04 出発点が見えたのは、終わりを知った次の日だった。
グラウンドが朱色に染まっていた。
夕方を迎えた町はオレンジ色の光が差していて、秋が終わろうとしている中の風は冷たくて物寂しげ。誰もいなくなったグラウンドは大して面白いものでも無かったが、久栄と滝はフェンスに背を預けて座り込んで見つめていた。
長い間練習して来た川原のグラウンドは慣れ親しんでいるが、今日が最後だと思うともう懐かしいと言う感情がふつふつと沸いてくる。
数十分沈黙、川の流れる音が耳に入って来る全てだった。そんな静寂を破ったのは滝。
「…終わったな。」
ポツリと呟いたきり、滝はそれ以上言葉を繋げようとはしなかった。
また長い沈黙が流れた。二人とも黙り込んで、すっかり整備されたグラウンドを見つめる。今度、その沈黙を破ったのは久栄。
「寂しいか?」
久栄の質問に滝は小さく笑い、言う。
「そりゃあ、ね。長い間の野球が終わったんだ。当たり前だろ?」
「終わり、ね。」
意味深に久栄は笑う。
「もう、お前の野球はもう終わりか?」
「まさか。」
滝は即答し、続けた。
「中学の野球はもう、終わり。…こっからは高校野球。」
「甲子園か。」
滝は頷いた。
今日、二人の所属するシニアチームは引退式だった。先日の最後の大会を負けた記憶がまだ新しい。二人が続けて来た野球の試合で最も記憶に残った、悔しい思い出だった。
ブロックのトーナメントを勝ち進み、神奈川のトーナメントに辿り付いての初戦。前半に三点取って、八回までに五点のリードで勝ったと確信したのが甘かった。トップバッターである九番を三振で抑えた後の一番打者に油断したのだ。小柄な選手で長打は無くてここまでノーヒット。ゴロを打たせて終わりだと思った。
そこで奇跡は起こってしまった。その小さな打者がセンターとライトを抜ける長打を打った。そして、度肝を抜く俊足であっという間に三塁まで到達してしまった。そこから、相手チームの追い上げが一気に始まった。
二人は勝負は何が起こるか解らないと言う言葉を身を持って体験する羽目になったのだ。
「……高校、決めた?」
あの試合を思い出していた滝はふっと意識をこちらに取り戻した。久栄はそんな滝を無視してただ、質問を投げ掛けて答えを静かに急かす事も無く待つ。
滝は一呼吸置いてから答えた。
「決めた。」
ニッ、と滝は笑う。
「あ、ちょっと待て。」
その理由を言おうとする滝の前に掌を向けて久栄は待ったを掛けた。そして、少し置いて恐る恐る予想の答えを述べる。
「阪野ニ校じゃないよな…?」
「ピンポーン!」
滝は子供のようにピースして笑った。一方で久栄ががっくりと肩を落とす。
「マジかよ…。」
「え?何?お前違うの?」
「一緒だよ。」
久栄は盛大に溜息を吐いた。逆に滝は明るい笑顔を浮かべる。
「何だよー!何がっかりしてんだ。」
「また、三年間同じチームだな。」
「良かったじゃん!」
喜ぶ滝を久栄は鋭い目付きで見た。
「何で、阪野ニ校選んだの?もっといいところ、行けただろ。」
滝は久栄の鋭い目付きに思わず押し黙った。拗ねているような怒っているような、どちらにせよ同じ学校を選んだ事を喜んでいる様子ではない。
滝は小さく笑って、何事も無かったかのように答える。
「強いて言えば、最後の試合が印象的過ぎたからかなぁ。」
あの逆転の狼煙を上げた小さな選手が鮮烈に記憶に残ってしまった。同い年で足が速く、チャンスに強くピンチに負けない強い意志を持った選手。
たった一つのプレーでチームに希望を与え奇跡を起こしてしまった。
滝はあの試合を生涯忘れない。
「…俺も、だ。」
久栄は小さく独白のように呟いた。
そんな久栄の脳裏に思い出されるのは、先日の試合だけではなかった。記憶に蘇ったのは数年前の試合。それも、久栄はおろか知り合いなど一人もいない試合。その試合を久栄が忘れない。
もう勝負は決まったものだと思った九回裏、その小さな選手はたったの一撃で戦局を引っ繰り返してしまった。
あの時見た試合と、自分のこの試合が重なった。
“小さな選手”がトラウマになるならまだしも、それがまるでヒーローであるように久栄の中に確立されてしまったのだ。
だから、今年神奈川を制したあの高校に入学したいと願うのかもしれない。
「0から這い上がった高校だもんな。」
小さな声で滝は言う。
そして、滝は久栄の方を見て笑った。
「俺、お前と0から野球したいよ。」
久栄はそんな言葉に眉を顰めた。
「…キモい事言うな。」
「本音だよ。」
滝は空を見上げる。オレンジ色の空は、端の方から少しずつ紺色に染まっていた。見辛いが、僅かに星も瞬いている。
風は一層冷たくなって夜の匂いがした。
二人の所属するチームは、それなりに強いチームだった。
監督は名将と名高い人で、二人もそれに期待してシニアを始めた。
実際に監督は頭も良くて名将と呼ぶに相応しい人だったのだけど、二人にとっては大きな壁があった。それは、チーム内に監督の息子がいた事。
下手では無かった。だが、上手くも無かった。
幼馴染である事を抜いて見ても、滝には彼よりも久栄の方が数段上に見えた。他の多くのチームメイトも同じだっただろうが、親ばかと言うのか、さすがの名将も息子をレギュラーから落とす事は出来なかった。
久栄は結局、公式戦でマウンドに上がる事は無かった。
リトルの時からバッテリーを組んで来たのは滝と久栄だったのに、彼がピッチャーだったので滝はキャッチャーとして起用された。
それを理由にその息子を嫌うような女々しい事はしなかったが、ただ、悔しかった。
認められない事も、見てくれない事も。
日の当たらないところで必死に努力して実力を付けても表で出させてもらえない事も。
滝は呟く。
「もしも、あいつが息子じゃなかったらな。そうしたら、俺らバッテリーだったぜ。」
「そうかもな…。」
「そうだよ。」
滝は膝を折って顔を埋める。まるで叱られた後の小さな子供のように。
スタート地点が違った。
ゴールまでの距離が違った。
何回、このチームから抜けたいと願ったか解らない。でも、その度に相手の目とぶつかるのだ。久栄には滝の目が、滝には久栄の目が。
幼馴染でライバルで親友で。そう言った人間と出会えた事が幸福なんだと思った。
久栄がふっと笑った。
「また、0から這い上がればいいよ。」
そんな言葉を聞いて滝はつられて笑う。
「そうだよな。」
また、0から這い上がればいいんだ。
二人は顔を見合わせて笑った。