04.埋もれ木に花咲く@






「おい、霖雨……?」


 動かなくなった霖雨に、そっと手を伸ばす。驟雨の声も手も微かに震えていた。
 金髪の男に殴られた首筋は青黒く変色し、零れ落ちた血液は影のように地面に張り付いている。固く閉ざされた瞼は開かれる気配も無く、歪な形に伸ばされた手は冷たく硬直していた。
 乱れた衣服もそのままに、転がるように霖雨に駆け寄った林檎がその細い双肩に手を伸ばす。金網に凭れ掛かったまま俯く霖雨の顎から、血液が一つ零れ落ちた。


「霖雨、嘘でしょ……?」


 林檎の縋り付くような声が、逃れられないこの状況が現実であると訴える。否定してくれと懇願する林檎に、驟雨もまた、否定してくれる誰かの求めていた。
 けれど、この凄惨な状況を否定してくれる第三者はもういない。冷えていく体、零れ落ちていく命の欠片。驟雨の中で、絶望感にも似た一つの思いが過った。


(また、守れなかった)


 そう考えたとき、自分の思考に酷く困惑する。
 一体何のことだと自問自答し、動揺故か嫌な動悸に眩暈がした。今、目の前で横たわる男は自分にとって一体何なのだというのだろう。そう、驟雨にとっても霖雨は今日逢ったばかり、初対面だった。
 けれど、頭の中で声がする。光の中で手を差し伸べる。これが誰なのか、驟雨には解らない。解らないのに、心が、魂が訴えるのだ。


「お前を、必ず助けるって、約束したのに!」


 絞り出すような驟雨の声を、救急車を呼び終えた林檎は訝しげに聞いていた。
 常盤霖雨は学校では変人として有名で、家族も無ければ友達もいない孤独な少年だった。誰一人好き好んで関わろうとしなかった霖雨を、必死になって助けようとするこの男は一体何者だろう。林檎はそう思わずにはいられなかった。


「如何して、霖雨を助けてくれるの……?」


 その疑問は尤もだった。其処で漸く林檎の存在に気付いたらしい驟雨は、目を伏せて苦々しげに言った。


「知らねぇよ。でも、約束したから……!」


 約束、と。まるで呪文のように何度も唱えるその言葉の意味など、驟雨にも解らない。困惑するばかりの林檎は、ただ、急激に冷たくなっていく霖雨にそっと手を伸ばした。
 ――けれど、そのとき。
 ぽつりと、まるで蛍のような小さな光が霖雨の指先から浮かび上がる。今にも消えてしまいそうに儚いその光は一つ、また一つと増え、夜空を彩る星屑のように広がっていく。
 外灯一つ無い闇が朧に照らされていく。


「な、」


 何だこれは、と言おうとして、驟雨は口を噤んだ。自分はこの光を、知っている。
 霖雨を包むように集まっていく光の粒子。儚く、けれど、美しく。光に照らされながら霖雨が、ゆっくりと目を開けた――。


「霖雨――」


 意識を取り戻した霖雨に手を伸ばそうとして、驟雨は動きを止めた。
 漆黒だった瞳が、漂う光の粒子を宿したような、日輪のような金色を帯びている。猛禽類の瞳にも似た輝きは、それまでの淡泊な霖雨からは想像も付かない程に獰猛だ。
 霖雨じゃない。
 驟雨は直感的にそう思った。途端、声がした。


「久しぶりだな、驟雨」


 凛と響くその声は自信に満ち溢れている。ゆっくりと体を起こした霖雨の顎には、今にも落ちそうな血液の滴が凍り付いたようにぶら下がっていた。目の前の現実が信じられない。
 当たり前のように自分の名を呼ぶ、正面の男を驟雨は目を丸くして見詰めていた。


「お前、霖雨じゃねぇな……」


 驟雨の言葉に、一瞬皮肉そうに笑った。けれど、再びその金色の目を真っ直ぐに向ける。


「俺は……、春馬だ」


 やけに耳に馴染むその名もまた、驟雨は聞いたことがあるような気がした。
 追及しようとして、やはり驟雨は止める。この男が霖雨であろうと春馬であろうと、死に掛けているこの現実に何の変化があるのだ。冷たくなった指先を如何したら温めることができるのだ。
 春馬は、恐らくは致命傷になっただろう首筋をそっと撫でて言った。


「時の扉は開かれた。この傷の霖雨への干渉は遮断されている。早く治療してやってくれ」
「時の扉……?」


 その単語もまた、驟雨にとって何故か聞き覚えのあるものだ。思い出そうとする度に酷い頭痛がする。
 春馬は頷き答える。


「万能のタイムカプセルだと思えばいい。この光の中で霖雨は時間の干渉を受けない。つまり、傷の進行を防いだということだ」
「じゃあ、霖雨は助かるの?」


 それこそが待ち望んだ言葉だと言うように林檎の表情が明るくなる。驟雨もまた、安堵の息を吐こうとして、浮かない春馬の表情にぎくりとする。


「後は、霖雨次第だが……。今のままなら、絶望的だな」
「どういうことだ?」
「全ての力の起因は、霖雨自身の生きようとする力だ。でも、今の霖雨にあるのは満足だ。林檎は助かった。だから、もう十分だと」
「ふざけんな!」


