16.一輪咲いても花は花






 今日も今日とて変わらず終わる筈だっただろう。
 迫る終業時間に大きな欠伸。警備員への小さな労りと同情を胸に、地下駐車場へと続く道をカモシカのように飛び越えた。突然現れたフルフェイスのヘルメット男が二人。一人は警備員を薙ぎ倒して行った。


「なっ――!」


 悲鳴にも似た驚愕の声は自動車のタイヤに吸い込まれる。
 覆面、正体不明のまま薄暗い地下駐車場を駆け抜けた。背後に警備員が追う足音が聞こえ、地下空間に反響しては消えていく。


「こっちだ!」


 突然、非常階段へ手を引いた驟雨がそのままに扉を閉ざす。激しく扉を叩く音を無視し、驟雨の後を追って階段を駆け上った。
 生放送開始まで時間が無い。スタジオが何処なのかも解らないのに、八方塞だと絶望にも似た思いで顔を上げる。黒いシールド越しに見える2Fの文字。一体、何処に行けばいいんだ。
 そうして唇を噛んだ時、それまで見えなかった金色の光が足元からふわりと浮かび上がった。時の扉だ。それはつまり。


(――春馬)


 姿は見えないが、春馬が助けてくれている。道案内をするように浮かび上がる金色の光。ついて来い、とでも言いたげに目の前を浮遊し離れた。驟雨にも見えたのだろう。行くぞ、と走り出した。
 緊急生放送。鷲宮蜜柑が自ら過去を暴露。まともな企画とは思えない。一体何が起こっているのだろう。
 金色の光は此方を気遣うように速度を緩めながら四階で止まった。ゆっくりと非常階段を出て行く。
 目立つと思われるヘルメットを脱いで脇に抱えるが、一般人がこんなところにいれば警備員に摘み出されるのも時間の問題だろう。昼間のような明るさを保つ廊下に人は無い。蛍光灯の眩しさに目を細めていると、驟雨が呼んだ。


「霖雨、見ろ」


 談話室だろうか。無数の箱型のソファが並ぶ先に大きなテレビがある。最新鋭の薄型だ。
 画面の左上に生放送の文字が誇張され浮かんでいる。時刻は七時三分。アナウンサーらしき男性が神妙な顔付で何か話しているが聞き取れない。ただ一つ解るのは、間も無く蜜柑が自らの過去を暴露するのだ。
 間に合わなかった。頬を伝う汗を拭うことすら忘れて立ち尽くす。胸の中にじわじわと広がる絶望。だが。


「急ごうぜ」


 まだ間に合う。言外にそう言って驟雨は走り出す。
 放送は始まっている。それでも驟雨は諦めない。如何してだろう。驟雨には何にも関係無いのに、如何して。
 動かない足に驟雨が振り返る。


「約束したんだろ。絶対に、守ってやるって」
「――うん」
「俺も約束したんだ。何があってもお前の味方だって」


 驟雨が笑った。その時、静かだった廊下にタレントらしき女性がマネージャーを携えて現れる。
 まずいな、と道を引き返そうとしたとき、金色の光がテレビを指し示した。


『鷲宮蜜柑は七歳の頃、子役としてデビューし……』


 ドキュメンタリーのようなVTRで、名前の知らない子役が蜜柑の過去を演じ出す。本人が自ら暴露というのだから、蜜柑が出て来るものと思っていたがそうではなかったらしい。
 まるで、春馬が見ろと告げているようで画面に釘付けになる。


『天才と称されながら、周囲からの期待を背負い、嫉妬を受けて育った。故に学校では陰湿なイジメに遭い――』


 よく聞く話だと思った。こんなことは世界に有り触れた悲劇の一つでしかない。けれど、本人にとっては堪え難い現実なのだ。


『それでもめげずに、中学三年で週刊誌のグラビアでグランプリを獲得。彼女の人生は此処から順風満帆の筈だった。だが、彼女はファンによるレイプの被害に遭う』


 淡々と告げるそのナレーションに耳を疑う。通り掛かった女性タレントがマネージャーに何か耳打ちをしていた。


『その汚点から今後の活動に支障が出ると予期した彼女は、売れる為にあらゆる手段を講じる。それは、枕営業……』
「何だ、これ」


 その音声を遮るつもりで発した声は震えていた。
 何だこれは。蜜柑の気持ちを微塵も考えないで、まるで彼女を責めるような口ぶりじゃないか。画面に見入っていた驟雨は何も答えない。耳の奥に、蜜柑の声が蘇る。


――何時だって、誰も助けてくれない。何も知らない癖に、私のことを勝手に決めて押し付ける……!


 絞り出すような掠れた声で訴えた蜜柑。


――誰も解ってくれない……!


