12.巻かぬ種は生えぬ
部活の開始を直前にしたグラウンドは、前日までとは異なる奇妙な緊張感に満ちていた。運動着やユニホームに着替えた多数の生徒の中で、一人場違いなようにYシャツの袖を捲って霖雨は金属バットを構えている。
ヤマケンと霖雨が勝負する。
何時の間に何処から広まったのかグラウンドには縁の無い筈の生徒まで野次馬のように集まっている。生涯、こんな大勢の前に立つことはないだろうな、と場違いな程冷静に思った。マウンドに立つヤマケンはにやにやと締まりの無い薄ら笑いを浮かべているけれど、それも当然だろう。ヤマケンにとってこの勝負は余興に過ぎないのだ。結果の見えたこの勝負に価値など存在しない。ただ、此方を馬鹿にし蔑む為の儀式。
――驟雨に言えば、こんなもんすぐに解決するぜ
香坂はそう言った。確かにそうかも知れない。
驟雨に泣き付けば、きっとヤマケンを殴り飛ばしてこんな勝負は無効になっただろう。
(でもね、そんなこと出来ないんだよ)
此方を嘲笑うヤマケンはじっと見詰めると、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「勝負は一打席。一球でも前に飛ばしたらお前の勝ちだ。――いい条件だろ?」
周囲の人間に投げ掛ければ、揺れるように笑いが零れた。勝負にならないと声が上がり、馬鹿にするような笑いが溢れる。
蔑むような白い眼ではなく、見下すような好奇の眼。見世物じゃないと言ってやりたいけれど、言葉にすることなんて出来なかった。
余裕の表情を崩さぬままヤマケンがグラブを構える。応援とも野次とも付かぬ声が生徒の群れから上がった。ゆっくりと振り被り、流れるようなステップを踏む。
来る。
そう思った瞬間、体が強張った。
背後のキャッチャーミットから、皮を打つ乾いた音が鳴った。
「ストライクー!」
審判でも何でもない観客の生徒が、野次にも似た声を上げる。
だが、ストライクはストライクだ。強張った肩を解すように上下させる。
二球目。ヤマケンが振り被った。振り上げられた右手から放たれる白球は白い一筋の閃光となってキャッチャーミットに飛び込んでいく。バットを振り抜くことも出来ない。
「ストライクツー!」
見逃し三振か、と馬鹿にするように声が飛ぶ。途端に溢れる笑い声。
野球部の練習開始時刻に迫っているのだろう。ユニホームを着た部員達が取り囲むようにこの勝負を揶揄する。見下す、蔑む、馬鹿にする、足蹴にする。まるで、同じ人間ではないかのように、汚いものを見るかのように。なのに。
「ボールをよく見ろ!」
覚えのある声に振り向けば、ユニホームを着た野球部員の中で一人、着崩した制服で胡坐を掻く少年がいた。一晩中怒鳴り続けた低い声は地を這うように嗄れてドスが効いている。此方を睨み付けるその鋭い視線は薄らと充血していた。
香坂だ。
その存在を認めた瞬間、取り囲むように揺れていた野次馬が視界の外に消えた。静まり返った世界で、ヤマケンがまるで置物のように立っている。がちがちに強張った肩の力が抜けて、指一本動かなかった掌が緩む。
一睡もせずの一夜漬けの練習に、遅刻ギリギリまで付き合ってくれた。怒鳴り続けた声が嗄れても、鋭い眼が充血しても、まるで自分のことのように一生懸命に向き合ってくれた。
香坂を一瞥してヤマケンが小馬鹿にするように薄ら笑いを浮かべた。
「しょぼい応援だな!」
確かに、取り囲む野次馬を味方につけたヤマケンと比べればずっとちっぽけだ。だけど、今此処に香坂がいてくれることがとても心強かった。
今まで味方なんていなかった。いつも独りだった。なのに。
「霖雨!」
人だかりを押し退けるようにして現れたのは驟雨だ。此方を睨むその眼には抑え切れなかった怒りがありありと浮かんでいる。
「出やがったな、桜丘驟雨」
「ヤマケン、てめぇ……!」
許さない。驟雨が確かにそう叫ぼうとしたそのとき、二人の人間が同時に叫んだ。
「驟雨!」
重なった声に驟雨が足を止める。
香坂は出て行こうとする驟雨の腕を掴み、視線はグラウンドから外さずに言った。
「余計な口出すんじゃねえよ。こいつは霖雨の問題だ」
「うるせぇんだよ、香坂。お前、このこと知ってて俺に黙ってたな……?」
「言ったら、お前がしゃしゃり出て来るだろ」
「当たり前だ!」
