17.闇夜の灯火






 無数のスポットライトに照らされる夜の屋上は、まるで三流ドラマの一シーンのようだ。ヘリコプターの回転翼が喧しく鳴り響く中、必死の形相のアナウンサーが何か喚いている。カメラのレンズが映すのは最近話題の現役女子高生モデルだ。欄干の外に立つその様は投身自殺に違いない。
 一歩一歩と距離を縮める一人の男子高生。直前に報道された女子高生の暴露VTRが無ければ、ただの痴話喧嘩で片付けられていたのかも知れない。二人のやり取りは何も聞こえない。欄干の外にいた少女が、男子高生の伸ばされた手を掴み、共に飛び降りようとする。だが、突然現れた第三者が手を伸ばす。
 欄干から身を乗り出して男子高生の腕を掴む少年。少女の腕を掴む宙ぶらりんの男子高生。風に揺れる少女。


「……新作映画の宣伝、か」


 テレビを眺めながら、香坂が呟いた。
 驟雨にこの日、何が起こったのかを後になって聞いた。これは映画の宣伝などではなく、霖雨を巻き込んだ少女の無理心中なのだ。荒い画像の中でも、驟雨の切羽詰まった様子がありありと解る。だが、少女を守る為に、彼等は世間に嘘を吐いた。
 暴露VTRも真っ赤な嘘。無理心中も撮影。そうして世間を欺いた。世間の評価は賛否両論だが、これだけ茶の間を騒がせたのだ。映画はヒットするだろう。
 土曜の昼下がり。勝手知ったる他人の家とばかりに、香坂宅の大きな革張りのソファで寝転ぶ驟雨は惰眠を貪っている。昨夜遅くまでテレビゲームに夢中だったせいだろう。
 外は豪雨だった。打ち付ける雨によって窓はモザイクでも掛かったように不明瞭だ。こんな日は家に閉じ籠るに限る。
 突然、電子音が鳴り響いた。驟雨は枕にしていたクッションの下から携帯を取り出すと、寝惚け眼を擦りながらディスプレイを開く。メール受信のようだ。心底面倒臭そうな表情が、一変する。嬉々とした笑顔に何が起こったのかすぐに解った。


「……霖雨か?」
「ああ」
「バイトだろ?」
「いや、今日は病院だって」
「病院?」


 体調でも崩していただろうかと、昨日会ったばかりの霖雨を思い出すがいつもと何ら変わらぬ様子だった筈だ。すると、驟雨が携帯を操作しながら言った。


「あいつ、メンタルクリニック行ってるんだよ。ほら、二重人格とか言われてただろ」


 それは霖雨に付いて回る噂だ。
 常盤霖雨は二重人格。それは霖雨の物忘れが激しく、何の前触れも無く突然別人のように豹変することを不気味に思う周囲の人間が評価したものだ。香坂も噂は聞いたことがあったが、信憑性に欠けるものだと思っていた。
 それを一転させたのが春馬という男の存在だ。霖雨の中に在るもう一人の人格。それは正しく二重人格で、周囲の人間が不気味を思うのも無理はない。
 だが、驟雨はまるで何でもないことのように笑っている。
 霖雨の何が、驟雨をそうさせるのだろう。香坂は常々不思議だった。
 そんな霖雨は今頃、この豪雨の中一人件のメンタルクリニックに向かっているのだろう。何を考えているのか解らない無表情を思い出し、香坂は黙った。
 その頃、霖雨は今まさに柊メンタルクリニックの扉に手を掛けていた。今日も兎なのか猫なのか解らないマスコットが不気味に微笑んで出迎えてくれるが、風雨に晒されるその様は恨めしげだった。
 大きめのビニール傘を持って来たが、ジーンズの足元は既に絞れそうな程にぐっしょりと湿っていた。不自然でない程度に捲り上げ、何時ものスリッパに足を通す。此処に来るのも久しぶりだと思った。
 受付で桐谷はるひが笑顔で待っていた。二週間ぶり程度だが、その笑顔すら懐かしく思う。ここ数日は色々と面倒事に巻き込まれて通院することが出来なかったのだ。だが、一方でもう二度と来ることもないだろうと思っていた。
 自分が所謂、二重人格というものとは異なることは解っていた。春馬の存在は、自らが作り上げたもう一つの人格などと括れはしない。柊医師は良い医者だが、精神医学で何が出来るとも思えない。そうして暫く顔を出さずにいた矢先、病院から連絡が入ったのだ。
 以前、急きょ来て欲しいとの連絡があって向かったものの、林檎からの連絡を受けて飛び出してしまった。あの時、柊医師が何の為に呼び出したのかも解らない。
 桐谷は此方を確認するとすぐに診察室へ案内してくれた。何処からか患者の悲鳴にも似た奇声が聞こえる。白を基調にした院内は何時も変わらない。白い扉をノックすれば、聞き慣れた柊医師の声がした。
 ドアノブに手を掛ける。捻りながら押す。現れた室内には白衣を纏った柊医師が椅子に腰掛けて待っていた。


