18.孔子の倒れ






 体が鉛のように重かった。膝が軋むように痛んで動かすことが出来ない。何かを言葉にしようとして、喉の奥から空気の抜ける奇妙な音がした。
 見慣れた節目だらけの天井と、煎餅布団が自宅だと教えてくれる。でも、如何して此処にいるのか、何が起こったのか全く解らない。窓の外に打ち付ける豪雨は最後の記憶と重なり、今が一体何時なのかも解らない。
 柊メンタルクリニックで、突然、時の扉が開いた。現れた春馬は有無を言わさず入れ替わってしまった。何時に無い焦り方に何度も何度も春馬を呼んだけれど、何の意味も無かった。


――いいから、てめぇは引っ込んでろ。俺が何に替えてもお前を守ってやるから!


 その言葉が、春馬の思い全てを表している。春馬は必死に守ろうとしてくれていた。
 春馬は何時だってそうだ。味方でいてくれる、助けてくれる。守ってくれる。春馬は正しい。だから、俺が間違ってる。
 仕方ないだろう。春馬は俺よりもずっと頭が良くて、ずっと強い。何時だって冷静で、正しい判断が出来る。俺は何時までも餓鬼のまま、何も変わっちゃいない。
 軋むように痛む胸も、熱を持つ目頭も、喉の奥から漏れ出しそうな嗚咽も全部、気のせいだ。少し体調が良くないから、弱気になっているだけなんだ。辛くなんてない、苦しくなんてない、泣きたくなんてない。


(強くなりたい)


 守られるばかりじゃなく、守れるように。春馬や驟雨と肩を並べて歩けるくらい、強く逞しくなりたい。
 白く霞む視界に、天井が遠退いて行く。下降する意識は、二度と浮上することもないのではないかと思わせた。だが、それでもいいとさえ思った。そうすれば、きっと春馬と代われる。俺なんかより、春馬の方がいい。そうだろう。


「馬鹿なこと、言うな」


 突然、聞こえた声に意識が急浮上した。真っ黒に塗り潰された背景に、まるで鏡でも見ているかのように自分によく似た青年がいる。紺色の着流しで枕元に胡坐を掻くその青年が春馬だと気付いても、理解が出来ない。此処は、時の扉か。
 金色の光を宿す瞳を、瞬きの下に隠しながら春馬は無表情だった。
 額に伸ばされた掌は血が通っていないのかと思う程にひやりと冷たい。春馬は眉を曇らせて言った。


「辛いか?」


 声が出せなくて首を振ると、春馬は目を伏せた。


「悪かったな、俺のせいで……」
「……な、ん、で?」


 乾いたがらがらの声に、春馬は驚いたように目を丸くした。そして、労わるように熱を帯びた額を撫でながら微笑む。


「傘、忘れてびしょ濡れで帰ったんだ。それで、お前に風邪引かせちまった。本当なら俺が受けるべき苦しみだ……」


 代わろうか、と春馬が口にするより早く、重い腕を上げて遮った。その言葉はまるで、嘗ての自分のようだ。
 影辻に斬り付けられた香坂の傷。時の扉の影響を受けた秋水が起こした事件だ。俺がいなければ、何の罪も無い香坂が苦しむことは無かった。けれど、そう言った時、香坂はそれを否定した。
 その優しさが理解出来なかった。俺は今も、きっと解らない。でも、春馬に言える。


「春馬が気にする、ことない」
「……だが」


 食い下がる春馬を抑えるように、首を振って更に続けた。


「春馬は大切な友達だから、いいんだ。春馬は何時だって、俺の為にしてくれる」


 すると、春馬は少しだけ微笑んで「霖雨は優しいな」と言った。
 これは優しさだろうか。自分に問い掛け、否定する。これは俺のエゴだ。


「なあ、春馬。覚えてる?」
「何だ?」
「影辻の時に、言ったこと」


 夜の闇に包まれた町を自転車で走りながら、何処にいるかも解らない驟雨を探し回った。迫り来る凶刃への恐怖を押し込めながら、春馬と共に走ったあの日。


――弱っちい俺は守られてばかりだったけど……、俺だって救ってやりたいんだよ。目に見えるものを、手の届くものを、全部全部助けてやりたいんだよ


 思い出したように、春馬が頷いた。


「あの時、言った言葉は、今も変わってないよ」
「ああ」
「俺は、救ってやりたいんだ」
「ああ。……お前は、ちゃんと救っているよ」


 良かった、と零せば春馬が微笑む。


「でも、それは、春馬も同じなんだよ」


 意味が解らないように、春馬は少し首を傾げた。


「俺は、春馬も救ってやりたいんだよ」
「……霖雨」
「解ってる、解ってるよ。俺は弱っちいから、説得力も無いし、馬鹿馬鹿しいだろうけど」
「そうじゃない。お前は、お前が思う以上に強い子だよ」


