11.漆は剥げても生地は剥げぬ






「――如何する気だ?」


 呆然と立ち尽くしていると、ヤマケンの立ち去った筈の背後から覚えのある声がした。振り返れば予想通り、香坂が壁に凭れ掛かるようにして此方を見ていた。不機嫌そうに細められた目は、その鋭さを増している。何も答えずにいれば焦れたように香坂が溜息を零した。


「野球経験は?」
「中学校の体育でソフトボールを少し……」


 すると、わざとらしく大きな溜息を零した。
 掛け声と共に直立し、勇み足で近付く香坂に若干後ずさってしまう。


「お前、馬鹿なんじゃねぇの。それで如何するつもりなんだ」
「練習、するよ。……バイトが終わったら」
「何時までバイトなんだよ」
「九時五十分……」


 時計を確認する。既に用の無い生徒は下校を始めている。姿の見えない自分を探してくれていたのだろう、携帯には林檎と驟雨から無数のメールと着信履歴が残っていた。バイトの出勤時間まで差し迫っている。
 もう学校を出なくてはならない。これ以上バイトをすっぽかしてクビになってしまったら、通学も生活も出来なくなってしまう。
 教室に荷物を取りに行かなくては。


「……送ってやるよ」


 走り出そうとした時、思い掛けない言葉に足を止める。不本意だと言いたげな顔で、何時の間に持って来たのか二つの鞄を目の前に突き付けて香坂が言った。
 早足に歩き出す香坂の真意が解らなくて後を追うと、足取りはグラウンドを避けるようにして裏門へと向かう。それでも夕焼け空に響く金属バット特有の高音から焦燥感に駆られる。今頃、ヤマケンは練習をしているのだろう。
 竹藪に囲まれた薄暗く細いコンクリートで舗装された道は無人で、葉の擦れ合う微かな音が時折金属バットの高音が響く。迷いなく進む香坂は大通りを外れ、寂れたパチンコ屋の裏手にあるコインパーキングで足を止めた。其処にはいつか見た大きな黒いバイク、Drug Starが停まっている。
 何の言葉も無くフルフェイスのヘルメットを投げて寄越し、バイクを動かしながら香坂が後ろに乗るように顎でしゃくった。
 霖雨が乗った途端、エンジンが低く唸る。足元から響く振動と共にバイクはゆっくりと大通りへ針路を修正する。


「――持ってろ」


 二人分の鞄を放り投げ、香坂が言った。途端に吹かされたマフラーと共にバイクは急発進した。
 唸りを上げて道を滑る黒いDrug Starは夕日を反射している。制服であることもお構いなしに大通りを通過する香坂の無謀とも思える果敢さに動揺した。


「なあ、香坂――!」


 大通りは避けた方がいい。乗せてもらっている身でありながらとは思いながら、互いの為に忠告しようと口を開くが、声は風とエンジンの唸りに掻き消された。
 信号が変わる直前に走り抜け、大通りを横切って裏道に入る。緩やかに速度を落とし、今度は香坂が口を開いた。


「バイト、終わったら迎えに行くから」


 気付けば、目の前にはバイト先である居酒屋の入るビルがあった。遅刻ぎりぎりと思っていたのが、電車で向かう以上の早い到着に驚いた。
 ヘルメットを背凭れに引っ掛け、二人分の鞄を持ったまま降りる。すると、香坂は此方を一瞥もせずにバイクを発進させて走り去って行った。
 まるで彼氏のようだな、と鳥肌の立つようなことを思いながらビルの入り口を潜った。
 平日真っ只中の居酒屋は殆どがら空きだった。週末では店の外まで並ぶ客も今日ばかりはおらず、調理場でほぼ全ての時間は清掃に回された。しつこい油汚れを落とし切っても胸に突っ掛るヤマケンとの約束。如何して、ヤマケンはあんなにも自分に突っ掛るのだろう。如何して、林檎に近付くなと言うのだろう。如何して、勝負の見えている野球で決めようと言い出すのだろう。


「――それは、林檎のことが好きだからだろ」


 バイト後、ビルを出ると当然のように香坂は其処にいた。
 再びヘルメットを渡され、行先も告げずにバイクは走り出す。私服に着替えた香坂の肩を掴みながら、赤信号に停車する隙に抱えていた疑問を投げかけると、まるで解り切ったことを訊くなとでも言いたげに、投げやりに返された。
 なるほど、と合点したのだ。ヤマケンは林檎のことが好きだから、仲のいい自分のことが面白くない。絶対に勝てる野球で勝負を仕掛けて、近付けないようにしているのだ。それは少し、大人げないと思うけれど。


