13.恋の闇
しつこいようだけど、俺の家にはメディア機器が無い。
敢えて言うならば、手元にある携帯電話が唯一のそれで、だから林檎や驟雨達が交わす世間の話題にいつも付いて行けない。挙げられる有名人や時事が解らない。日々、学業とバイトに追われる中でそんなものに欠片も興味は無かったけれど、余りにも周囲の人間が誇らしげにその名を口にするものだから、疑問に思っていた。
「鷲宮蜜柑?」
そんなブランド名の柑橘類があったかな、と首を傾げれば香坂が溜息を吐いた。
昼下がりの教室は、昼食を終えた生徒達が各々輪を作り談笑し、穏やかであった。廊下からはヤマケン等、恐らく野球部連中が騒ぎ立てる声がしている。その声量に掻き消されないよく通る声で、驟雨がその名を繰り返した。
「鷲宮蜜柑。知らねーの? 超有名じゃん」
「知らない」
即答すれば、驟雨が瞠目する。傍でやりとりを見ていた林檎が独り言のようにぽつりと「流石、霖雨」と呟いたのが確かに聞こえた。
すると、驟雨がポケットから携帯を取り出して忙しなく操作を始めた。
「これだよ、これ」
向けられた携帯のディスプレイには柑橘類ではなく、黄色い太陽の下に白い肌を晒すビキニ姿の少女が映っていた。くっきりした二重瞼と柔らかそうな唇が印象的だった。茶色に染髪された長髪が緩やかに波を打ち、可愛らしい容姿に見合わずその微笑みは何処か大人びている。
これまでの彼等のやりとりを思い出し、彼女はアイドルか何かなのだろうと推測できた、
「グラビア?」
「まあ、似たようなもん。可愛いよな」
「まあまあだよ」
問い掛けると驟雨、香坂が答える。
曖昧に相槌を打っていると、それまで黙っていた林檎が会話を遮るように、興奮しているらしく大きな声を出した。
「蜜柑ちゃんはねぇ、この学校の子なんだよ!」
その大声に傍で輪を作っていた女子生徒が何事かと振り向いたが、気付かないふりをした。
世間の情報に疎いと自覚はしているけれど、知ったところで如何するつもりもないのだ。それ以上に会話を広げる手段を持たなかったので黙っていると、驟雨が口角を吊り上げて悪戯っぽく笑った。
「こいつ、性格悪そうだよな?」
何の根拠も無いイメージだろうが、驟雨がそう言って笑う。気分を害したように林檎が頬を膨らませて反論する傍らで、批評家のように頻りに頷きながら香坂が言った。
「驟雨が言うなら、そうかもな。女癖の悪さはこの学校一だから」
「そうなの?」
訊き返すと、余計なことを言うなと驟雨が香坂を蹴り上げる。
ストイックなイメージのある驟雨には意外な話だと、林檎を見れば目が合った。確かに驟雨は眉目秀麗と呼べばれるべき容姿で、其処等のモデルやアイドルさえ色褪せて見える。女の子が放っておかないのも当然と思うけれど、その眼光の鋭さや、素っ気無い態度、荒っぽい口調が如何してもその美少年という称号を遠ざける。目付きの悪い不良生徒が関の山だ。
香坂が喉を鳴らしておかしそうに笑いながら、驟雨の蹴りを紙一重で交わしていく。香坂が言った。
「中学の頃からよォ、女とっかえひっかえ遊んでは捨ててたじゃねぇか。碌な噂無ェのに、昼休みになると決まって顔真っ赤にした女が驟雨を呼びに来てよォ」
吹聴するように香坂が声を張り上げる。周囲の目が集まり、高らかに言い触らす香坂を驟雨が必死に追い掛けていた。
二人は中学以前の仲だと言う。幼い頃から共に過ごした香坂を、驟雨は腐れ縁だと言うけれど、その横顔は何処か照れたように誇らしげだった。
そんな彼等を、――と思った。
二人を眺めていると、香坂の話を再現するかのように、教室の扉の前に人影が映った。短いスカートと細く長い脚。太陽を背にした少女の顔は窺えない。だが、扉の傍にいた生徒達がその人物を目視し、ざわめく。