 あれは、血を吐くような助けを求める声だったんだ。
 俺はあの子になんてことを言ってしまったんだろう。お前が悪いと、お前のせいだと。あの子の何も知らないのに、助けたいだなんて如何して言えただろう。
 辛かっただろう、苦しかっただろう。例えこれが捻じ曲げられた過去だとしても、彼女は傷付いた。
 世界に有り触れた悲劇だから仕方が無いだなんて、口が裂けても言えない。その人の痛みはその人だけのもので、共感したいだなんて傲慢だ。それでも、俺はあの子の辛さを解ってやれなかった。あんなに近くにいたのに。


「お前はこれを信じるか?」


 驟雨が言った。表情は無かった。


「さあ。でも、俺は今すぐ蜜柑のところに行かなきゃならない」


 案内してくれ、と願えば金色の光が浮かび上がる。
 こんな放送をされて、彼女は今何を思うのだろう。傍に誰かがいてくれているだろうか。動き出した金色の光を追って走り出すと驟雨が笑って後を追った。
 局内は静かだった。光に案内された先のスタジオの扉の前には大勢の人間が押し寄せている。ただ事ではない何かが起こっているのは間違いない。
 隣で驟雨が、強行突破するか、と真顔で言った。そんなこと出来る筈が無い。だが、その瞬間。
 大きな音を立てて扉が開いた。そして、弾丸のように何者かが飛び出した。ざわめく人込みを一瞬で擦り抜けて廊下を駆け抜けていく後ろ姿。見間違う筈が無い。


「蜜柑!」


 廊下の角に消えていく背中を追い掛ける。見失う訳にはいかない。
 どよめく野次馬を押し退けるが、背後で無数の足音が追う。蜜柑の行方は解らない。だが、彼女に行き場があるとも思えなかった。相手の気持ちを考えないあんな放送をされて、この先彼女にどうやって生きろというのだ。
 そう、彼女は生きられるのだろうか。


(急げ、霖雨!)


 春馬の声がした。自然と足は屋上へと向かっている。言われなくたって解ってる。屋上へ続く階段を二段飛ばしに駆け上がるが、後ろから怒号と共に大勢の足音が響く。追い付かれる。


「霖雨」


 驟雨が呼んだ。


「此処は俺に任せな。鷲宮蜜柑を頼むぜ」


 抱えていたヘルメットを被り、驟雨が背を向けた。扉を前にした踊り場で、迫り来る大勢の警備員や関係者を迎え撃つ。
 俺はお前の味方だ。背中を向ける驟雨がそう言っているようだ。


「頼んだ!」


 背を向けた直後、驟雨は足を踏み出した。階段を駆け上る集団に飛び掛かると悲鳴にも似た声が階段に反響する。驟雨の通り名を思い出す。血の霧雨。相手に同情しつつ、屋上への扉を押し開けると冷たい風が吹き抜けた。
 星の無い明るい空。地上の夜景はまるで満天の星空だ。この灯りの数だけ人がいて、生活している。銀色の欄干に取り囲まれた殺風景の屋上に、強風に掻き消されそうな影が一つ。


「――蜜柑!」


 欄干の向こうで、蜜柑の長い髪が揺れた。振り向こうともしない蜜柑に声は届いているのだろうか。
 下手に刺激する訳にはいかない。じりじりと距離を詰めていくと、振り返らない蜜柑が言った。


「如何して来たの、霖雨君」
「言っただろ。お前を必ず、守るって」
「もう、遅いよ……」


 向けられた横顔は美しかった。傷一つ無い頬を伝う一筋の滴。
 地上が騒がしい。と、突然目の前にはヘリコプターが浮かび上がった。興奮した女性アナウンサーが何かを叫んでいるが、プロペラに掻き消され何も届かない。
 幾つもの光に照らされる蜜柑はまるで舞台女優だ。こんな時まで、彼女はタレントでなければならないのだろうか。


「もう何もかもお終い。もう、生きていたって意味ない」
「止めろ、蜜柑」
「霖雨君だって、私が悪いって言ったじゃない!」


 返す言葉が無かった。あの時自分が放った言葉は、彼女を深く傷付けた。そして、彼女の心の拠所を失くさせた。
 だけど。


「今更、それを撤回する気は無いよ」


 ヘリコプターからカメラマンが身を乗り出す。地上からのざわめきはきっと野次馬だろう。人の不幸によってたかって喜んでいる愚かな民衆だ。
 蜜柑が少しだけ笑った。それは今にも消えてしまいそうな儚い笑みだ。このまま彼女が消えてしまわないように、と願って言葉を繋ぐ。