怒鳴り付ける大声に肩を竦め、香坂は失笑した。
「なあ、お前にとって霖雨って何なの? 何でそんなに必死になるんだ? あいつの何処にそんな価値があるんだ?」
訳が解らないと馬鹿にするように言う香坂に、驟雨は不思議な感覚を覚えた。
その通りなのだ。少し前まで自分は誰かに執着したことはないし、誰かの為に何かをしたいと思ったこともなかった。当たり前のことを言われているからか、全く腹が立たない。でも。
影辻――常盤秋水を前にした時の霖雨が脳裏に、鮮やかに蘇る。霖雨は何も望まないし、求めない。其処にいるだけだ。それが驟雨にとってどんな意味を持つのか、香坂にはきっと解らない。
「お前には解んねぇよ」
既に霖雨はヤマケンに向き合っている。出逢った頃のような何処か冷めた諦観を抱く目ではない。
悔しそうに唇を噛み締める驟雨の横で、胡坐を掻く香坂が言った。
「霖雨が如何してお前に何も言わなかったのか、解るだろ。お前に迷惑を掛けたくなかったんだよ」
「迷惑だなんて思う筈ねぇ」
「お前を頼りにしたくなかったのさ」
マウンドでヤマケンが振り被る。真っ直ぐに見据える霖雨の目に迷いはない。落ち着いたのだろう、フォームは一夜漬けとは思えぬ程に自然体だ。
振り上げられた右手から叩き付けられるその球筋は、バッティングマシンでは演出不可能の恐ろしいものだ。素人ではその恐ろしさに慄いて尻餅を着いたっておかしくない。だが。
濁った金属音がした。打球は霖雨の足元に転がった。
「あ、」
声が掠れて出なかった。
当たった。当たる筈の無いボール。届く筈の無い実力。けれど、今確かにバットを掠めた白球は足元に転がっている。
霖雨が驚いているように、ヤマケンもまた驚きを隠せなかった。本気で投げていた訳では無いし、油断もしていた。だが、それでも打たれない自信があった。
目の端に、ガッツポーズをする驟雨が見えた。どよめく野次馬に、驟雨は指を突き付けた。
「霖雨のバッティングを教えたのは誰だと思ってやがる! あの、香坂蓮輔だぜ?」
途端、野球部員の群れがざわりと揺れた。
訳が解らないまま、それでもヤマケンに向き直る。けれど、そのヤマケンも目を真ん丸にして驟雨を――否、その隣にいる香坂を見ていた。
「香坂……蓮輔?」
野次馬が頻りにその名を呼ぶ。居た堪れなそうに目を閉じる香坂は眉を寄せ険しい表情をしていた。
「西中の怪物、通算打率八割のホームランバッター。鬼と呼ばれた伝説のスラッガーだ」
野球に詳しくはないから、それがどれ程のものなのかは解らない。だが、自分は兎に角、凄い選手に教えてもらっていたんだと理解した。そして、その男は今も此処で見守ってくれている。
負けない――!
ヤマケンの放った剛速球が叩き付けられる。けれど、振り切った掌に確かな感触が残る。打球は後ろに飛んだ。
「ボール!」
キャッチャーが叫んだ。
掌が痺れている。強烈なボールだ。だが、打てる。そう確信したとき。
「霖雨! 負けるなよ!」
どよめく野次馬の中で際立つ元気な明るい少女の声がした。短いスカートを風に揺らしながら立つ、ショートカットの少女が大きく手を振ってガッツポーズを見せる。林檎だ。
この勝負がどんな意味を持つのか、林檎は知らないだろう。だけど、知らなくていい。知る必要もない。
「勝ったら、マック奢ってあげる!」
何も知らないで純粋に笑い掛ける林檎。不貞腐れた子どものような顔で此方を見る香坂。大声を張り上げて声援を送ってくれる驟雨。名も知らぬ不特定多数の生徒達の中、其処がまるで光源だとでもいうように光り輝いている。
この勝負に負けたら、もう林檎と逢えないのか。香坂も幻滅するかな。驟雨は呆れていなくなってしまうかも。
(失いたくないなぁ)
ぎゅっとバットを握り締める。何処の誰だろうと、どんな理由があろうと、この場所を奪っていい権利なんて誰にも無い筈だ。此処は俺のたった一つの居場所で、たった一つの光なんだ。
じっと睨むように見詰めれば、その先には能面のような無表情でヤマケンが立っている。無言で構え、ゆっくりと振り被る。その口元が微かに歪んだ。笑った。
それに気付いた時、目の前には白球が迫っていた。
「霖雨!」
林檎の悲鳴にも似た声を聞きながら、ぶつりと視界は暗転した。
最後に、浮かび上がる金色の光を見たような気がした。