「何処で練習するんだ?」


 困ったように唸ると、香坂は何も言わずにバイクを走らせた。
 何も言わない香坂の背中に、思った。
 なあ、何で俺のこと助けてくれるの。何で俺の傍にいてくれるの。――俺のこと、嫌いじゃないの。
 疑問は声にならないまま、喉の奥に霧散した。到着した先には闇に沈む大きなバッティングセンターがあった。香坂に習ってヘルメットを脱ぐ。外灯の下、細長い人影が一つ。


「今晩は、香坂さん」


 茶色の短髪を静かに流す、背の高い少年。人の良さそうな笑いを浮かべてはいるけれど、その腹の底は見えない。
 バイクを降りると、背の高い少年は愛想よく会釈した。


「今晩は、常盤霖雨さん。俺は樋口カイと言います」
「今晩は……」


 差し出されるままに握手を交わす。その横で、香坂が仏頂面で言った。


「急に悪かったな」
「いいえ、構いませんよ。それより、珍しいじゃないですか。香坂さんが俺に頼みごとなんて」


 不満げに香坂が鼻を鳴らすと、樋口は糸のように目を細め笑顔を浮かべたまま言った。


「急にバッティングの練習がしたいなんて、また野球を始める気になったんですか?」
「俺じゃねぇよ」


 ついて来い、と我が物顔でバッティングセンター内に足を踏み入れた香坂を追い掛ける。興味津々の樋口が香坂に食らい付くように更に続けた。


「へぇ、じゃあ、こいつが野球するんですか? あの、山口と?」


 無人の受付、廊下を通過する。本人を目の前にしているにも関わらず、樋口はけたけたと笑いながら馬鹿にするように言った。その目に映るのは好奇心だ。


「山口健介、通称ヤマケン。春賀高校一年野球部。ポジションはピッチャー。中学時代は県大会三回戦敗退ながらもチームのエースとして奮闘し、無数の高校スカウトの中から春賀高校を選んだ期待の新人。長身から繰り出されるオーバースローは、投石器さながらの勢いと威力でバッターを圧倒する。一方でコントロールには若干の不安があり、フォアボールは勿論ながらデッドボールも多々」


 静かな空間に不躾に響くその口調はまるで可笑しくて堪らないと言っているようだ。淀みなく告げられるその情報に圧倒されていると、香坂が無表情に言った。


「こいつはあらゆる情報収集が趣味の変態なんだ」
「酷いなァ。俺はただ、あんたの役に立とうと思って」
「霖雨、こっちだ」


 聞く耳持たないと香坂が歩調を早める。金属バットを手渡され、如何すればいいかも解らないままバッターボックスへと促される。碌に握り方も知らないのだ。


「山口の持つ球種はフォークとチェンジアップ。平均球速は134kmで最高球速は139kmと速球派ながら、最低速度は100km前後と30km近くのスピードの落差に並大抵のバッターでは手も足も出ないでしょうね。――それが素人なら、猶更」


 反対ですよ、と握り方を訂正される。
 慣れない手付きでバットを握ると、真意の見えない笑顔で樋口が此方を見ていた。バッティングマシンの調節をしているらしい香坂が此方を見て言った。


「習うより、慣れろだ。まずは体で覚えろ」


 と言うや否や。
 シュッと空気の抜けるような音と共に白い陰が目の前を通り抜けた。途端に背後から響く間の抜けた音。ネットに衝突した硬球が足元に転がった。


「今のは120kmだ」


 それでもまだ、ヤマケンの投げるという速球に及ばないのだ。
 休んでいる暇は無いぞ、と香坂は次々にボールを放つ。バットを振らなくては、と思う間もなくボールはネットに衝突する。見送り三振に終わる訳にはいかない。慣れない手付きでバットを振ればネットの向こうで樋口が喉を鳴らして笑った。