吹き抜ける風に、パーマの掛かった長い髪が揺れた。驟雨に首をホールドされながら、気付いた香坂が声を荒げて人影を指差す。
「あ、あ、あれ!」
「ああ?」
不機嫌そうに唸りながら、扉に目を遣った驟雨が動きを止める。その眼は一点を穴が開く程に見詰めていた。
静まり返った教室に、鈴を転がしたような声が響く。
「――君、いる?」
人を探している。傍の生徒が口を開いたまま何度も頷く。少女の小さく膨らんだ唇が弧を描いた。
まるで、先程の香坂の話を再現しているようだ。少女は真っ直ぐに驟雨の元へと足を進め――通り過ぎた。
「えっ?」
予想だにしなかった少女の動きに、喉の奥から自分のものとは思えない声が出た。
光を背に歩を進める少女の顔が見えない。傍の林檎が瞬きを忘れたように動かない。
「あなたが、常盤霖雨君ね」
綺麗な声だと思った。頷けば少女が首を傾げる。
「私の顔に、何か付いてる?」
「――いや」
顔などはっきりと見えないのだ。
「綺麗な声だと思って」
面食らったように少女が肩を竦める。「そうかな」と窓の外の蒼穹に目を向ける。照れているのだろうかと、太陽光を浴びるその横顔を何処かで見たことがあると思った。
二重瞼の大きな瞳、柔らかそうな唇、透き通るような白い肌。――唐突に、思い出した。
「鷲宮、蜜柑?」
その名を口にすれば、蜜柑は眉を潜めた。
「今頃気付いたのか」と呆れるような心の声が聞こえて来そうだった。
蜜柑はじっと此方の顔を見詰め、満足そうに微笑んだ。
「うん、噂通りね。合格!」
「何が?」
「――ねえ、霖雨君」
作り物のようだと思った。整った顔に浮かんだ笑みは人形のそれに似ている。
蜜柑は、言葉遊びを楽しむかのような口ぶりで言った。
「私と付き合って」
咄嗟に、何処に、と言い放ちそうになった。言葉を発することが出来ずに固まる。それ程に、少女の言葉は理解不能に衝撃的だったのだ。答えられないでいるにも関わらず、此方の答えなど端から求めていないかのように蜜柑は続ける。
「早速、放課後デートしよう? 空いてる?」
「あ、いや、今日はちょっと」
バイトが。
そう答えようとすれば、何時の間にやら傍に駆け付けていた香坂に後頭部を叩かれる。即座に驟雨が襟首を掴んで声を潜めて言った。
「馬鹿! バイトなんざ休め!」
「あの鷲宮蜜柑だぞ!」
でも、今月は生活費がギリギリなのだ。奨学生としては学業も疎かに出来ないのに、学校をさぼった数日のせいで授業にも後れを取ってしまっている。バイトをしないのなら家に帰って勉強したい。明日提出のプリントは白紙だ。
俺は忙しい。そう言いたかったのに、如何してか香坂と驟雨が自分に代わって返事をしている。放課後は空いてるから大丈夫だなんて、馬鹿野郎。
やりとりに疑問を持っただろう筈の蜜柑は小首を傾げたものの、口元に笑顔を浮かべたままだった。
「良かった。じゃあ、放課後、迎えに行くね」
ばいばい、と手を振って去っていくその後ろ姿さえ可憐だと思った。見せパンを穿いているから平気だと大股で走り回る林檎とは豪い違いだと横に目を遣ればじろりと睨まれた。
嵐が去った後の静けさの中、香坂が声を荒げて言った。
「おいおい、霖雨! どういうことだよ!」
「それは俺の台詞だろ! どういう気だよ!」
容易くバイトを休めだなんて言うな。そう文句を言ってやりたかったけれど、横から驟雨が言った。
「いやあ、流石に有名人は目が肥えてるねェ」
「はあ?」
「霖雨に目を付けるとは、流石としか言えないだろ!」