 子どもをあやすような手付きで頭を撫でながら、諭すように言って微笑む。
 この言葉が春馬に届くのだろうか。笑顔で躱し続ける春馬の元に続く道はあるだろうか。如何したら春馬を救えるのだろう。何時だって毅然として、泣き言一つ言わない春馬に何が出来るのだろう。


「俺は春馬に、何をしてやれる……?」


 問い掛けた瞬間、穏やかに微笑んでいた春馬の顔が、一瞬泣き出しそうに歪んだ。伸ばされた手を握る掌は冷たく、微かに震えている。伏せられた顔に、その心中を察することは出来ない。
 春馬は絞り出すような掠れた声で言った。


「何も、何もしなくていい。お前が生きていることが俺の救いなんだ。お前が生きているだけで、それだけで十分なんだ」
「そんなの、」
「だから」


 言葉を遮って春馬は、まるで叫ぶような強い口調で言う。


「……頼むから、俺から霖雨を奪わないでくれ……!」


 咄嗟に、言葉が出なかった。
 春馬は泣いているのではないかと思った。吐き出された言葉はまるでガラスのように、零れ落ちては足元に散らばって行く。拾い上げる掌は傷だらけだ。だけど、それでも。


「俺は、いなくなったりしないよ」


 春馬を安心させるように、その震える掌を撫でる。血が通っていないのではないかと思う程に冷たい、氷のような掌だ。俯いたまま顔を上げない春馬に、この言葉が届くだろうか。
 俺を信じて欲しい。そう言おうとして、口を噤んだ。如何してそんなことが言える。自分は春馬のことを何も知らないのに、何一つ解ってやれないのに、信用しろだなんて言える筈が無い。
 すると、春馬はふと顔を上げた。


「――来客だぜ」


 その面には穏やかな笑顔が浮かんでいた。周囲を包んでいた暗闇が、白い絵の具を混ぜたように少しずつ薄まって行く。やがて白い靄の向こうから見慣れた自宅が浮かび上がり、反対に春馬の姿は空気に霧散していく。
 春馬、と名を呼ぼうとして声が出なかった。喉の痛みに噎せ返る。数度咳き込んでいる間に春馬の姿は消えていた。
 玄関の扉を叩く乾いた音がした。


「――霖雨」


 驟雨の声だった。
 腕一つ上げることの出来ない気怠さと、脳に釘でも刺されるかのような鋭痛。吐き出される息は熱っぽく、先程まで春馬と話をしていたのが嘘のようだった。春馬に向かって伸ばした筈の腕はきっちりと布団に納められ、あれは夢だったのではないかとさえ思う。
 玄関の扉を開けることはおろか、呼び掛けに応えることすらできない。すると、此方の返事を待たずして鍵の回される音がした。
 ゆっくりと開かれた扉の向こうに、可愛らしい少女の顔があった。秋水だった。このアパートの大家の娘なのだ、当然だろうが、随分と久しぶりに見たような気がした。


「霖雨さん、具合は如何ですか」


 遠慮がちに話し掛ける秋水は、以前の影辻の面影はまるでない。それもその筈だ。あの時の秋水は時の扉の影響を受け、正気では無かった。ただ、消えることのない記憶だけが罪の意識となって彼女に残っているのだ。
 扉の向こうから足を踏み入れようとしない秋水の後ろから、無遠慮に玄関で乱雑に靴を脱いだ驟雨が足を踏み入れる。着崩された制服と、ズボンのポケットに両手を突っ込んで歩み寄るその様は、まるでチンピラの三下のようだ。
 声を発することが出来ず、鯉のように口を開閉させていると驟雨が言った。


「顔が赤い。熱は下がらないようだな。……薬、持って来た」


 見れば、ポケットに突っ込んだ右腕のコンビニの小さな袋がぶら下がっていた。
 生活感の無い台所で、愛用の白い無地のマグカップに水道水を汲んでやって来る。枕元に胡坐を掻くと、新品の風邪薬の箱から白い錠剤を取り出した。
 涼やかな風が頬を撫でた。見れば、玄関の扉を開け放したまま秋水が立ち尽くしている。
 入ればいいのに、と思った。遠慮するのは当然だろう。だが。


