07.暗中模索






 驟雨は約束を思い出した。
 空は既に茜色に染まり、東の空には夜が迫っている。町の彼方此方を巡回する警察官の数が事態の深刻さを物語っているようで、ならば何故もっと早く動かないのだと皮肉っぽく思った。死者こそ出ていないが、香坂は瀕死の重傷だった。手術の成功を見届け、香坂が目を覚ますよりも早く驟雨は町へ繰り出した。
 影辻と呼ばれる所以。それはまだこの国に武士がいた時代、刀剣の切れ味を試したり、武術を練る為に街頭で往来の人間を斬る辻斬りである。影のようにターゲットの後を付いて回り、一太刀の元に斬り倒す。時代錯誤も甚だしいと腸の煮え繰り返る思いで驟雨は目を鋭くさせた。
 狙われるのは武術を学んでいたり、喧嘩が強かったりする学生。ならば、自分も十分ターゲットになり得ると驟雨は考えた。単独囮捜査だ。無謀だと言われない程度には、自分の腕に覚えがあった。警官に見つかれば帰宅を促される。影辻の現れるだろう日の落ちた頃まで何処かで時間を潰そうと思った。
 学校には戻れないし、その周辺にも近付けない。きっと、霖雨が自分を探している。見付かれば止められるのは目に見えているし、逢ってしまえば胸の内で猛り狂う怒りの炎が消えてしまうような気がした。だから、逢えない。
 教科書など一つも入っていない薄っぺらの鞄の中に、一枚のCDがあった。黒いジャケットに、光沢のある黒文字で記されたアーティスト名。霖雨が聴きたいと言っていたPunk-Rockのベストアルバムだ。既に解散してしまったけれど、根強いファンが今も再結成を待ち望んでいる。自宅にメディア機器が一切無いと言っていた霖雨がそのロックバンドを知っていたことは意外だった。使い込んだCDウォークマンを一緒に貸すと約束して、今日、鞄に入れて持って来たのだ。
 結局、渡すことができなかった。それでも、約束は守ろうと、足は自然と霖雨の自宅へと向かっていた。
 巡回する警官の目を掻い潜って目的地に向かうのはまるでゲームのようだった。教師の目を盗んで小学校を抜け出したあの頃とよく似た興奮と緊張感。確かに年は重ねたけれど、自分は何も変わらない。ただ一つ違うのは、どんなときも一緒にいた香坂が今、此処にいないことだけだった。
 幼馴染として育った香坂は気付くといつも其処にいた。どんな馬鹿をしたときも、教師にこっ酷く叱られるときも、いつだって傍にいるのは今と変わらず目付きの悪い幼馴染だったのだ。江戸時代より続く剣術道場の跡取りとして育てられ、厳しくされる程に反発して何処にも居場所が無くて、胸の中に溜まる鬱屈とした気持ちは香坂と馬鹿なことをすれば雲一つない蒼穹のように発散された。
 周りは、香坂とは一緒に遊ぶなと言った。けれど、香坂はその頃の自分にとって唯一自分らしくいられる居場所だった。香坂は何も訊かない。此方の事情など興味が無いとでも言うように干渉せず、ただ其処にいてくれる。それでいい、それがいい。
 終に太陽が西の空に死んだ。頭上には葬式のような暗い夜空が広がっている。閑静な住宅地、傍には広々とした畑。明かりの少ない街並みの中で死んだように闇に沈む霖雨のアパート。携帯で時刻を確認すれば午後八時十分。二十件を超える着信履歴は全て霖雨だった。
 九時頃から一切連絡が入っていない。何かあったのだろうかと思いつつ、携帯の灯りを頼りに郵便受けを探した。元の色が解らない程に色褪せ、赤茶く錆びた郵便受け。貼られた名札だけがやけに真新しく浮いていた。
 油性マジックで大して上手くも無い文字で『常盤』と大きく書かれている。その横、携帯の眩しい灯りに照らされて浮かび上がる隣人の郵便受け。


「……常盤?」


 思わず、声に出てしまった。よくある苗字でもないだろう。珍しいこともあるものだなと思いながら、確かに霖雨の文字で綴られた郵便受けにCDとウォークマンを入れた。
 さて、と顔を上げて驟雨は歩き出す。約束は、果たした。
 何時影辻が現れてもおかしくない時刻になっていた。香坂の病室を後にした春馬と林檎は、警官の目を掻い潜りながら驟雨の姿を探した。学校の周辺を中心にその姿を探すけれど、驟雨は愚か目撃者すら見付けることができなかった。流石に疲れたようで、初春だというのに額に汗の滴を貼り付けたまま春馬が膝に手を突く。酷く焦った様子で駆け回る春馬は何も言葉にしない。付いて行くだけで精一杯だった林檎もまた、息を切らしている。
 驟雨の居場所に心当たりも無いのだ。それどころか、驟雨の自宅すら知らない。知っているのは人伝に聞いた、実家が江戸時代より続く剣術道場であるということだけだ。それだけで自宅の場所は探せそうだが、驟雨が自宅にいるとは思えない。


