06.蛙鳴蝉噪
何かがおかしい。
学校に着いた瞬間、霖雨は思った。隣を歩いていた林檎もその異変を感じ取ったように、昇降口で足を止めた。挨拶を交わす生徒と教師、昨日のテレビの話題に盛り上がる女子生徒の輪、ボールを抱えてグラウンドへ飛び出していく男子生徒の群れ。昨日までの日常と変わらぬ賑やかで、穏やかな朝。けれど、何かが違う。
足が竦んだように動けない林檎を見て、霖雨はその肩を叩いた。
「……行こうぜ」
午前八時五分。二十分後にはHRの開始を警告する予鈴が学校中に響き渡ることだろう。
生徒達のざわめきがまるで遠い世界のようだった。下駄箱にローファーを入れ、真新しい上履きに足を入れる。開いた穴を縫い合わせたばかりの黒い靴下がごわつき、手間取る後ろで林檎が呼ぶ。
片足で跳ねながら中に入った踵部分を引っ張り起こす。跳ねた拍子にポケットに突っ込んでいた携帯が落下した。
何のストラップも無い傷だらけの携帯はリノリウムの床を滑った。溜息を零し、膝を曲げて手を伸ばす。後ろから、影が伸びた。
「――霖雨っ」
林檎の悲鳴にも似た叫び声と共に、振り返った頭上に影が落ちた。光を遮ったものが椅子であると判別した瞬間、雷のように振り下ろされるその刹那。首元を乱暴に引かれた。
叩き付けられた椅子が轟音を立てて床を撥ねた。賑やかな廊下が、静寂に包まれる。撥ねた椅子が壁に衝突して数度転がり、奇妙な形で停止した。
声も出なかった。目の前の状況が理解できず、訳もなく息が乱れ激しい鼓動が耳元で聞こえる。
椅子を振り下ろした男子生徒は顔を伏せていたが、ゆっくりと此方を見た。
「――あれ?」
自分のしたことを、まるで覚えていないような体で首を傾げる。周囲のざわめきが野次馬の集合によって増す。慌てて駆け付けた教師は一部始終を見ていたようで、応援にやって来た他の教師と共にその男子生徒を確保する。
尻餅を着いたまま動けない霖雨に、駆け寄った林檎が切羽詰まったような声を出す。
「霖雨、大丈夫!?」
喉の奥が乾いて張り付き、声が出ない。どうにか頷く霖雨の腕を林檎がぎゅっと握った。
ゆっくりと顔を上げ、後ろを振り返る。目を真ん丸にして見下ろすのは、驟雨だった。
「――無事で、良かった」
その声は、普段の驟雨を知る者なら驚くだろう程に硬く乾いた声だった。起き上れない霖雨の腕を掴んで引っ張り起こす驟雨の表情は緊張しているかのようだ。HRの開始を警告する予鈴によって、少しずつ野次馬が散っていく。
一瞬、視界がぐにゃりと歪んだ。モザイクガラスのような視界に足元が揺れる。慌てたように林檎がその腕を掴んだ。
リノリウムを踏み締めて、大丈夫だと言おうとした。林檎の奥で神妙な顔つきの教師が駆け寄って来る。
「君、大丈夫か」
頷くと、硬い声で教師は言った。
「ちょっと、来なさい」
有無を言わさぬその口調に、黙って先を行く教師を追おうと足を踏み出す。不安げな林檎に大丈夫だ、と声を掛ける。血の気の失せた紙のように真っ白な面で、驟雨が呆然と立ち尽くしていた。
何かがおかしい。そう感じながら、霖雨は黙って教師の後を追った。
連れて来られたのは小さな応接室だった。すぐ横の壁が、まるで迫り来るようで緊張感を与えている。促されて、古びた一人掛け用のソファに浅く腰掛ける。丁度、HRの開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
正面に座った教師が眼鏡の奥で、目を細めた。
「一体、何があったんだ」
動揺を隠せない教師に、霖雨は正直に話した。
携帯を拾おうとしたところで、頭上に椅子を振り上げられたこと。その男子生徒とは何の面識も無いこと。偶然居合わせた驟雨が助けてくれたこと。
そう言うと教師は何の疑いも無く頷いてくれた。一部の異常はあるものの、普段の素行に何の問題も無い霖雨はその教師にとっては模範生徒にも近かったのだろう。簡単な聞き取りだけで解放されると思った霖雨が腰を上げようとする刹那、教師が愚痴のようにぽつりと言った。
「影辻が出た矢先に……」
聞き捨てならないその単語に動きを止める。そんな霖雨を見て、教師は咳払いを一つすると退室を促した。