自分のことのように誇らしげな驟雨の言葉の意味が解らず、眉を寄せる。
「何がよ」と不機嫌そうに林檎が言えば驟雨もまた、平然と言い返す。
「だってこいつは、美形だろ」
此方を指差して驟雨が言った。
「それも、そんじょそこらの美形とは訳が違うぜ。かっこいいとか、イケメンとか、そんなレベルじゃねェ」
驟雨の言葉を聞いて、林檎は押し黙る。
「もてないのが信じられねぇぜ。そもそも居酒屋なんざでバイトしてねぇで、何処かの事務所に入ってモデルでもすりゃいいんだ。霖雨なら引く手数多だろ。勿体無ぇ、宝の持ち腐れだ」
一息に言い切った驟雨が平然としているので、照れることもできず他人事のように聞き流してしまう。
不満げだが林檎が反論できずにいると、驟雨のポケットから電子音が鳴った。此方もお構いなしに通話を始める驟雨の口調は荒っぽく、素っ気無い。
「今、取り込んでんだ。電話して来んじゃねぇよ」
通話の相手が誰であったとしても随分と無礼な物言いだな、と苦笑すれば香坂が「彼女だ」と耳打ちした。
驟雨に彼女がいたことにも驚きだが、彼女に対してはもっと丁寧に接するものではないのだろうかと思った。
苛立ったようにだんだんと驟雨の口調がきつくなる。親しい間柄だとしても厳しいだろう。聞くつもりなど無いのに、周囲の眼も憚らず大声で話すものだから皆に聞こえてしまう。
「うるせーよ! てめぇに関係無ェだろ!」
喧嘩しているのだろうか。通話の相手も驟雨に負けず大声で此方にもその声が届く。
「はあ? こちとら、てめぇみてぇな阿婆擦れ御断りだ。二度とその汚ェ面見せんじゃねぇぞ! 豚野郎!」
そう言って乱暴に携帯を閉じた驟雨の眼は鋭い。彼女の存在すら数分前に知ったばかりだけど、このやり取りだけで二人に何が起こったのか十分に解る。訊くまいと目を伏せるが、香坂は何処吹く風で尋ねた。
「何、お前、別れたの?」
「余計なお世話だ。あんなブスこっちから願い下げだよ」
不機嫌さを隠そうともしないで驟雨が鼻を鳴らす。
居た堪れなくて、冗談ぽく茶化すように言った。
「彼女だったんだろ? お前、すげぇ怖い彼氏だな」
「遊びみてぇなもんだよ。ったく、女は面倒臭ェよな」
そう驟雨は文句を言うけれど、面倒だというその女を先程自分に押し付けたのは他ならぬ驟雨自身だ。それもつい先刻、性格悪そうだと評価した少女ではないか。
また、面倒事だ。溜息を吐くと丁度チャイムが鳴った。
じゃあまたな、と教室を出て行く驟雨の後を追い、香坂もまた去る。本当に嵐のような二人だ。入れ違いに入って来た教師が二人に何か言っているが、聞く耳持たず通り過ぎて行った。
授業が始まる。教科書を準備しようと机の中に手を入れると、林檎がじっと見詰めていた。
「ねえ、本気なの?」
「何が?」
「鷲宮さんと、付き合うって」
そんなこと、此方が訊きたい。
その言葉を呑み込んで首を捻った。
「さあね」
「何それ。自分のことでしょ。はっきりしないとあの子が可哀想」
「……林檎、怒ってんの?」
不機嫌さを隠そうともしない、上から抑え付けるような彼女らしくない言い方に疑問を感じた。だが、そう訊けば途端に林檎は怒りを露わにした形相で叫んだ。
「怒ってない!」
反射的に机を叩いた音が授業前の静かな教室に反響する。クラスメイトが一斉に目を向けるが、林檎はそのまま背を向けて行ってしまった。
怒ってるじゃん。
仲の良い女子生徒すら話し掛けることを躊躇するその怒りの形相に呆れてしまう。
女は面倒臭ェよな。驟雨の声が聞こえたような気がした。
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