 叫んだのは驟雨だった。


「それでお前が死んでんじゃ、何の意味も無いだろう! 死ぬんじゃねぇ……!」


 その必死の叫びの理由など驟雨には解らない。けれど、霖雨を助けたいのだ。
 得体の知れない使命感だけではない。友達だという何の確証もない言葉を信じて、自らが傷付くことも厭わず闇の中へ走って行ったその純粋さを、小さくて弱い掌の温かさを知ってしまったから、死なせたくない。
 すると、春馬は驟雨をじっと見詰めて言った。


「霖雨を助けたいか?」
「助けたい、何があっても」


 即答した驟雨に、春馬はゆっくりと血塗れの手を持ち上げて見せた。漂う光の粒子が驟雨を包んでいく。


「霖雨は今、闇の中にいる。……お前に、霖雨が救えるか?」
「救うさ。約束したからな」
「私にも手伝わせて」


 衣服を整えながら林檎がはっきりと言った。その眼に映るのは確かな覚悟だ。
 そうか、とだけ春馬は言った。そして、次の瞬間。
 二人を包んでいた光がまるで生き物のように広がり、呑み込んでいく。生暖かい輝きの中で、状況を理解し切れないままに驟雨は、はっきりと前を見据えていた。
 目が眩むような光の渦に呑み込まれ、その激流の中、驟はを目を閉じた。そして、瞬き程の一瞬、再び開いた視界には一寸先も見えぬ程の漆黒が待っていた。上も下も、前も後ろも解らない闇。常識では理解できないこの状況に眩暈がした。けれど、その隣で声がする。


「此処は……?」


 そう、独りじゃない。この何も見えない闇の中で、知り合って間もない、けれど信用はできる人間がいることが、驟雨に冷静さを取り戻させた。驟雨は大きく深呼吸をした。


「霖雨は、闇の中にいると言った。だから、此処の何処かに霖雨はいる筈だ」
「この中に……?」


 春馬の言う時の扉がタイムカプセルと言うのなら、此処もまた一つの隔離された過去の遺物。闇の中にいる霖雨。何かが繋がりそうで繋がらない。頭を掻き毟りたい衝動に駆られる驟雨の横で、林檎が声を上げた。


「見て!」


 そう言って指差す先に、小さな子どもがいた。此方を見向きもしないで虚ろな目で何処か遠くをじっと見詰める。感情を伺わせない人形のように整った面には面影があった。


「霖雨……?」


 そう、それは間違いなく霖雨だ。駆け寄ろうとした驟雨と林檎に、全く知らぬ声が聞こえた。


――事故ですってね。子どもを残して、自分達はさっさと死ぬなんて……


 何処からか響くその声は、この暗闇の中で重く圧し掛かっている。


――全くだわ、まだ六歳でしょう?
――施設にでも預けましょうか。あの子も、独り残されるくらいなら、一緒に連れて行ってあげればよかったのにね


 大勢の無礼な言葉は、まるで雨のように子どもの霖雨に降り注ぐ。子どもだから、何を言っても解らないとでも思うのだろうか。けれど、霖雨は何かをじっと見詰めたまま動かない。
 勝手なことを言う大人達に苛立ち、驟雨は咄嗟に何かを叫ぼうとした。けれど、霖雨が何を見詰めているのか気付いた時、言葉は胸の中に霧散してしまった。
 漆黒の闇が、光の粒子によって少しずつ照らされる。霖雨の正面にあるのは仏壇だ。そして、その眼は生前の優しい微笑みを残した遺影を見詰めている。
 大人達が勝手に、霖雨のことを可哀想だとか、一緒に死ねたらよかっただとか勝手なことを言っている。けれど、霖雨はこの時きっと、死にたかっただろう。


――霖雨君。うちに来るかい?