キンッ。
鋭い金属音が乾いた空気を切り裂いた。それはまるで夜明けを告げる鐘の音のように人々の目を覚まさせる。白球は白い閃光となって野次馬の上を突き抜けた。ざわりと揺れる観客。
バッターボックスに浮かび上がる金色の光。走り出しそうな体を押さえ、驟雨は其処に立つ男を見ていた。
「中々、面白ェことになってるな」
くつくつと喉を鳴らして笑うその少年は、霖雨ではない。可笑しくて堪らないというように笑いながらも、日輪にも似た金色の光を宿すその眼は微塵も笑ってはいない。
奇妙なものを見る目でバットを一頻り眺め、ヤマケンに向き合った。
「俺に喧嘩売ったことを後悔するんだな、木偶の棒」
バットを突き付け、春馬は不敵に笑う。
突然のことに動揺する野次馬が口々に言った。
「危なかったな、今の」
「ボールだ。コントロールが乱れたんだ」
「今の打ち返せなかったら……」
「いや、俺にはヤマケンが狙ったように見えた……」
ざわめきの中、林檎は両手を握った。あの時、放たれた白球は確かに霖雨の顔面に向かっていた。春馬が打ち返さなかったら大怪我に繋がったことだろう。
野次馬の囁き合いでは真実など解らない。真実はヤマケンの胸の内だ。けれど。
薄ら笑いを浮かべるヤマケンが、正々堂々と勝負するような男には如何しても見えないのだ。
「……悪かったな、すっぽ抜けたぜ」
そう言ってヤマケンは嗤う。悪いだなんて微塵も思っていないだろう。
バットをくるくると回しながら春馬は微笑む。
「謝罪なんざ、いらねぇぜ。どの道、俺はお前を許す気なんざねぇんだから」
バットを肩に担ぎ、春馬は言った。その時、弾かれるように驟雨が叫んだ。
「てめぇ、許さねぇ!」
一足遅れて怒りを露わにする驟雨が香坂に羽交い絞めにされている。解放されれば一直線にヤマケンを殴り飛ばすことだろう。そんな驟雨を尻目に春馬は笑う。
「下がってな、驟雨! 俺が今、ケリを着けてやる」
「お前、野球出来んのかよ!」
「――さァな」
ちらりと一瞥して、春馬は微笑みを浮かべる。見る者全てが時を止めるような美しさに、思わず赤面した生徒すらいた。散り際の桜花のような儚さで、その眼は荒々しい猛禽類を思わせる。
「喧嘩ってのは何時の時代も、どんな勝負も同じさ」
ぎゅっと構えるそのフォームは、間違いなく昨夜香坂が教えたそれだ。
春馬はバットを構えている。けれど、マウンドから見たヤマケンは目を疑った。吸い込まれそうな迫力、威圧感。美しい相貌に隠し切れない怒りが陽炎のように体から立ち上る。構えている筈の金属バットは、日光を反射する銀色の刃――日本刀を思わせた。
有り得ない。そんなことはヤマケンにも解っている。
幻想を掻き消すようにヤマケンが振り被った。その一瞬、春馬の目が光った。
(どんな相手だろうとやることは一緒だ。――鼻っ柱を、ぶっ叩け!)
横薙ぎに払われたバットは白球を捉えていた。
澄んだ金属音が尾を引いて響き渡る。白い閃光となった打球が青空に吸い込まれるように飛んでいく。誰もがその行方を目で追った。
打球がバックネットに突き刺さった。どよめきと歓声が野次馬から溢れ出す。春馬は会心の笑みを浮かべた。だが、バットを握る手に鋭い痛みが走り顔を歪めた。
「よっしゃあ!」
跳び上がって喜ぶ驟雨が香坂を振り払って駆け寄った。勢いよく春馬の肩を抱き、ヤマケンに中指を立てる。白い歯を見せて笑う驟雨の後を追って林檎と香坂が駆け付けた。
其処でヤマケンがはっとしたように此方を見た。春馬はそれを静かに観察している。
驟雨が叫んだ。
「てめぇが勝負を仕掛けた癖に、随分と卑怯な真似してくれるじゃねぇか!」
けれど、ヤマケンは何も言わなかった。言える筈が無い、と春馬は思った。
あの時、あの瞬間。ヤマケンは正気では無かった筈だ。時の扉。その言葉が春馬の中で揺れる。
「……兎に角、勝敗は決した。俺は帰る」
「春馬」
文句の一つでも言って当然と誰もが思っただろう。だが、春馬は背を向けて歩き出す。
呼び止める驟雨に春馬は見向きもせず言った。
「手当する場所はあるか?」
「怪我したのか?」
デッドボールは打ち返した筈だと言う驟雨の目に、春馬の掌が見えた。
真っ赤になった掌だ。胼胝だらけの指先に、掌の肉刺が潰れて出血している。この手でバットを握っていたとは思えないと、目を疑った。春馬はその手を見詰め、静かに言う。