食い下がることはしなかった。この教師は口を割らないだろうと思ったのだ。それよりもきっと、今頃、教室で女子生徒と談笑しているだろう林檎ならば情報を得ているだろうし、教えてくれるだろう。
鞄を肩に下げ、教室に向かう。一時間目の授業に向かう生徒達が廊下を行き交う。霖雨を見て何かこそこそと耳打ちしているその様を見れば、つい先刻の出来事は既に皆が知っているのだろう。
霖雨が教室の入り口を潜ると、林檎が音を立てて席を立った。
「霖雨!」
午前八時五十分。間も無く一時間目が始まる。
駆け寄って来た林檎は焦ったように、声を荒げて言った。
「影辻が出たの!」
「うん」
「今度はこの学校の人が斬り付けられて、今、病院に……」
この学校に知り合いは殆どいない。けれど、続けられた林檎の言葉に耳を疑った。
「隣のクラスの、香坂君が――」
聞き覚えのある名前だと、思ったのだ。それが誰だったか思い出す前に、耳の奥に残った彼の声が鮮明に蘇った。
――なあ、霖雨。あいつと仲良くしてやってくれよ。
そう言った彼の声が耳鳴りのように響く。脳内に浮かび上がるあの夕焼けと、フルフェイスのヘルメットを抱えて立つ一人の少年。鋭い眼光、悪戯っぽく弧を描いた口元。
「香坂……蓮輔か?」
林檎が、驚いたような顔で頷いた。霖雨の口からその名が出るとは思わなかったのだろう。
弾かれたように教室を飛び出した霖雨を、林檎が呼びとめようと叫ぶ。これまで一度だって覗いたことすらない隣のクラスに飛び込んで、目の前にいた男子生徒に声を掛けた。
「――なあ、驟雨は?」
部屋が違うだけで空気が変わる。自分のクラスとは異なるその冷えた空気を肌で感じながら、これまで一度だって話したことの無い、そして、この先二度と話すことのないだろう男子生徒の言葉を待った。
酷く驚いた顔をする男子生徒の周りで、見知らぬ同級生が独り言のように自分の名を囁く。男子生徒は、動揺を隠せないまま答えた。
「知らないけど……、香坂がやられたって聞いて教室飛び出して行っちまったよ」
その言葉を聞いて、霖雨もまた教室を飛び出した。
呼び止める林檎の声も振り切って、転がるように階段を駆け下りながら携帯を取り出す。着信履歴の一番上は桜丘驟雨だ。何度かコールするけれど、繋がらない。昇降口に着く頃、漸く携帯の向こうで呼び出し音以外の音がした。
『もしもし』
くぐもった声だが、それは確かに驟雨の声だった。
「なあ、驟雨、お前今、何処にいるんだ」
聞き取り辛い音声を一つだって聞き逃すまいと、固く握り締めた携帯を耳に押し当てる。
小さな声が、零れ落ちるように耳に届いた。
『病院……。春賀病院だ』
春賀病院は、この春賀高校からバスで十分程の距離にある大きな病院だった。救急車は大体其処に送られる。
解った、と短く答えると通話は一方的に切れた。驟雨の様子がおかしい。それも当然だと思いながらローファーに履き替える。後を追って来た林檎が怒鳴るように叫んだ。
「何処に行くの、霖雨!」
振り返る時間すら惜しいと言うように昇降口を飛び出す。後を追おうとする林檎に、待ってろと言おうとして躊躇する。今朝から感じる違和感が胸騒ぎとなって頭に引っ掛かるのだ。此処に林檎を一人残せない。
「――ついて来い!」
鞄を持っている林檎は、始めから付いて来るつもりだったのだろう。授業開始のチャイムが鳴り響く中、校門を走り抜ける。桜並木が桜花を散らし、葉の増えた枝先が日光を遮っている。
学校から五分程歩けば見えるバス停。向こうからバスが近付いていることに気付いて速度を上げる。到着したバスにPASMOを押し付けると、車内の乗客が物珍しそうに一斉に此方を見た。追い付いて来た林檎が息を切らせて料金を支払う。けれど、其処でまた胸騒ぎがした。
何かが、おかしい。
けれど、ゆっくりと扉が閉ざされたバスは二人が着席するのを待たず発車した。何かが、何かがおかしい。違和感、胸騒ぎ、危険信号。その時、雄叫びにも似た声が車内の静寂を破った。
「――てめぇら動くなァ!」
太い男のような声がした。後部座席で、小さな少女に包丁を突き付ける中年の女性。狂気の悲鳴が爆発した。
