番外編:天長地久
「――待って!」
隣にある筈の声が遥か後方から聞こえて、弾かれるように春馬は振り返った。溢れ返る人込みの中、小さな手が波に呑まれるように伸ばされていた。春馬は返事をするより早く、走り出していた。
視界一杯を埋め尽くす通行人の群れを掻き分けて掴んだ手は氷のように冷たく、二度と離すまいと縋り付くように握り返された。此方の姿を視認すると同時にぐしゃりと歪められた顔は今にも泣き出しそうだった。極度の不安と恐怖、僅かな安堵が浮かぶ瞳に自分の顔が映っている。自分も大概、情けない顔をしていた。
休日のショッピングモールは犇めくような大人の群れに占拠され、小さな子どもになど誰一人目を向ける事無く通り過ぎて行く。春馬は小さな掌を握ったまま、大きく息を吸い込んだ。
「お前、勝手にいなくなるなよ!」
「春馬ぁ」
歪められた目から、大粒の涙が零れ落ちた。止め処無く流れ続ける涙を拭うことすら出来ない弟は、まるでそれだけが救いだとでも言うように、しゃくり上げながら何度も何度も名を呼び続けた。
春馬、春馬、春馬、春馬、春馬、春馬。――置いて行かないで。
勝手にいなくなったのは、お前だろ。そう言いたいのを呑み込んで、春馬は弟の手を強く握った。
人目を憚らずに声を張り上げて泣き続ける弟の涙は止まらず、漸く気付いた大人達がざわめきながら集まって来る。春馬は呆れたような安心したような奇妙な心地で、ポケットから取り出したミニタオルで頬を拭ってやった。
零れ続ける涙を乱暴に拭う弟が、絞り出すように声を上げた。
「だって、春馬がいなくなったと思ったんだよ……!」
だから、いなくなったのはお前だろ。涙でぐしゃぐしゃの顔をタオルを擦り付けるようにして拭ってやりながら、春馬は笑った。嗚咽混じりの声は震えていて、自分でなければ聞き取ることすら困難だっただろうなと自負する。
「馬鹿だなぁ」
次々に溢れ出る涙を手の甲で拭いながら、弟が一層力を込めて手を握って来る。それに応えるように春馬もまた、強く握り返した。
「お前を置いてなんか、行く筈無いだろ」
震えるこの手を離すことなんて無いよ。そう伝えるつもりで握った。それでも泣き止まない弟を見兼ねた女性店員が駆け付けて、迷子放送のアナウンスが鳴り響くまであと数分――。
*
霖雨は、過去のことを話したがらない。
こんなこともあったよな、という些細な思い出話にも大概「そうだっけ」と恍ける辺り、話すことが嫌なのだろうと思う。ずっと一緒に過ごして来た俺だって過去は共有しているし、嫌なことが多かった分、話したくないという気持ちは十二分に解るつもりだけど、霖雨は少し極端だと思う。偶に、本気で覚えていないんじゃないかと疑うことすらある。
特に、熱で倒れた後からはそれが目立つ。脳に何か障害が残ってしまっているんじゃないかと思ってしまうのは、香坂に言わせれば過保護なのだそうだ。けれど、最近の霖雨の様子は少しおかしい。
何というかこう……、慈愛に満ちた目を向けて来ることがある。弟の癖に生意気だな、と感じたのは内緒だ。
二卵性の双子の兄弟としてこの世に生を受けて早十六年。小学生の頃に両親を事故で亡くしてからは、親戚中を盥回しにされながら遺産を食い荒らされて来た。その間は酷い虐待と呼ぶべき暴力や迫害を受けて来たけれど、互いに励まし合いながら、高校入学を機に二人暮らしを始めた。漸く呪いとも呼ぶべき親戚という血の繋がりから解放され、新たな生活を送り始めた訳だが、霖雨は何処で知り合ったのか柄の悪いヤンキー紛いの連中と意外と仲が良い。驟雨然り、香坂然り、佐丸然り。共通の友人であることを踏まえれば人のことは言えないけれど。
熱を出して倒れた日の夜、隣で寝ていた筈の霖雨の手が酷く冷たくて驚いた。その癖、額は僅かに熱を持って汗が滲んでいる。譫言のように何かを呟く霖雨の口元に耳を寄せれば、それは何度も何度も自分の名を呼んでいたのだ。
真っ暗な部屋の中、夏を終えて冬を迎える仕度を始めた秋の冷えた風が窓の隙間から入り込んで来ていた。せっかく熱が下がったのにぶり返しては大変だと、毛布を取りに押し入れに向かうと、微かな声がした。
「春馬……何処行くの……?」
子どものような声だった。
毛布を取って来ると告げると、霖雨は小さく頷いた。痩せっぽちの体は冷え切っていた。再び額に手を当てれば、やはり熱が上がってしまったようだった。
霖雨は昔から、偶に何の前触れも無く高熱を出す。季節の変わり目だから仕方が無いかと、毛布を被せて自分も布団に潜り込むことにした。少し離れただけで布団の温もりは消え失せ冷え切っていた。思わず身震い。すると、薄っぺらの掌が差し出された。
お前の冷たい手握ったって、暖まらないよ。そう言ってやりたいのを呑み込んで、冷たい手を毛布の下に押し込もうとする。そうすると、霖雨は薄く開けた目を泣き出しそうに歪めて言った。
「手、握ってもいい?」
子どもが甘えるように、霖雨が言った。普段の霖雨なら例え思っても言わない台詞だなと思えば、無視する訳にはいかなかった。