「今日は」
「今日は、霖雨君」


 促されて椅子に座る。此処に入った瞬間から、何故か浮足立つ。何かがおかしい。時の扉による何かが起ころうとしているのだろうか。


「久しぶりだね。元気にしていたかい?」
「はい。お蔭様で」


 何時もの診察室。何時もの医者。何も変わらない筈なのに、何かが違う。
 他愛の無い世間話を交わし、柊医師が言った。


「調子はどうかな」


 一瞬、悩んだ。春馬のことを言うべきか、否か。きっと、柊医師には理解出来ないだろう。
 答えられず言い淀むと柊医師が笑顔を浮かべたまま、言葉を繋ぐ。


「実は君に紹介したい人がいるんだ」
「俺に?」
「解離性人格障害を専門に研究する医師がいてね。聞いたことないかな、三間坂静寂というんだ」


 聞いたことなどある筈が無い。そう否定の言葉を口にしようとした瞬間、目の前に金色の光が浮かび上がった。


(――春馬!?)


 視界一杯に溢れる金色の光に、春馬の焦りを感じる。こんなことは一度だって無かった。遠ざかって行く意識の中で、緊迫した春馬の叫びが聞こえたような気がした。そして、暗転。
 ゆっくりと瞼を開いた中に、金色の光が宿る。柊医師はその異質な光を持つ瞳に息を呑んだ。春馬は目の前の医者を睨むようにじっと見詰めた。


「……久しぶりだな」
「君、は?」
「お前に名乗る必要も無いだろう」


 春馬がそう言い切った時、音も無く扉が開いた。
 現れた白衣の男。糊の効いた白いシャツに、黒色のネクタイ。ワックスで整えられた髪は漆黒で、細く歪んだ目が笑っていることを知らせている。人の良さそうな笑顔だが、その腹の底は知れない。
 得体の知れない悪寒、恐怖。


「初めまして、常盤霖雨君。紹介の通り、僕の名前は三間坂静寂」


 春馬は立ち上がった。入口に当たる扉にいる三間坂から距離を取るようにじりじりと離れていく。壁にぶつかったと思った先には大きな窓があった。打ち付ける豪雨が耳を侵していく。
 猫のように侵入者を警戒する春馬を怪訝そうに見る三間坂に、柊医師が何か耳打ちする。三間坂が興味深そうに頻りに頷く。


