|
15.轍鮒の急
光の無い闇の中で、荒い息遣いが反響する。足元に溜まった落ち葉が、此処が風の吹き溜まりなのだと告げていた。
人々から逃れるように駆け込んだ廃ビルの奥で、雨から逃れる濡れ鼠のように身を寄せ合う。額に浮かぶ汗の滴を乱暴に袖で拭い去り、大きく溜息を吐いた。
一体、何から逃げればいいのだ。不特定多数の鷲宮蜜柑を知る人間が狂気のままに追い掛けて来る。捕まったところで如何なるとも解らないけれど、無事では済むまい。考えるだけでぞっとする。
膝を抱えて蹲る隣の少女を見遣る。鷲宮蜜柑。世間を賑わす話題のアイドル。自分が世間に疎いからだけではないだろう。本当に、ただの少女にしか見えないのだ。美しい容姿も、抜群のスタイルも、今は何も目に付かない。恐怖に震える小さな少女なのだ。
蜜柑は顔を伏せたまま、声を震わせ言った。
「何で、こんなことになっちゃうの……？」
そんなの、此方が訊きたい。思いながらも発することはしなかった。勿論、時の扉の影響だなんて非現実的な言葉も。
頼みの綱である携帯を取り出すと、予想通り驟雨からの着信が数件。このまめさを彼女にも見せてやればいいのにと思い苦笑する。
掛け直そうとする隣で、蜜柑が言った。
「何時だって、誰も助けてくれない。何も知らない癖に、私のことを勝手に決めて押し付ける……！」
絞り出すような声だった。そして、それこそがこの少女の本当の姿なのだと解った。
笑顔を貼り付けて、誰にでも愛されるように振る舞う。弱音も不平も口にせず、ただ只管に前を向いて進もうとする。純粋で、可愛らしくて、どんな仕事も卒なく熟し、同情や憐みを遠ざけ背筋を伸ばす。頑なに守り続けた鷲宮蜜柑のイメージ。彼女自身が築き上げて来たものだ。
「誰も解ってくれない……！」
「――でも、それは」
泣き出しそうな彼女に、こんなことを言うのは酷なのかも知れない。こんなとき、驟雨なら如何するのだろう。春馬なら、如何するだろう。優しく抱き締めて、慰めるのだろうか。解るよ、俺がいるよ、大丈夫だよ。そう、言って。
でも、俺は。
「それは、あんたがそうして来たからだろう」
伏せていた顔を上げた蜜柑の眼には、今にも零れ落ちてしまいそうな涙が光っていた。
「笑顔の仮面を被って、身を守る為に鎧を身に着けて、人を遠ざける為に棘で威嚇する。全部、あんたのして来たことだろう」
「なら、私に如何しろって言うの！ 他に、如何生きろって言うのよ……！」
「俺はあんたの辛さが解らない。でも、解ってやりたいと思う」
「そんな、きれいごと」
何を言えば伝わるだろう。独り凍えるこの少女を、如何したら救えるのだろう。
と、その時。掌の中で携帯が震えた。静かだった空間に響く羽虫のようなその音に、蜜柑が過剰に反応して肩を撥ねさせた。
「――もしもし」
『よう、やっと繋がったな』
此方の状況など何も知らないだろう驟雨の常と変わらぬ穏やかな口調に安心する。だが、驟雨は言った。
『何か、大変なことになってるな。これも、時の扉？』
「大変なことって？」
『今、町中の人間が鷲宮蜜柑を血眼になって探してるよ。しかも、テレビじゃ緊急生放送で鷲宮蜜柑が自ら過去を暴露するとか言ってるけど』
訳の解らない状況に眩暈がする。一体、如何なっているのだ。
だが、此方の反応が想像出来たのか驟雨が笑った。
『今、何処にいるんだ？』
「駅前の大通りにある廃ビルの地下だ」
『へえ、奇遇だな』
そうして驟雨が笑って。
「丁度、今着いたところだ」
携帯の音声と、傍で反響する声が重なった。階段の踊り場で、携帯の光に横顔を照らされながら立つ黒い影。蜜柑が怯えたように身を寄せたが、その声と気配が驟雨だと伝えてくれる。いる筈の無い男の突然の登場はまるで、ピンチに駆け付けるヒーローのようだ。
すごい男だな、と感心してしまう。ゆっくりと階段を下りる驟雨は笑っていた。
「如何して此処が？」
「金色の光が見えた。てっきり春馬の仕業と思ってたが……」
あながち間違いではないのかも知れないな、と驟雨は自己完結しながら携帯を閉じる。
「兎に角、脱出しようぜ。まるでバイオハザードだな」
「バイオハザード？」
「ゲームだよ。行くぞ」
説明するのも面倒だというように驟雨は霖雨に手を差し伸べる。こういう時、普通は少女に手を差し伸べるべきだろう。そういうところが、女誑しと呼ばれることに疑問を感じさせるのだ。手を借りて立ち上がった後、蜜柑に手を差し伸べる。だが、蜜柑は蹲ったままだった。
