05 掴めるものでもないけれど、追いかけてみたくなる瞬間がある。
――お前なんて死んでしまえばいいッ
――消えてしまえッ
金切り声を上げて涙を流す女。何度も何度も手を上げ頬を打つ。
頬は次第に変色し、痛みを感じなくなった。
動けなくなったところで女はいなくなり、仏壇の前で一人泣くのだ。
優しげに微笑む遺影を抱きしめて。
俺は、それを見てただ泣いた。
声も出さずに涙だけを落とした。
痛かったのは、頬じゃなくて心なんだと知った。
天岡はふっと閉じていた目を開けた。夏真っ盛りの太陽はジリジリと身を焦がして、何もしなくても汗が滲む。昔から汗をそうかく性質では無かったが、流石にこの灼熱の太陽の下では暑い。
草原で日向ぼっこなど自殺行為にも等しい。ゆっくりと起き上がって天岡は日陰へ向かう。場所は大樹の木陰。そこに再び寝転んだ。
この原っぱは昔からの行きつけの場所だった。何かあればここに来ていた。田舎を象徴するような広い場所にポツンといると、自分のいる場所や状況など何もかもがちっぽけに思えるのだ。それは天岡にとっていい事ではあったが、同時に違う事も考えてしまうのだ。
自分はこんなにちっぽけな存在なのだと。
まるで、何の意味も無い命であると教えられているようで。
でも、それもまた天岡には救いだった。
自分が何の意味も無い存在ならば、きっと母は救われる。あの頃の自分はそう考えていた。
殴られても蹴られても、例え熱湯を浴びせられても、自分は母が好きだった。いつかまた、昔のような優しい人に戻ってくれるんじゃないかと期待していた。だから、自分に手を上げる事で罪悪感を感じたりして傷付いて欲しくなかったのだ。
自分は何の意味も無い命なんだから、傷付く必要は無いんだよ。
そう思っていた。だけど、駄目だった。
病院に運ばれたあの夜、天岡はふと目を覚ました。何気無く見た窓はカーテンに覆われていたけども、一つの窓が空いていてそこから深い紺色の空が顔を覗かせていた。
数年ぶりの静かな夜だった。痛みを感じる事の無い夜。何時の日か、母とこんな夜を過ごす事が出来たらと願っていた。
その時だ。
スッとその窓の前を何かが通過した。いや、落下した。
そのすぐ後に地面に何かが叩きつけられる音がして、カクンと膝を折って座り込んでしまった。そして、甲高い悲鳴が夜の静かな病院の中を木霊したのだ。
あの過った影は、母だった。
一秒にも満たない時間に、天岡は母と最後に会った。
その目は、死んでいた。
恨み、憎しみ、哀しみ、怒り。そんな感情全てを背負い込んだ目だった。
母が即死した事を聞いた瞬間、大声で喚き散らして泣いた。
たった一人の家族が死んだ。いや、本当はもっと前から死んでいたのだ。母は、自分に手を上げるようになったあの日からもう死んでいた。狂っていたのだ。
今まで、自分が一緒に過ごして来た女は狂っていた。母ではなかった。
まず、訪れたのは恐怖。
たった一人になってしまった恐怖。母が死んだ恐怖。あの目を一瞬でも見た事を後悔した。脳に焼付いて離れない狂った女の呪いの目。
何処に隠れても、何処からか強く睨みつけてくる。もう、逃げられない。
そして、次に罪悪感。
母を救えなかった自分の弱さを呪った。生き残ってしまった自分を恨んだ。
笑う事も、幸せになる事も許されないと思った。
天岡は目を開ける。木漏れ日が眩しくて目を細める。
青空には千切れ雲がぽつぽつと浮かんでいて、あの頃がまるで嘘のように平和に思えた。でも、目を閉じればまた思い出す。真っ黒い闇が渦を巻いているのだ。
でも、自分がその闇から少しずつ抜けて来ていると言う事に気付いていた。この闇を闇だと、あの頃の自分は判断する事が出来なかったのだから。
天岡は大きく背伸びをした。両手両足を一杯に伸ばすと、欠伸が出た。その時、声が降る。
「あーまおか。」
目を向けると、浅賀が立っていた。涼しげな私服で、すっきりしたような顔だった。
「何でお前がここにおんねん。」
「二宮に聞いた。」
「ちゃう。何でここに来たんやって。」
「何でって。」
浅賀はどっかりと天岡の横の木陰に座る。
「暇やったから。」
そう言って、浅賀はにっこりと笑った。そんな浅賀に天岡は皮肉を言う。
「おーおー、プロ野球選手はええなぁ。ドラフト一位指名やもんな。」
「やかましい。お前も一緒やろ。」
浅賀に言われて天岡は笑う。
甲子園が終わったのは数日前。最後の最後で優勝を逃してしまった苦い思い出ではあるが、試合をして良かったと心の底から思う。
浅賀には以前からプロのスカウトが来ていて(天岡も同じだが)、甲子園が終わって今はっきりと未来が決まったのだ。
「なぁ、天岡。」
「何や。」
「試合ん時、裕と何話しとったん?」
「まだ気になるんかい。」
天岡は盛大に溜息を吐いて見せた。実際、それほどうんざりはしていないのだが。
「もー、恭輔君ったらそんなにあたしの事気になるのー?」
オカマ口調でふざけてクネクネしながら言ったら、浅賀は「キモい」と言って軽く叩いた。
そして、少ししてから浅賀は小さく言う。
「あの後から、お前変わったやんか。よう、笑うようになった。」