「あいつ、一体何処へ……!」


 春馬の顎から汗が一粒零れ落ちた。人気の無い夜道を照らす外灯に無数の火取虫が群がっている。そして、獲物の性質を理解した賢い蜘蛛が巣という名の罠を張っていた。何かが頭の中で繋がりそうで、繋がらない。
 荒い呼吸だけが夜道に響く。林檎が何かを言おうとして口を開いた。けれど、その瞬間、傍を通り過ぎた若い女の膝ががくりと折れた。


「あああああああああ……!」


 悲鳴にも、怒号にも似た声が耳を貫く。突然崩れ落ちた女が、悔しげにアスファルトに拳を叩き付ける。
 長い黒髪を乱れさせ、突いた膝からストッキングが伝線している。OLだろう小奇麗な服装が見る見るうちに汚れていく。突然のことに声を失った林檎が立ち尽くす。女が叫んだ。


「如何して、如何して、如何して私を置いて行くの……! あの女の何処がいいの……!」


 訳も解らないまま、掛ける言葉も見付けられない林檎は無意識に春馬の腕を掴んだ。女は二人に気付く様子も無くぶつぶつと呪いの言葉を吐き出し始めた。


「殺してやる、殺してやる、殺してやる……。あの女と一緒に殺して、火を点けて、全て壊してやる……!」


 神妙な顔つきで、春馬はその女をじっと見詰めている。その声を聞き付けた警官がやって来る足音が路地の奥から聞こえた。こっちだ、と林檎の腕を引いて春馬は走り出した。
 何かがおかしい。林檎は何も言わない春馬の背中を見て、泣き出したい気持ちになった。引っ張られる腕を力任せに振り払うと、漸く春馬は足を止めて振り向いた。


「どうなってるの!」


 目頭が熱く、鼻の奥がつんと痛む。涙が零れ落ちそうだった。
 一日に色々なことがあり過ぎた。影辻に香坂が斬られて病院に運ばれて、霖雨が何の接点も無い男子生徒に椅子で殴られ掛かって、驟雨がいなくなり、バスジャックに遭い掛けて、霖雨は春馬になった。後から聞けば、あの時バスジャックをしようとしたのは買い物帰りの母で、人質にしたのは娘だったという。こんなことが一日に起こり得るものか。信じ難い現実と頼るものも救いの手も無いこの状況に、張り詰めていた糸が音を立てて切れた。
 林檎の瞳から零れ落ちた熱い滴を、春馬は苦い顔で見詰めた。


「……時の扉の影響だ」


 観念したように零した春馬の言葉は、林檎には理解不能だった。以前、霖雨が瀕死の重傷を負った時に現れた春馬が、彼を救う為にその不思議な力を使った。それが時の扉。信じ難いそのオカルティズムな現象を、林檎は一種の奇跡としか理解していなかった。
 春馬はばつが悪そうに目を伏せ、言った。


「時の扉とは万能のタイムカプセルのようなものだ。扉の中には、過去に起きた禍や人々の絶望や憎悪、悲愴の念が封じ込まれていたんだ。……霖雨を救う為に時の扉を開いたあの時、何かしら悪い影響が出ることは解っていたが、こんなに早いとは」


 苦々しく言う春馬の言葉は、林檎には理解し難い。春馬は顔を上げた。


「扉の中から、多くの禍が漏れ出している。扉を閉めないと……」
「如何すればいいの?」


 縋り付くように林檎が言った。この状況がどうにかなるのなら、何でも良かった。春馬は無表情に、まるで何でもないことのように言った。


「鍵を掛けるんだ。時の扉の番人の魂を鍵に、砕くしかない」
「解らないよ。もっと、解り易く言って」
「霖雨を殺すということだ」


 ひゅっと、林檎は息を呑んだ。
 訳が解らない。如何して霖雨が死ななければならないのだ。
 神妙な面持ちで、春馬ははっきりと言った。


「――だが、霖雨を死なせる訳にはいかない。きっと、何か他の道がある」
「当たり前よ!」


 事態の深刻さに、もう笑うことも出来ない。林檎は汗を拭って顔を上げる。
 春馬の眼は何処か遠くを見ているようだった。


「兎に角、今は驟雨を探そう。影辻が何か鍵を握っている、そんな気がする」


 そう言って走り出した春馬を、林檎は追い掛けた。町中を巡回する警官は、ただ単に影辻を捕らえる為だけにいるのではないのだ。町中で起こる異常事態に対応しようとしている彼等は、自分達が思うよりも行動が早い。
 心当たりの無いまま闇の中を手探りで探すのは、夜の海で針を一本探すような心地だった。けれど、駆け回る春馬の目の端に、一本の外灯が映る。オレンジ色の光に群がる火取虫と、その性質を理解して罠を張る蜘蛛。それはまるで、自分達のようではないか。外灯は影辻というネームバリュー。群がる火取虫は警官。――違う。
 オレンジ色の光は影辻だ。ターゲットの性質を理解して罠を張っているのも、影辻。じゃあ、火取虫は。