耳を劈く悲鳴、助けを求める声、縋り付く祈り。視界がぐにゃりと揺れる。
「このバスは今から――」
其処で、声が途切れた。視界が闇に塗り潰され、意識が消える。けれど、その刹那、霖雨は足元から浮かび上がる光の粒子を見たような気がした。
林檎の目に映ったのは、結末だけだ。弾き落とされた包丁が音を立てて床を滑る。捻り上げられた女性の腕、救い出された小さな少女。それは目にも映らぬ一瞬の達人芸。振り向いた霖雨の目が金色に煌めく。
数秒の沈黙の後に、割れんばかりの歓声が車内を包み込んだ。
称賛の拍手が送られる先にいるのが霖雨だとは、林檎には如何しても思えなかった。猛禽類を思わせる獰猛さを隠す金色の眼は何時の日か見たものだ。此処にいるのは霖雨ではない――。林檎は確信した。
「……想像以上に、進行が早いな」
独り言のようにぽつりと漏らすその声もまた、霖雨とは違う。
何かを気に掛けるように車窓に目を遣り、時刻を確認する。バスが緊急停止したその場所は春賀病院の正面入口だった。捻り上げた女性を運転手に押し付けると、まるで何事も無かったかのように闊歩する。堂々とした振る舞い、気品のある仕草。
「行くぞ、林檎。手遅れになる前に」
「どういうこと、あなたは」
「前に、名乗っただろう」
バスを降りながら、振り返る。金色の目が真っ直ぐに林檎を見ていた。
「俺は、――春馬だ」
春馬は無表情に言い放つと、すぐさま背を向けて歩き出す。何時の間にか晴れていた空には鉛色の雲が重々しく浮かんで、今にも雨が降り出しそうだった。正面玄関を潜ると穏やかな病院のエントランスが広がっている。けれど、救急車のサイレンが鳴り響いた。
どよめく患者と来訪者、受付係。押し掛ける大量の救急車と静寂を打ち消すサイレン。動揺し立ち尽くす林檎の横で、春馬はそんな状況に目もくれず、黙って目的地へ歩き出す。運び込まれる急患の出血がタイル貼りの床に零れ落ちた。
「どうなってるの!」
何も語らない春馬の背中に向かって林檎が叫ぶけれど、振り返ることもしない。黙って階段を駆け上っていく春馬は呼吸一つ乱さずに、一つの病室の前に立った。集中治療室。
躊躇無く扉を開けた先に、白いベッドに横たわる少年の姿があった。呼吸器を口に当て、一定のリズムで電子音が響く。病室の名札を見なくとも、それが誰であるのか林檎には理解出来た。
香坂蓮輔は、固く目を閉じている。けれど、春馬がその横に立つと、ゆっくりと瞼が開かれた。
鋭い眼差しが、春馬を見遣る。
「……よう、霖雨」
力無く、香坂が笑った。
「見っとも無ぇとこ、見られちまったな……」
「驟雨は何処だ?」
「知らねぇ、見てない。……まさか、あの馬鹿……」
起き上ろうとして、香坂は脇腹を抱えて再びベッドに沈み込んだ。春馬は無表情に言った。
「その、まさかだろうな。あの単細胞の考えることだ。容易に想像がつく」
「……お前、本当に霖雨か?」
何気なく口にしただろう香坂の言葉に、春馬は冷ややかな視線を送っただけだった。香坂は答えない春馬に何も言わず、苦笑いを浮かべた。
「そんなこと、どうでもいいことだよな。……なあ、頼む。驟雨を止めてくれ。影辻は、只者じゃねぇ。驟雨でも危ない」
縋り付くような弱った声を出す香坂は、喧嘩無双と恐れられた男だ。その香坂がこうして影辻に斬られ病院送りにされたのだから、只者でないことは誰にでも解る。驟雨とてそれは承知の上だろう。
そう、相手が只者でないことを承知の上で、驟雨は影辻を追ったのだ。香坂の目が覚める前に、仇を討つ為に。
春馬は、ゆっくりと頷いた。
「当たり前だ」
そうして浮かべた微笑みは、霖雨と同じものだった。縋り付くように伸ばされた手を、確と握ったのは、春馬なのか霖雨なのか、最早林檎には判別が付かなかった。
病室の外には今もサイレンが鳴り響いている。何かがおかしい。その違和感の正体も解らぬまま、制服を翻すようにして踵を返した春馬の背中を林檎は追った。
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