「君は霖雨君じゃないね?」


 質問には答えず、窓の外を確認した。此処は一階。豪雨だが、脱出は可能だ。
 三間坂が言った。


「鷲宮蜜柑が投身自殺を図ったとき、屋上を包んだ金色の光は君の仕業かい?」


 耳を疑った。常人に時の扉が見える筈が無い。
 其処知れぬ恐怖が、悪寒が全身を襲う。咄嗟に机の上に転がったボールペンを引っ掴み、先端を三間坂に向けた。


「近付くな……!」
「落ち着くんだ、霖雨君……」
「霖雨の名を呼ぶな!」


 ボールペンが武器になるとは、春馬も思ってはいない。憤怒、憎悪。時の扉に嘗て自らが封じたものが胸の内に沸々と浮かび上がる。
 此処から脱出しなくてはならない。此処にいてはいけない。背を焼くような焦燥感が思考を鈍らせる。
 三間坂は此方を伺うように、一定の距離を保ちながら落ち着き払った声で言った。


「なら、君の名前を教えてくれないか」
「お前に名乗る名は無い」


 春馬がそう言い放ったと同時に、頭の中に霖雨の声が響いた。自分の名を呼ぶ叫びにも似た声は、必死に何かを訴えている。普段ならすぐに応答しているのだろうけれど、今、そんな余裕は微塵も無かった。


(いいから、てめぇは引っ込んでろ。俺が何に替えてもお前を守ってやるから!)


 有無を言わさぬその口調に霖雨が怯えたのが解った。だけど、それでもいい。
 ボールペンを向けられながら、三間坂は静かに言い放つ。


「桜丘驟雨君は、元気かい?」
「――」


 声が出なかった。如何してこの男が驟雨を知っているのだろう。
 もうこれ以上この男の口から、霖雨の名も、驟雨の名も聞きたくない。俺が守らなければならない。
 傍の窓をゆっくりと開くと、打ち付けるような豪雨がリノリウムを滑って行く。湿気を孕んだカーテンが強風に舞っていた。


「霖雨君!」


 窓の縁に足を掛け、飛び出そうとした背中に柊医師の霖雨を呼ぶ声が掛かる。春馬は最後に振り返って柊医師と、その肩越しにいる三間坂を睨んだ。


「俺は霖雨じゃねぇ。――俺達に関わるな」


 窓の外へと消えていく春馬の背中を、柊医師は呆然を見詰めることしか出来なかった。
 確かに以前、霖雨ではない人格が警告にも似た言葉を言い放ったことがあった。しかし、すぐに主人格である霖雨が現れたというのに、今日の様子は明らかに主導権はあの別人格が握っていた。病院に姿を見せなかった僅かな間に何かが大きく変わっている。
 だが。
 くつくつと喉を鳴らし、顔を伏せる三間坂は笑っている。漸く上げた表には隠し切れない喜びが浮かんでいた。


「――面白い」


 それは新しい玩具を手に入れた子どものような笑顔だ。笑い声を噛み殺しながら、三間坂は興味深そうに春馬の消え去った窓を眺めていた。
 雨の中、病院を飛び出した春馬に行く当てがある筈も無かった。電車の乗り方一つ知らず自宅に帰れる訳も無く、傘を持たぬまま濡れ鼠になって雨宿りの場所を探す。霖雨ならば打開出来るかも知れないこの状況でも、交代する訳にはいかなかった。
 この事態を引き起こしたのは自分だ。負い目もある、責任もある、意地もある。
 心の中に押し込めた霖雨の意識は途絶えてしまった。だけど、それでいい。この寒さも、この苦しさも、この恐怖も霖雨は何も知らなくていい。
 シャッターの下りた煙草屋の小さな屋根の下に逃げ込み、蹲る。雨は衰えることなくアスファルトを打ち付け、跳ね返る飛沫がまるでガラス片のように見えた。靴を履かず駆け抜け靴下はぐっしょりと湿って穴が開いている。
 吹き付ける強風に震えながら、春馬は酷く疲れていた。此処が何処なのかも解らない。誰一人知り合いもいない。助けの手などあり得ない。ぎゅっと拳を握ると、何時か聞いた霖雨の声が脳裏に蘇った。