 それまで勝手なことを言っていた恐らく親族だろう連中の中から、人の良さそうな笑みを浮かべた男が現れた。中肉中背の中年の男は、熱くも無いだろうに頬を伝う汗を趣味の悪いハンカチで拭いながら、霖雨に手を差し伸べた。
 一陣の風が吹き抜けた。大量の枯葉が視界を遮って飛んでいく。驟雨と林檎はそれを避けるように目を伏せ、そして、顔を上げた其処には別の情景が映っていた。
 それは小さな家庭の食事の風景。あの中年の男と、妻だろう女。そして、息子だろうか二人の子ども。
 移り変わっていく情景は、驟雨の中で答えに繋がる。


「そうか……。これは、霖雨の記憶」


 訳が解らないとでも言いたげな林檎が顔を上げる。驟雨は言った。


「これは霖雨が心の中で抑圧して来た過去の記憶なんだ。あいつは今、その中にいる」


 人は死の瞬間、それまでの人生を走馬灯として見るという。霖雨はこれまで目を伏せて来た忌まわしい過去を思い返しているのだ。
 林檎が更に何かを問おうとした時、其処で食事を続ける家族の会話が聞こえた。


――あんな子ども引き取るなんて、あんた何考えてんの


 責めるような女の口調に、男がなよなよと笑う。女は口に白米を押し込みながら言った。


――大体、あの子不気味なのよ。にこりともしないし、泣きもしない。子どもらしくないっていうか……
――まあ、いいじゃないか。ペットが増えたとでも思ってくれよ。お蔭で、あの子の親の遺産は全て俺達のものだ
――それもそうね……


 げらげらと卑下た笑いを響かせる夫婦。訳も解らず笑う子ども。けれど、霖雨の姿が無い。
 きらきらと光の粒子がその存在を知らせる。薄い襖を一枚挟んだ小さな薄暗い部屋、物置だろうか。膝を抱えて、冷たい食パンを袋の中からそっと取り出して噛み締める霖雨の姿があった。
 丈の合わないジーンズの裾をぎゅっと握る掌が震えている。微かに聞こえる音は咀嚼する音ではない。


「霖雨……」


 林檎が、そっとその名を呼んだ。
 此処は記憶の世界。此方が干渉できる筈が無い。この声が届かないと知っていても、その名を呼ぶ。
 泣かなかった筈が無い。辛くなかった筈が無い。全部聞こえてる、全部解っている。
 其処でまた、風が吹いた。光はだんだんと色濃くなり、そこは夕焼けの橋の上だった。


――やーい、女男
――悔しかったらやり返してみろ!


 揶揄する子どもの笑い声。あの時食卓を囲んでいた二人の子どもが、ぼろぼろのランドセルを振り回して笑っている。追い掛ける小さな子どもは、霖雨だ。


――止めろよ!


 変声期前のボーイソプラノが、悲鳴のような声で叫んでいる。
 ランドセルを持った子どもが玩具のように振り回す。隣の子どもは、筒状に丸めた紙を持っている。それらを弄ぶ二人に必死に食らい付いて取り返そうとする霖雨を蹴飛ばし踏み付け、子どもは紙を開いた。それはクレヨンと水彩絵の具で描いた一つの絵画だった。
 鮮やかなピンク色は桜に彩られた春の野山だろう。笑顔を浮かべる男と女と子ども。それが何かと説明されなくても、すぐに解った。ランドセルもそっちのけで、何度もアスファルトに転がされながらその絵を取り返そうとする。


――返せぇ!


 霖雨が飛び付いたその時、子どもはその絵を何の躊躇も無く真っ二つに引き裂いた。破かれた絵画が、風に乗って川へと飛ばされていく。両膝を着いた霖雨に表情は無く、呆然としていた。
 けれど、飛ばされた絵画を追って欄干から身を乗り出す。絵画は流れていく。


――ちょっと褒められたからって、いい気になるんじゃねぇぞ


 行こうぜ、とランドセルを投げ捨てて歩き出す二人の子ども。オレンジ色に染まる橋に伸びる二つの影。流されていく絵画を見詰めていた霖雨が、ゆっくりと顔を上げた。その眼に浮かぶのは隠し切れない怒りだった。
 そこでまた場面が変わった。


――この恩知らず!


 酷い叱咤と共に、何かが投げ付けられる。否、叩き付けられたのだ。
 冷たいコンクリートに叩き付けられた霖雨が、打ち付けた腰を摩りながら正面の人影を睨む。光の中で罵声を浴びせる女の金切声と、頬を腫らしたた二人の子ども。
 男が荷物のようにずるずると引き摺って、庭の隅の物置に放り込まれた。音を立てて扉が閉まった。


――其処で一晩、反省するんだな!


 口ぶりから、俄かには信じ難いが霖雨があの二人の子どもを殴ったのだろう。けれど、その霖雨もまた目の上に青たんを作って腫らしている。埃っぽい物置の隅で体を丸める霖雨はずぶ濡れだった。けれど、その腕の中にはボロボロの紙を大切そうに抱えている。
 水彩絵の具は滲んで、流れてしまったようだ。クレヨンで描かれた鮮やかな人物だけが微笑みを浮かべるけれど、それは破かれ、霖雨だけが離れ離れになってしまっていた。まるで、今の霖雨そのものだ。
 それだけが救いだとでも言うように抱き締めたその絵画はぼろぼろだった。





2011.3.27