「振らなきゃ話になんねぇぞ!」


 怒鳴り付ける香坂に、全くもってその通りだとバットを構える。もっと鋭く、もっと早くと脳が思うのに、体はぎこちなく動いてバットからは気の抜けた風切音ばかりが聞こえる。あの時グラウンドで聞いた澄んだ高音は、この金属バットから響くのだろうかと疑いたくなる。
 俺に出来る筈が無い。だって、ヤマケンは、俺がバイトしている間も、勉強している間も、努力を惜しまず練習して来た人なのだ。一朝一夕で敵う相手ではない。そんなことは解っている。


「よそ見してんじゃねぇ!」


 解っているのに。
 きっと俺は今日を何度繰り返したって同じことをしたと思うのだ。勝てる筈の無い約束をして、無意味な練習をして。


――二度と大神に関わるな


 あの言葉を否定する為に。友達になろうと言ってくれた林檎の為に。
 丸い時計の長短の針が、真上にぴたりと重なった。怒鳴り疲れたのだろう、香坂が掠れた声で休憩しようと言った。無我夢中にバットを振っていた掌には無数の水脹れがあった。短い前髪の先から汗の滴が零れ落ちる。眉を弾くように額を伝った汗が蟀谷から目尻に滲んだ。


「……無意味だと、思わないんですか?」


 一人涼しい顔をしている樋口が、笑みを崩さぬままに言った。
 崩れ落ちるように膝を着いて起き上れず、既に学ランなど脱ぎ捨てたけれど、肌に張り付くYシャツが不快だった。久方ぶりの運動に膝が悲鳴を上げている。ポケットの携帯が何度も何度も震えていたけれど、取り出す気力も無かった。


「こんな勝負に何の意味があるんですか?」


 呪文のようだと思った。樋口が淡々と繋ぐその言葉の裏側に張り付く思いが解らない。
 困惑していると、香坂もまたくつりと喉を鳴らして笑った。


「確かにな。……今頃、お前の携帯にも驟雨から死ぬ程連絡が来てるだろうよ」


 言われて携帯を取り出せば、その通りに無数のメールと着信履歴。予想通り過ぎて笑いが零れた。そして、それがとても幸せなことであるとも気付いている。
 香坂は目を伏せたまま言った。


「驟雨に言えば、こんなもんすぐに解決するぜ」


 激昂してヤマケンに殴り込みに行く驟雨が目に浮かぶようだと、香坂が笑った。


「あいつは、お前の為なら何でもするよ。お前を傷付ける何者をも許さないし、近付かせない。今日だって、ヤマケンがお前に突っ掛っただけですげぇ怒ってたろ」
「それは」
「近頃、あいつはおかしい。口を開けばお前の話ばかりだ。前は」


 香坂がそう言ったところで、樋口が口を挟んだ。


「触れるものを皆傷付ける、ナイフのようだった」


 そうでしょう、と樋口が微笑む。香坂はばつが悪そうに目を逸らした。


「桜丘驟雨の通り名を知ってるでしょう。血の霧雨。その名は伊達じゃありませんよ。中学時代から人形のような無表情で、喧嘩に明け暮れて、誰一人傍に近付かせなかった」


 想像もつかないと思った。自分の見て来た驟雨は短気だが素直で、不器用だが優しい男だ。
 香坂は俯いたまま、くぐもった声で言った。


「そうだ。だから俺は――」


 低く唸るような声で、香坂はゆっくりと顔を上げた。


「だから、俺はお前に感謝してるんだよ」


 思いがけない言葉に耳を疑った。


「礼は言わねぇぜ。これで、貸し借りはチャラだ」


 続けようぜ、と重い腰を上げた香坂は笑っていた。
 湿っぽいYシャツで乱暴に汗を拭った。


「御釣りが出るよ」


 彼等の語る驟雨がどんな人物なのかは知らない。けれど、知りたくもない。彼の過去がどうであれ、自分は変わらない。自分に出来るのは、ただ、其処にいるだけだ。
 林檎や驟雨や香坂が如何して傍にいてくれるのか解らないけれど、解らないままでいい。俺は此処にいる。傍にいてくれるならいて欲しいけれど、それを縛り付ける力を持たないから。

 そうして再びバットを握った霖雨の目に光が宿る。それは強い意志だ。
 香坂は不思議な奴だと笑った。霖雨は人に何かを求めることも、押し付けることもしない。ただ其処にいるだけだ。与えられるものをただ享受するだけ。それだけの少年の何が驟雨を変えたのか、香坂には解らない。解らないけれど、その片鱗が朧げながら見えたような、気がしていた。





2011.4.14