蜂谷裕て言いました?」
 「うん。名前は蜂谷裕。」
 「蜂谷裕って…。」

 裕太は浅賀の方を向いた。浅賀は静かに肯定する。

 「三年前のあの試合の、あの小さな選手は…こいつや。」

 裕は笑った。

 「裕太君、その目は見えないんだってね。」
 「え…あ、はい。」
 「でも、夢があるんだってね。」

 裕太は答えない。でも、裕は微笑んで言う。

 「甲子園。…俺も、夢だったよ。」

 裕の脳裏に、あの日右京の言った言葉が蘇る。
 夢は叶えるものだと言うあの言葉が。

 「俺は夢を叶えたよ。」

 裕は言った。



 「俺はやった。お前もやれ。」



 たった、一言だった。これが裕に言える最大の言葉。これ以上の言葉は見つからなかった。
 そして、目の見えない裕太にあえて書いた手紙を手元に置く。

 「裕太君が俺に追い付く日を楽しみにしてるよ。」

 それだけ言って、裕はいなくなってしまった。
 浅賀は一瞬戸惑ったが、軽く挨拶をして部屋を出ようとした。その時、裕太は言う。

 「恭輔!」

 浅賀は振り返る。

 「俺、甘えとったな。」

 夢は叶うものじゃなくて、叶えるもの。
 勝利が勝とうとした者だけに訪れるように。

 「俺、手術受ける!絶対成功させたるから…、目ぇ治ったら、一緒にキャッチボールしてや!!」

 浅賀は立ち止まった。涙が込み上げる。もちろん、さっきとは全然違う意味で。

 「当たり前やろ!!」

 そう叫んで、浅賀は笑った。外から裕が呼んだので、部屋を出る。
 背中が軽くなって、視界がいつも以上に視界が開けて明るく感じられた。



 「裕!ちょお待てや!」

 裕は振り返る。

 「お前速い!」

 裕は松葉杖で器用に進み、笑った。

 「もたもたしてっからだよ。」
 「お前、素っ気無いねん!」
 「そうか?でも、俺はあれ以上の言葉探せなかった。」

 “俺はやった。お前もやれ。”

 裕の一言の重みを知っている浅賀だから、その言葉に奇妙なほど納得した。
 あの言葉は、裕にしか言えない。だから、皆が救われた。

 「そや、あの手紙は何て書いたん?」
 「決まってんじゃん。俺が言える事なんて、さ。」

 浅賀は、ただ首を傾げるだけで裕は笑った。




 数ヶ月後、裕太は難しい手術をどうにか成功させて再び光のある世界を取り戻した。
 その目で、あの時裕から渡された手紙を見る。何の模様も無い白い封筒。糊付けもされていない。

 中からは、無地の白い紙に太字でこう書かれていた。


 “俺はやる。お前もやれ。”


 その言葉を見て、裕太は笑った。あの時のままだった。
 裕太は顔を上げて歩き出す。光の世界がそこにはあった。