03 良くも悪くも、過去とは次第に重さを増してゆくものだから。


 「よう、武藤。元気か?」

 蜂谷は、相変わらずの飄々とした態度で言った。
 そして、俺は。

 「げ。」

 と。ガマガエルのような声を一声発しただけだった。

 「何だよ、それ。そんなに俺が嫌いかよー。」
 「ああ、大嫌いだよ。お前なんか。」
 「ひでー。」

 別に嘘じゃない。俺は蜂谷なんか大嫌いだ。大人気無いのは解ってる。これは単なる逆恨み。
 でも、いいと思う。こいつは俺に屈辱を一度ならず二度も与えた男なのだから。

 「こんなところで何してんの?慶徳はまだ帰んねぇの?」

 イチイチ、人の神経を逆撫でする。余計なお世話だ!と言って殴り飛ばせたらどんなにスッキリするだろう。
 でも、そんな馬鹿な事しない。この甲子園のある聖なる地でそんな馬鹿な事出来る訳が無い。

 「ああ。決勝まで見てくよ。」
 「へぇー。じゃ、俺の活躍見とけよ!」
 「決勝って言ってるだろ!」
 「そうだよ?」

 ああ。コイツ、決勝に残る気でいるんだ。

 「負けろ。」
 「ぶっ飛ばすぞ!」

 俺は思わず笑ってしまった。
 コイツ、本当に馬鹿なんだなぁ。頭悪いよ。動物並。

 「ま、今はやらないけどね。」
 「甲子園真最中だもんな。」
 「そう。だから、その後覚えてろ!」

 本当に、コイツはガキだなぁ。笑っちまう。
 そしたら、蜂谷は妙な笑顔を浮かべた。

 「…やっと笑った。」
 「は?」
 「お前、全然笑わねぇからさー。」
 「蜂谷が笑い過ぎなんだよ。いっつもニヤニヤしやがって。」
 「いいじゃん。笑う門には福来たるって言うじゃん。」

 本当に、コイツは馬鹿だ。同情したくなるくらい。
 でも、俺の野球を変えちまったのはコイツなんだ。勝負なんだから蜂谷は当然の事をしたまでで、打たれた俺が悪いんだから恨まれるなんてお門違い。
 そう言って笑い飛ばしてくれたならよかったのに、この馬鹿は試合中にもずっと一人で考え込んでいやがった。
 コイツに答えなんて解るはずねぇんだ。コイツは間違っちゃいねぇんだから。

 「お前がさー。中学卒業しても自分の事認めてやれる男でよかったよ。」
 「は?意味わかんねぇ。つか、キモ。」
 「だってさー。もしも、中学のあの試合でお前が自分認められなくなったら野球出来なかったろ。」
 「…俺は、認められてねぇよ。今も、昔も。」
 「嘘だー。」

 そう、蜂谷は笑って。

 「じゃあ、何で高校に入ってシンカー鍛えたんだ?」

 シンカー。それは俺の決め球の一つ。
 そして、この男に関連させたならば因縁の球だ。

 「お前が負けたあの試合。最後に投げたのシンカーじゃなかったろ。」
 「ああ。…よく解ったな。」
 「だって、お前投げた後びっくりしてたじゃん。」

 コイツ、よく見てんな。
 確かにあれはただの暴投。ストレートがミスって偶然落ちただけ。シンカーでもなければストレートでもない。
 それを、コイツに叩かれたんだ。

 「そんなトコ見る余裕あったのかよ。つか、よく覚えてんな。」
 「当たり前。だって、あの試合は俺ってか俺達が初めて一番を掴んだ試合なんだから。」
 「へー。」
 「とにかくさ。もしも、あの時の事が原因で自分の事嫌いになったらシンカー鍛えたりしねぇだろ。」
 「…俺は、あの時の自分に嫌気がさしたのかも知れねぇよ。あの中途半端な球のせいで負けたんだから、そう思って鍛えたのかもよ。」
 「ほら。」

 蜂谷は嬉しそうに笑った。

 「やっぱり、お前は自分の事嫌いになれねぇんだよ。何だかんだ。」
 「は?」
 「自分を認められるようにする為に、シンカー鍛えたんだろ?」

 ああ、しまった。
 こういう哲学に入ったり、とんちみたいな話はこいつの十八番だったな。

 「あのシンカーは、すごかった。」
 「打ったくせに。」
 「なー?」
 「は?」

 人事かよ!?
 心の中で大きくツッコミを入れる。

 「シンカー来るとは思ったけどさ。」
 「なんとなくだろ、それも。」
 「そうだよ。落ちるような気がしただけー。」

 完全に裏をかいたはずの配球なのに、勘なんかで打たれたのか。
 でも、中途半端に打たれるよりは確かにスッキリした。

 「で、最初の質問に戻るけどお前何してんの?」
 「あ?観光だよ。あいつ等仕度遅ぇっつーの。」
 「ああ、なるほど。」
 「お前は?」
 「散歩。」

 遠くで、蜂谷を呼ぶ声が聞こえた。幾つかの人影が遠くにいる。
 蜂谷は返事をする代わりに大きく手を振った。

 「じゃー、行くわ。またな。」
 「もう会わねぇよ。」
 「ひでー。」

 蜂谷は悪戯っぽく笑うと走っていった。だけど、振り返る。

 「仲間、大切にしろよ!」

 余計なお世話だ!
 蜂谷はそれきり振り返らなかった。


 あの試合以来仲間を信用出来なくなって、一人で突っ走る事を覚えた。
 誰かを憎む事で強くなれると思ってた。

 だけど、疲れる。
 誰も信じられなかったら、頼るものが無かった。

 三年越しの試合で、蜂谷は俺の三年間全てを否定した。

 もしも、三年前の試合があんな終わり方で無かったら?
 もしも、あの逆転ホームランを打ったのが蜂谷で無かったら?
 そうしたらきっと、こんな未来は訪れなかった。

 「武藤!」

 振り帰ると、そこには“仲間”がいた。

 「…今行く。」


 全ての出来事が重なって、この未来がある。
 もしも、阪野二高に勝っていたらこんな風に仲間を信じられる時間は訪れなかっただろう。
 負けてよかったとは言わない。けど、勝利より何より大切なものを沢山手に入れた。

 三年前の試合で、蜂谷の逆転満塁ホームランで負けて、仲間を信用する事が出来なくなって、必死で蜂谷を追い続けて、三年越しの試合で三年前と同じように逆転満塁ホームランで負ける。
 そうして、訪れた今がこんなにも大切で。失いたくない掛け替えの無い今で。

 こんな未来が訪れる事、予想出来なかった。


――仲間、大切にしろよ!


 声が蘇る。幻覚が過る。
 けど、風と共に消えた。