「前々から笑っとったやん。」
「…それが、おかしいねん。」
意味が解らず天岡が首を傾げる。すると、浅賀が仕方なく説明を始めた。
「笑うっちゅうのは、意識してするもんちゃうねん。気付いたら笑っとるもんや。」
「ははあ。せやったら、俺のは偽モンっちゅう訳やね。」
天岡は軽く笑う。
「俺、変わったか?」
「うーん。何か、すっきりした顔しとる。で、引退してからは大人っぽくなった。」
「え?惚れた?」
「うーん、止めとく。惚れるなら可愛い女の子にしとくわ。」
今度は二人顔を合わせて笑った。どうしようも無い、他愛の無い話なのだけどもそれが楽しくて。
「じゃあな、お前の質問答える前に俺の質問答えてや。蜂谷って、何者?」
「只者や。」
「嘘やん。間違い無く曲者やろ。優しそうな顔しとるのに、急にキッツイ目付きしたり、ズバズバ核心付いて来るし、何にも恐れないし。」
「そーやなー。一言で言うと子供やねんな。そんでお節介で、馬鹿やねん。でも、いいヤツ。俺はあいつが親友で、ほんまによかったと思っとるよ。」
誇らしげな浅賀を見て天岡は小さく笑う。また、浅賀は続けた。
「俺な、お前が裕と出会えてよかったと思っとるよ。」
「何で俺やねん。」
「だってな、あいつ、お前と境遇似とんねん。」
その言葉に天岡は動きを止めた。だが、浅賀は続ける。
「あいつ親おらんねん。中三の時家が放火に遭って、死んだ。あいつは燃えてる家ん中飛び込んで弟助けて出て来よったんやけど、親助けられんかったって泣いとった。」
天岡は何も言わない。
「そんでな、高校一年の時に一回兵庫帰って来てんねん。墓参りーなんて言うとったけど、ほんまは潰れそうになって逃げたんやないかなぁ。」
「何で?」
「あいつ、何でも背負い込むねん。下ろせへんの。苦しい事も辛い事も背負い込んで、弱いとこ見せんようにすんねん。あいつは強いふりして、へらへら笑いながら帰って来たんやけど、それが哀しかった。」
浅賀の脳裏には、あの墓前での日が思い出されていた。あの作り笑いを見た時の絶望を忘れない。
純粋なヤツだと思っていた。器用なんだと思っていた。だから、あんな風に全部背負い込んで傷付いて、作り笑いする姿を見た時ショックだった。
「あいつ、背負ったもん下ろそて思ったんやないか?」
「俺もそう思った。やから、下ろさせんかった。」
浅賀は笑う。
「あそこで下ろしたら、もうあいつは立ち上がれんと思った。」
「…きっと、お前のそれも背負い込んだで。」
「多分な。」
浅賀は、それを知りながら言ったのだ。未だにその事を後悔していない。自分勝手だと思う。でも、裕が自分のあの言葉を背負い込んでも倒れなかったから、天岡はこうして笑えるようになれたんだと思う。
「恭輔は酷いヤツやね。」
「何とでも言え。」
浅賀は朗らかに笑う。つられて天岡も笑った。
その時、携帯の電子音が鳴った。古臭い音は、浅賀のポケットからだった。
「おっと、すまん。」
わざわざ軽く謝ってから浅賀は携帯を開く。その画面を確認して浅賀は笑った。
「噂をすれば影や。」
そう言って、携帯を開く。
『お前何してんだよーッ!お前が誘ったくせに遅れるって最悪だろ!』
携帯の向こうの聞き覚えのある声は怒ってるというよりは拗ねた声だった。浅賀はその大声に驚いて思わず携帯を耳から遠ざける。
そして、少ししてから近付けた。
「ああ、すまん。今行く。」
『向かっても無いのか!』
呆れたような声だった。
「すまんて。ちょお待っとれ。」
『お前奢り決定だからな!』
浅賀はそのまま電話を切り、ついでに電源も切った。そして、天岡の方を向いてペロっと舌を出す。
「うっかりしとったわ。」
「今の蜂谷やんなぁ。」
「せや。飯誘ったんやけど、着いたら時間かなり早かったからここ来たんや。思ったより時間経つの早いなぁ。もう過ぎとるやん。」
そう言って浅賀は立ち上がった。
「あのチビにお子様ランチ奢らなあかんなったわ。」
「クリームソーダも付けたれ。」
天岡は笑う。
「ほな。」
そして、浅賀は早足に言ってしまった。
結局、浅賀は天岡にした質問の答えを聞かないままだったが、その事はすっかり忘れているようだった。
「強いふり、ね。」
天岡は小さく呟く。
そして、ふとあの時裕が言った言葉を思い出した。
――もう、楽になっていいんだよ。
その言葉を反芻して、天岡は一人納得する。
なるほど、ピンポイントで突いて来る訳だ。きっと、あの言葉は自分に向ける為にあった言葉じゃないだろう。きっと、同じとは言えないまでも似たような経験をして来た自分が、死んでしまった両親から言って欲しかった言葉なんだろうな。
天岡は大きく背伸びして、両手を組んで頭の後ろに置いた。木々の隙間から見える太陽の眩しさに目を細めるが、不愉快さは無い。
何気無く、手を伸ばして見る。手はただ虚空を切り、何も掴まない。
「上等やんなぁ、強いふり。」
天岡は呟いて小さく笑う。
きっと、自分にはそんなふりも出来ないのだろうから。
そんな生き方はきっと死ぬほど辛いのだろうけども。
僅かに心の隅で憧れに近い感情が芽生えた事に天岡は気付いていなかった。