此方が一瞬黙ったのに目聡く気付いた霖雨は、すぐに「何でもない」と手を引っ込めようとした。けれど、氷のような掌を捕まえると強く握り締めた。傷だらけで、ぼろぼろの掌だ。存外、ずぼらな性格の霖雨はハンドクリームを塗ることなんて考えることもしないので、ささくれだらけの指先は僅かに血が滲んでいた。
眠いのだろう、重そうに瞬きする霖雨が不安そうに此方を窺っている。心配しなくても、俺はお前のことを見限ったりしないよ。
弱音一つ、泣き言一つ零さない気丈な弟だ。俺なんかより余程強い。だからこそ、人を頼ることが昔から苦手だった。熱が出た時も、怪我をした時も、俺に心配掛けさせないように手当もせず黙っている。でも、俺はお前の兄貴なんだぜ。もっと頼っていいんだよ。
「なあ」
隙間風が吹き込む音に掻き消されそうな程、小さな声で霖雨が言った。
「もう、何処にも行かない?」
こいつは何を言っているんだろうと、本気で思った。
勝手にいなくなるのは、何時もお前じゃないか。迷子になる時も、熱出してぶっ倒れた時も、いなくなるのはお前じゃないか。尤も、お前が何処に行っても見付ける自信はあるけど。
「行かねーよ。だから、安心して寝ろ」
「……うん。そうだよね。変なこと訊いて、ごめん」
何を謝ることがある。冷たい掌が微かに震えて、俺まで泣きたくなってしまう。
「謝ることじゃねーよ。辛い時や苦しい時、誰かに傍にいて欲しいと思うのは、当たり前のことなんだぜ?」
お前も、俺も。
そう言えば、霖雨は安心したように微笑んで、ゆっくりと瞼を下ろしていった。汗の滲む髪を梳くように撫で、安心したのはお互い様だな、と自嘲した。
いいよ、全部抱え込んでも。俺は絶対にお前の弱さに気付いてやるから。強がっていればいい。お前が零す泣き言や弱音を一つ残らず拾ってやるから。
だから、いいからお前は笑ってろ。俺はそいつを何に代えても守ってやるから。
「お休み、霖雨」
手は握ったまま、布団を寄せて潜り込んだ。子どものとき、学校の七不思議が流行った時以来だな、と笑う。
あの時、お前は怖いから一緒に寝ようと言って、俺は格好付けて鬱陶しそうな顔をしたけど、本当は安心したんだぜ。一緒にいたかったのは俺も同じだったんだからさ。お前は覚えていないかも知れないけど。
お前が覚えてないなら、それでもいいさ。俺が全部覚えてるから。
だから、ゆっくり休めよ。お前が見るのがどんな夢でも、朝になったら必ず迎えに行くからさ。
あとがき
一年以内の連載で完結出来た『天泣』は、『the Rainbow.』という別の小説のパラレルストーリーです。
主人公を霖雨にすることで、圧倒的弱者であった少年が成長し、ただ可哀想なままで終わらず、変わって行く様を描くことが出来たと自己満足しています。
この作品を通して言いたいことは一つです。
……俺は、何時でも諦めながら生きて来た。自分が傷付くのが、怖かったから! でも、解ったんだ。それじゃあ、何も掴めない。何も手に入れられない。本当に欲しいものは、絶対に手放しちゃいけないんだよ!
<39.金烏玉兎@>
諦めることも時には必要だと思います。でも、そんな強さ、手にするにはまだ早いのです。追い駆けなければ追い付けないように。
霖雨にとって春馬はとても強い存在でした。どんな時でも挫けずに前を見据え、霖雨の危機には颯爽と現れて助けてくれる。それでも、霖雨の成長には春馬という壁を越え、自分を確立しなければならない。その為には霖雨自身が持つ強さを自覚し、弱さを向き合わなければいけませんでした。
本編の補完という形で番外編を書かせて頂きました。時の扉の消滅後、春馬はこの時代で、霖雨の双子の兄として転生しました。時の扉を潜った霖雨と驟雨はその経緯を知っているけれど、他の人達にとって春馬は初めから当たり前にいた存在です。春馬は霖雨と過ごした記憶がある分、時の扉に関わる全ての記憶を失くしていますが、霖雨は反対に春馬がいたという過去は一切知りません。
どちらが幸せで不幸なのかは断言出来ませんが、霖雨はきっとこれで良かったと思うのです。春馬に時の扉の記憶な無いことも、霖雨は自分の中にいた春馬と過ごした日々を覚えていることも。霖雨の知らない春馬との思い出に幾何かの寂しさはあるのでしょうけれど、その分、春馬が覚えているからです。
互いに寄り掛かりながら、支え合いながら、新たな道を歩き出した二人はこの先、多くの人に出逢い、様々な経験をすることでしょう。だけど、どんなときにも傍には心から信頼出来る存在がいる。長い旅の末に手に入れた、かけがえのない宝物。彼等の人生は、まだまだ始まったばかりです。
此処まで読んで下さり、心よりお礼申し上げます。
皆様に、明るい未来が待っていますように。
mk*
2011.10.6
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