「俺も同じだったから」


 今更、俺はあの子に何を伝えてやれるのだろう。如何したらあの子を救えるのだろう。
 闇の中、手探りで彼女に届く一本の道を探す。


「俺はいつも諦めながら生きて来た。傷付くのが怖かったから、裏切られて嫌な思いをするくらいなら、期待なんてしない。そうして身を守って来た。誰の眼にも映らないで済むように、影のように生きて来た。そうすることでしか、生きられなかったから……!」


 何時だっていらない存在だと、周囲の人間は言った。死ねばよかったのに、と白い眼を向けられた。
 生きてなんていたくなかった。でも、死ぬ理由が無かった。


「でも、友達が出来たんだ。どんな時でも諦めない大切な友達が。そいつがさ、当たり前のように言うんだ。他の誰でも無いお前が大切なんだって、お前が必要なんだって」


 その友達は、今も何も関係無いのに大勢の人間と戦ってくれている。得るものなど無いだろう。それでも、必死に。
 この言葉が彼女に届けばいい。


「俺は俺でいていいんだ。ありのままを当たり前に受け入れてくれる居場所が、俺にはある」
「……でも、私には無い。もう、何処にも居場所なんて無いよ」
「あるよ」


 一歩一歩、蜜柑に近付く。この声が、この手が届くように。


「俺がお前の居場所だ。付き合ってくれって言ったのはお前だろ。付き合うよ、何処までも」


 ぽつりと、大きな瞳から涙が零れ落ちた。欄干の向こうにいる蜜柑まであと少し。
 此方を振り返り、蜜柑が笑った。


「じゃあ、一緒に死んでって言ったら、死んでくれるの?」
「いいよ。――お前が心から、本当にそれを望むのなら」


 欄干に触れる手まで、あと少し。――届いた。
 だが、届いたと同時に蜜柑が笑った。逆に掌を掴まれて欄干の向こうに引き摺り込まれる。夜景が揺れた。吹き抜ける風が体を地上へと誘う。――落ちる。
 それと同時に、扉を蹴破るような大きな音がした。


「止めろおお!」


 一直線に駆け抜けるのは驟雨だ。その名の如く、通り雨のような激しさで夜風を切り裂いて行く。
 ヘルメットは何時の間にか取れてしまったのだろう。既に素顔を晒しながら驟雨の声は酷く焦っていた。滑り込むように欄干の隙間から伸びた手が腕を掴む。風に揺られ、勢いよく壁に叩き付けられ視界が一瞬フラッシュする。
 宙ぶらりんのままスポットライトが当てられる。
 落ちれば即死だろう。非現実的な状況に足元が揺れる。驟雨が支えるのとは反対の手で、蜜柑の手を握っていた。彼女の顔は見えないけれど、驟雨は口元に笑みを浮かべながら言った。


「悪いな。そいつの未来は予約済みなんだ。こんなところで、死なせてやれねェ」


 軽口を叩くように驟雨が笑う。
 驟雨は絶対にこの手を離さない。なら、俺もこの手を放す訳にはいかない。


「霖雨、もうちっと踏ん張れ。絶対に助けてやるから」


 驟雨が言った。その時、金色の光がふわりと浮かび上がる。
 いいとこどりだな、と悪態吐きながらも驟雨は何処か安堵していた。開かれた時の扉が屋上を包み込む。


「この空間における重力の干渉を遮断した。今の内に引き上げろ」


 霖雨のものとは異なる声がして、驟雨は「命令すんなよ」と言いながら重さを失った二人を持ち上げる。
 人形を持ち上げるかのように、片手で二人を欄干の内側に引き上げ、驟雨は少し驚いた。大きく溜息を零す霖雨の瞳は漆黒だ。それはつまり、此処にいるのは春馬ではなく霖雨ということだ。
 肩で息をしながら、蜜柑を見た。


「笑顔の仮面も、身を守る鎧も、人を遠ざける棘も必要無いんだよ」
「お前が本当に必要だったのは、心に差した折れることのない一本の槍だ」


 驟雨が代弁するように言った。この言葉が彼女に届けばいい。肩を震わせて涙を零す蜜柑を救ってやりたい。縋り付くことすら出来ない少女に代わってその肩を抱けば、堰を切ったように涙が溢れ出した。
 泣けばいいと思う。弱音一つ吐かないこの子のが、自分らしくいられる場所であれたらと思う。


「一緒に死んでやってもいいって言ったのは本当。でも、俺は一緒に生きていきたいよ。もっと色んなところに行こう。もっと沢山話をしよう。もっといっぱい笑おう。俺は此処にいるから」


 幼子のように泣きじゃくる少女を胸に埋めて、その背を抱く。この涙は何時から抱えて来たものなのだろう。
 再び扉が開いた。現れたのはあの時、蜜柑を連れ去った女性。母親だった。