(――驟雨)


 影辻の本当の狙いは。
 足を止めた春馬が慌てて携帯を取り出し、林檎に投げて寄越す。


「驟雨に掛けてくれ」
「もう何度も掛けたじゃない!」
「いいから!」


 渋々電話を掛ける林檎の横で、春馬は外灯を見上げた。毒々しい模様の蜘蛛が、長い脚で獲物との距離を詰めていく。罠に掛かった小さな蛾は、微かに動いて抵抗しているようだ。小さな食物連鎖、弱肉強食の世界。細い粘着質の糸は獲物に絡み付いて離れない。動けば動く程、絡まっていく。
 まだ、だ。
 もっと考えろ。自分自身に命令しながら、春馬はじっと考え込む。


「やっぱり、繋がらないよ」


 携帯を閉じた林檎が、困ったように言った。春馬に表情は無い。


「――解った。ありがとう」


 それまでの苛立ちも焦りも、全て忘れたような無表情で、受け取った携帯をポケットに押し込む。静かに目を閉ざした春馬は、少しだけ微笑んだ。
 驟雨の行き場所に心当たりは無い。これだけ駆け回って情報一つ得られない。この八方塞の闇を突破することができるのは自分よりも。


(頼んだぜ、霖雨)


 目を閉ざし、声に出さずに心の内で呟いた。その瞬間、闇の中で人工の光とは明らかに異なる蛍にも似た小さな光の粒子が足元から湧き上がる。それは幻想的な光景だ。息を呑む林檎の目の前で、一つ、また一つと光が闇の中に溶けていく。
 閉ざされた瞼がゆっくりと開かれる。漆黒の瞳が、驚いたように林檎を見た。


「――林檎?」


 自分の状況が理解出来ないように、霖雨が瞠目する。
 何処か茫洋としたその瞳が、根無し草のような不安定さが、其処に立つのが霖雨だと訴えている。


「霖、雨」


 漸く現れた友人に、酷く安堵する。この状況など何一つ理解出来ないだろう様子なのに、何故だか安心する。


「俺、確か病院に向かってて……。そうだ、バスジャックが」
「霖雨! いいから、聞いて」


 状況に取り残された霖雨の肩を掴んで、真直ぐ見据える。


「驟雨がいないの。きっと、香坂の仇討ちに影辻を探しに行ったのよ。電話も繋がらないし、心当たりも無い」
「驟雨が――」
「お願い、霖雨。驟雨が行きそうな場所、解らない?」


 そう訊きつつも、林檎も大して期待はしていないのだ。霖雨とて驟雨とは出逢ったばかりで、何も知らない。けれど、霖雨が解らなければもうお手上げなのも事実だった。
 霖雨は困ったように眉尻を下げる。唸りながら目を閉ざす。長い睫が震えた。


「――約束したんだ」


 目を開けた霖雨が、唐突にそんなことを言った。


「昨日、CDとウォークマンを貸してくれるって言ってたんだ」


 鞄の中を覗いて、自分の記憶の途切れた間に受け取ってはいないと確認する。それが何、と言いたげな胡乱な眼差しを向ける林檎に、霖雨は続けた。


「驟雨は約束を破らない。――俺の家だ」


 昨日、アパートまで送ってくれた。家が何処かは解っているだろう。
 心当たりと言える程の確信は無い。けれど、何の確証も無く驟雨が其処にいるような気がして、弾かれたように霖雨は走り出した。


「霖雨!」


 追い駆ける林檎の声が響く。霖雨は、振り返った。


「家まで送る。その後は、付いて来なくていいから」


 それが邪魔だと言う意味ではないと林檎には解った。純粋な労り、心配。何度呼んでも振り返らなかった春馬の背中と、じっと此方を見詰める霖雨の眼差し。二つが重なって、林檎は掌を強く握った。


「行くよ。霖雨に付いて行く」


 後から林檎が追い着くのを待って、霖雨は踵を返す。自宅までは電車に乗らなければならない。
 駅へと向かう二人の上にオレンジ色の外灯が降り注ぐ。蜘蛛の脚は、間も無く獲物に届こうとしていた。





2011.4.3