――弱っちい俺は守られてばかりだったけど……、俺だって救ってやりたいんだよ。目に見えるものを、手の届くものを、全部全部助けてやりたいんだよ


 霖雨は、優しいと思う。人は自分が苦しめば、他人にも味あわせてやりたいと思うものだ。自分が苦しんでいるのに、他人の幸せを願うのは容易いことではない。
 助けが欲しかったのは、救いを求めたのは、お前だっただろう。
 影辻であるナイフを携えた秋水を救おうと危険も顧みず彼女を受け止めたこと、ヤマケンとの勝負の為にぼろぼろの手でバットを握ったこと、鷲宮蜜柑の為に屋上から身を乗り出して手を差し伸べたこと。どれも、お前が求めていた優しさだっただろう。
 霖雨が解らない。何を考えているのか、何を思っているのか、何がしたかったのか、何の為に生きているのか。解らないことが、何よりも恐ろしかった。こんなに近くにいるのに。
 と、その時。
 ぱしゃん、と水が撥ねた。目の前に立つ黒い陰に身を強張らせる。三間坂が追い掛けて来たのだろうか。逃げなくては。
 けれど。


「――よう」


 ビニール傘を携える一人の青年。黒い着流しが風を孕んで揺れている。コンクリートの道とブロック塀に囲まれるその様は余りにも不釣り合いだ。
 仏頂面で此方を見遣る鋭い眼差しだとか、整った女のような面だとか。


「こんなところで何してんだ。お前、ずぶ濡れじゃねぇかよ」


 怪訝そうに眉を潜めて、驟雨が言った。
 こんな場所にいる筈が無い。それでも、何時でもこの男は助けの手を差し伸べてくれる。


「靴は如何した。……春馬?」
「お前、俺だと解るのか」


 霖雨ではなく、春馬だと。驟雨は平然とその名を呼ぶ。
 驟雨は平然と言った。


「お前の眼は金色だからな」
「そうか……」


 自らの目元に触れ、力無い笑いが漏れた。これも時の扉の影響だ。
 驟雨が不思議そうに首を傾げると、ビニール傘から大量の雨水が流れ落ちた。


「行こうぜ」
「……何処に」


 そう言うと、驟雨がくつりと笑った。


「お前等はそっくりだな。霖雨も、同じことを訊いて来たぜ」


 時の扉で霖雨の心の中を覗き込んだあのとき、闇の中で膝を抱える彼に手を差し伸べると同じことを言った。何処にも居場所なんてないのだと、泣いていることすら隠すように顔を伏せていた。
 だが、春馬は口を噤む。自分は霖雨ではない。別の人間だ。そう言おうとして、気付いた。自分は霖雨の中に在る不安定な存在なのだ。
 手を差し伸べる驟雨は、衣服が雨に濡れることも顧みない。今、驟雨が手を差し伸べているのは霖雨だ。自分ではない。


「……俺は霖雨じゃないぜ」
「はあ? 知ってるよ。それが如何した」
「如何したって……」


 返す言葉が見付からず口籠ると、驟雨は苛立ったように膝を抱える腕を取った。


「さっきから、俺はお前に話し掛けてんだよ。此処で蹲ってるのは、春馬、お前だろ」


 如何して、この男は。
 当たり前の顔をして、一番欲しい言葉をくれるのだろう。助けて欲しいときに手を差し伸べてくれて、絶対に前を見失わない。


「さあ、帰ろうぜ」


 一筋の光すらない曇天に、打ち付ける豪雨も強風も気にならないような笑顔で驟雨が言った。寒さに粟立つ肌も、悴む手も何時の間にか消えている。何が変わったのかも解らない。だが、きっと。


(此処に、太陽があるから)


 ゆっくりと、春馬は立ち上がった。
 雨は止まない。だけど、それでも、雨の名を持つこの男がまるで蒼穹に浮かぶ日輪のように思えた。





2011.4.30