「蜜柑! 生放送中だって言うのに、何をしてるの! せっかくのチャンスが……!」


 詰め寄ろうとする女の進路を遮るように、驟雨が立ち塞ぐ。その眼は真剣で、触れるものを皆傷付ける刃のようだ。
 近付くな。目の前の全てを拒絶する冷たい目で驟雨は訴えている。
 あの生放送は、間違いなく蜜柑の意志を無視したものだ。彼女が傷付くことが解らなかった筈が無い。彼女が傷付くことも承知の上で、誰もが私利私欲の為に彼女を生贄に祭り上げたのだ。――血の繋がった母親でさえ。


「好い加減にしろ……!」


 驟雨の中に沸々と静かな怒りが見える。煮え滾るマグマのようなその怒りの矛先は母親だ。殆ど反射的にその胸倉を掴んで驟雨は言った。


「子どもは、親の道具じゃねぇんだよ……!」


 上空を飛ぶヘリコプターから何か声が聞こえる。その振り絞るような驟雨の叫びに母親が慄いたように後ずさる。今にも逃げ出しそうな母親に、蜜柑がゆっくりと立ち上がった。
 無理をする必要は無い。そう言おうとして、振り返った蜜柑の笑顔に阻まれた。


「行くんだ。ケリを付けに行く」


 はっきりとそう言った蜜柑は、それまでの蜜柑とは何かが違う。そんな気がして、その背を押した。


「……ああ、行って来い。でも、必ず帰って来いよ」
「うん」


 頷いて、蜜柑が振り返る。晴れやかな笑顔だった。
 蜜柑が去った屋上にはスポットライトもカメラも無い。静寂を取り戻した吹き晒しの中、乱れた制服を整えながら驟雨が素っ気無く「帰ろうぜ」と言った。
 局内は酷く騒がしかった。それも当然だろうと思いながら、悠々正面玄関から出て行く。何処からか拾って来たヘルメットを抱えて驟雨が言った。


「――なんて、言うなよ」
「え?」
「死んでもいいなんて、言うな」


 泣き出しそうな声だった。


「お前が思う以上に、俺はお前のことが大切なんだから」


 そうしてバイクに跨り、乱暴に「乗れ」と促す。返す言葉が見当たらず曖昧に苦笑すると驟雨が唐突に言った。


「そういえば、あの時。春馬の声がしたんだけどな」
「うん、春馬が助けてくれたんだ。あの一瞬だけ」


 やはり、と思いつつエンジンを吹かす。バイクは夜の町へ飛び出して行った。
 後日、あの生放送にはクレームが殺到したらしいが、真実は不明ということだった。蜜柑は今日も変わらず女子高生とアイドルという二足の草鞋で忙しそうにしている。そして、屋上でのあの模様は彼女が今度出演する映画の宣伝という形で片付けられた。
 全て丸く収まったのだ。平和な日常を噛み締めながら、昼食の惣菜パンを頬張る。屋上には当分近付きたくないのだが、恒例となったランチタイムを過ごしていると正面から影が落ちた。
 太陽を背中に立つ少女を見間違う筈が無い。


「――霖雨君」


 鈴を転がしたような綺麗な声だ。


「先日はどうもありがとう。驟雨君にも、宜しく伝えておいて」


 職員室に呼び出された驟雨はこの場にいない。解った、と返事をすると蜜柑が微笑んだ。


「ねえ、覚えてる?」
「何を?」
「付き合ってくれるって言ったこと」


 蜜柑の言葉に反応して林檎が此方を睨む。如何してか、あの一件は林檎にとっての地雷だ。平和に過ごしたいと思う分、なるべく触れたくないのだけど。


「そういう意味じゃないよ」
「うん、知ってる。だからね」


 短いスカートを翻して、蜜柑が微笑んだ。


「絶対、振り向かせてみせるから。私無しじゃ生きていけないくらいに。覚悟しといて」


 挑発的に指を突き付けて蜜柑が笑う。晴れやかなその笑顔に釣られて笑う。


「ああ、楽しみにしてるよ」


 隣で林檎が何か怒っているけれど、触らぬ神に祟りなしだ。
 屋上を後にする蜜柑が丁度戻って来た驟雨と擦れ違う。だが、互いに目を合わせることすらしなかった。驟雨は蜜柑など眼中に無いように此方を見て手を振る。


「マジ面倒臭ェ。説教長ぇんだよ」


 担任に説教をされていたらしい驟雨が胡坐を掻きながら、コンビニの袋に入ったパンを取り出す。隣で香坂が笑っていた。
 変わらぬ日常。平和な毎日。

 この時までは、ハッピーエンドを確信していた。





2011.4.26