「霖雨、相当疲れていたようだな。眠っちまったぜ」
傷だらけの掌を見詰め、驟雨は神妙な面持ちで黙り込む。胸の中に浮かぶのは、何故自分に何の相談もしてくれなかったのかという疑問だ。香坂は、頼りにしたくなかったのだと言った。その意味が、解らない。相談して欲しい、頼って欲しい。自分に出来ることなら何でもしてやりたいと思うのだ。事実、一言相談してくれたなら、霖雨がこんな怪我をすることも無かったのにと驟雨は思う。
春馬は言った。
「如何して霖雨がお前を頼らなかったのか、解るか?」
「いや……」
「これはお前に関係の無い霖雨自身の問題だから、自分の力で解決したかったんだ」
「それでも、頼ってくれたっていいだろ!」
「解ってやれよ」
追い付いて来た香坂が、苦笑交じりに言った。グラウンドの砂を孕んだ風を受けて髪が乱れている。それを直すように、髪を撫でながら香坂が言う。
「あいつは、お前と対等でいたいんだよ」
「俺と、対等……?」
「前に言っただろう」
校舎内の保健室に向かうべく、下駄箱にローファーを押し込みながら春馬が面倒臭そうに言った。
「お前が霖雨を守りたいと思うように、霖雨もまた、お前を守りたいんだ。――お前等と友達でいたいから」
先立って保健室を案内する香坂は後ろを伺いながらも口を挟まない。
この状況が呑み込み切れていない自分に言えることは何もない。そう思いながらも香坂は違和感を抱えていた。
養護教諭が脱脂綿に染みた消毒用アルコールを春馬の掌に押し付ける。染みるだろう筈だが、春馬は表情一つ変えない。其処に丁度、林檎が駆け付けた。
「霖雨!」
しかし、其処に霖雨はいない。林檎の眼には、金色の光を帯びた少年がいるだけだ。
「春馬……」
「霖雨なら、寝てるぜ」
「そっか……。うん。春馬、霖雨を守ってくれてありがとう」
何処か寂しげに、林檎は微笑んだ。
二人のやりとりを見ながら、香坂は噂を思い出す。常盤霖雨は二重人格。
その真相を確かめるべく口を開く。
「お前は一体何者なんだ?」
機械のように手当てを続ける養護教諭の横、春馬は黙っている。驟雨が、林檎が目を向けた。暫しの沈黙。手当てを終えた養護教諭が机の前に戻っていく。春馬は嗤った。
「さァね」
わざとらしく首を竦めて、春馬はそれきり黙った。
当たり前のように存在する彼が何者かなど、驟雨も林檎も、木にしたことすら無かった。静まり返った保健室の窓が開け放たれてる。グラウンドから響く甲高い金属音が届いていた。
「よう、霖雨」
小雨の降り頻る早朝。いつものように林檎と並んで登校する霖雨の背中を呼び止める一つの大きな影があった。
振り返り、霖雨が驚いたように目を丸くした。
「ヤマケン……」
ヤマケンは居た堪れなさそうに頭を掻きながら、あー、うーと唸っていた。何事だろうと首を傾げれば、肩に担いだビニール傘から雨の滴が零れ落ちる。同様に、林檎もまた疑問符を浮かべながら首を傾げた。
覚悟を決めたように、ヤマケンが言った。
「突っ掛って悪かったな!」
予想以上の大声は早朝の街並みに反響した。羞恥に赤面するヤマケンが、それだけだと走り去ろうとする。道の先で二人を待っていた驟雨がはっとして、苛立ったように駆け寄って来る。けれど、霖雨はそれにも気付かぬままヤマケンを呼び止めた。
「待てよ、ヤマケン!」
前から勇み足でやって来る驟雨に気付き、仕方なしに足を止める。振り返れば霖雨が、昨日のことなど忘れたかのような晴れやかな笑顔で言った。
「また、野球しような」
感謝すらしているような笑顔に、ヤマケンは罪悪感を覚えたのだ。
デッドボールを放ったあの瞬間、脳がスパークしたように何も考えられなかった。それを言い訳にするつもりも無いけれど、それでも罪悪感は残る。あの時、打ち返されることが無ければ大きな怪我に繋がっていた。
傘を支える両手は痛々しく包帯に巻かれている。
「次は負けねぇ!」
そう言って走り去るヤマケンに、霖雨が笑った。何事かと駆け寄る驟雨に、霖雨は林檎を顔を見合わせて微笑んだ。
校門付近では野球部から熱烈な勧誘を受け、うんざりした顔の香坂が待っていた。
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