「如何した？」
「……怖いよ。また、逃げ回るの？」
「さあな。だが、此処にいても何も変わりはしない」
「なら、外に出たら何か変わるの？」
「出てみりゃ解ることだろ。答えを俺に求めんな、お前が自分で考えろ」
突き放すように言って、驟雨は背中を向けた。少なくとも、驟雨が女の子に優しくするところなど一度も見たことが無い。早足に階段を上って行く驟雨を追う為に足を踏み出そうとするが、その前に蹲ったままの蜜柑の手を取った。
「行くぞ、蜜柑」
「霖雨君」
「俺を信じろ。絶対に守ってやるから」
な、と笑えば蜜柑が困ったように笑った。それは一種の呆れにも似ている。階段の踊り場で驟雨が面白く無さそうに眺めていたので苦笑した。
廃ビルの入り口は自動ドアだが既に封鎖されている。裏口に回って質素な鉄製扉を押し開ける。と、途端に眩し過ぎる光が目を焼いた。
光を掌で遮りながら驟雨が身構え、此方を庇うように進み出る。だが、蜜柑が言った。
「――ママ」
車のフロントライトの中に女性が立っている。ばっちりスーツで決めた眼鏡の女性。長髪を頭頂部で纏めた、いかにもインテリという印象だ。ヒールを響かせながら蜜柑に駆け寄り、声を荒げて言った。
「蜜柑、探したのよ！」
「ママ……」
「今すぐ、テレビ局に行くわよ。生中継なんだから、気合入れてよ！」
乱暴に蜜柑の手を引いて車へと進んでいく女性。蜜柑の口ぶりから女性が蜜柑の母親であることは解ったが。
後部座席に押し込まれながら、蜜柑が此方を振り返る。咄嗟に駆け寄ろうとするが、蜜柑はすぐに目を背けてしまった。車は此方にお構いなく発進される。排気ガスに噎せ返りながら呆気に取られていると、驟雨が言った。
「やばいんじゃねぇの？」
「え？」
「緊急生放送。鷲宮蜜柑が自ら過去を暴露するって言ってたぜ。お前、何も聞いてないのか？」
「過去……？」
すると、驟雨が神妙な顔付きで言った。
「嫌な予感がするぜ。追い掛けよう」
「ああ」
驟雨は傍に止めていた愛車、HONDAのMAGNAを押しながら車道に進み出る。つい先刻までの騒ぎは落ち着いたようだが、やはり人々は蜜柑を探して徘徊していた。
バイクの後ろに跨ると、驟雨はエンジンを吹かした。いつものヘルメットを被ると、驟雨が言った。
「しっかり掴まってろ！」
叫ぶと同時に、バイクは弾丸のように飛び出した。強い引力で後方に体が持って行かれそうになり、必死に驟雨にしがみ付く。法定速度は既にオーバーしているだろう。車体をギリギリまで倒してカーブを曲がると、後方からパトカーのサイレンが聞こえた。
『そこのバイク、止まりなさい』
拡大された声が夜の町に響くが、驟雨は止まるどころか速度を上げた。
逃げ切る気だ。途端に進行方向を変え、細い路地裏に滑り込む。聞こえていたサイレンが段々と遠ざかって行く。驟雨は無言だった。
あっという間に到着したテレビ局は、昼夜関係無く明るく営業するコンビニのようだと思った。入口を守るがたいのいい警備員の目を如何したら潜れるのだろう。思案していると乱暴にヘルメットをハンドルに立てかけ、驟雨が言った。
「強行突破だな」
「本気か？」
「無茶だが、時間が無いからな。やるしかねぇ」
ハンドルに置いたヘルメットを抱え、驟雨が笑う。
「生中継をぶっ壊すのが、俺達の目的だろ。騒ぎになるなら大きい方がいい」
「……驟雨、お前を巻き込めない」
「は、今更」
鼻を鳴らし驟雨が言う。
「ヤマケンの時、お前が一言も相談してくれなかったこと、俺は今も根に持ってるんだぜ」
「それは」
「いいんだ。俺も、影辻の時、お前に何の相談もしなかったからお互い様だ。でも、そういうのはもう無しにしようぜ？」
何時になく、今にも泣き出しそうな程に必死な声で驟雨が訴える。その意味は。
「俺はお前を信じる。だから、お前も俺を信じろ。これから先、何が起こっても俺はずっとお前の味方だ」
如何して驟雨が此処まで言うのか、その意味が解らない。解らないけれど。
「驟雨」
「何だ？」
「力を貸してくれ……。蜜柑を助けたいんだ」
くつりと驟雨が笑った。ゆっくりとヘルメットを被りながら、くぐもった声ではっきりと言った。
「当たり前だろ」
午後六時五十分。緊急生放送まで残り十分。
|