「んなとこ突っ立ってねぇで、さっさと入れよ」


 乱暴な驟雨の物言いに、秋水は少し驚いたようだった。しかし、秋水は慌てて靴を脱いで揃えた。驟雨は見向きもしない。


「ちょっと、起きられるか」


 此方の反応など見ず――否、聞かなくても解っているのだろう。頷くより早く体を起こし、熱っぽい掌に錠剤を二粒と、空いた手にマグカップを握らせてくれた。その優しさ(甲斐甲斐しさと言うべきか)を一欠けらでも、秋水に向けてやればいいのにと思った。これまで霖雨が見て来た驟雨は他人に何時だって傲慢無礼な態度だ。
 どうにか薬を呑むと、驟雨がほっと一息吐いた。そのまま黙って寝かせられ、丁寧な手付きに少し可笑しくなった。
 口の端に浮かんだ笑みを目敏く見付け、驟雨は不満そうに「何だよ」と低く言った。
 驟雨が薬を買って来たことを考えると、風邪を引いたことを知っていたということだ。柊メンタルクリニックからの記憶は無いが、恐らく春馬は驟雨に逢ったのだろう。
 そんなことを考えていると、驟雨が言った。


「昨日、春馬に逢ったんだ。靴も履かず、傘も差さず、びしょ濡れで煙草屋の屋根の下で蹲ってた」


 何時だって真っ直ぐ背を伸ばす春馬からは想像し難い姿だと思った。


「何が遭ったのかは知らねぇ。でも、随分と参っちまってるようだった」


 お前も同じだろうけど、と持参したらしい体温計を脇に挟んで驟雨は苦笑した。
 38.9℃、と驟雨が呟いた。


「お前が言いたくないなら、聞かない。でも、話したくなったなら何時だって聞く。それだけは覚えておけ」


 一言一句間違うまいとはっきりと驟雨は言った。けれど、熱を帯びた喉からは空気の抜けるような音がしただけだった。どの道、熱に浮かされた頭では碌な言葉は浮かばなかった。
 玄関で暫く如何するべきか悩んでいたらしい秋水が、決心したように漸く布団の横に正座した。驟雨との微妙な距離が彼女らしいと思う。そういえば、影辻以来会っていなかった彼女が今如何しているのか何も知らない。すると、此方の視線に気付いたのか、驟雨が秋水を見て言った。


「お前、最近何してんの?」


 ぶっきら棒に突然、驟雨は問い掛ける。驚いたように秋水は目を丸くしたが、戸惑いながら答えた。


「……前と変わらず、学校に行っています……」


 呑気なものだな、と驟雨が目を細めたのが解った。それも当然と思うものの、秋水の気持ちも痛い程に解った。
 彼女に罪は無いけれど、それは決して無実という意味ではない。刃を振り回し人を傷付けた事実は変わらず、これからも彼女を傷付けるだろう。驟雨にとっても、香坂が斬られたと聞いて敵討ちに向かった程だ。理解は出来ても納得は出来ない。二人の溝は簡単に埋まる筈も無いだろう。


「お前、親は?」


 秋水は法律で裁かれた訳ではない。心神喪失状態に程近かったとはいえ、真実を闇に放り込んだだけだ。
 苛立ったような強い口調で驟雨が問うと、秋水は目を伏せた。


「いません。両親共に、死にました」


 驟雨が押し黙った。彼女の父親が死去したことは聞いていたが、母親までもとは思わなかった。
 ならば、彼女は今如何しているのだろう。秋水が言った。


「父が病死してすぐ、働き詰めだった母も後を追うように死にました。医者の話では、過労死だと」


 秋水は人形のように無表情だった。
 影辻は、父親を失った少女の大き過ぎる悲しみが引き起こした事件だ。だが、その中には父に続いて母まで失った少女の孤独が隠されていたのかも知れない。


「今は両親の残したお金で生活しています。アパートを残してくれたので、生活に困ることはありませんが」


 しかし、彼女は中学生だ。
 何か言葉を掛けようとして、何にも発することのできない自らの喉を恨んだ。代わりに、驟雨が言った。


「同情はしない。香坂を傷付け、霖雨に刃を向けた。どんな理由があっても、俺は絶対にお前を許さない。例え香坂や霖雨が許してもな」


 更に何かを言おうとした驟雨の腕を、思わず掴んでいた。
 もういい、これ以上言わないでくれ。そう願って伸ばした手に、驟雨はばつが悪そうに目を背けた。
 重い沈黙が流れた。時の扉の影響なのだと説明するべきなのだろう。だが、例えどんな理由があったとしても驟雨は自らの考えを変えない。
 沈黙に堪え切れなかったのだろう。驟雨が突然「そういえば」と切り出した。


「うちの学校に、生徒相談室があるだろ。其処にさ、新しいカウンセラーが来たらしいぜ」


 そんなものがあったかな、と少し考える。授業を受けたらすぐに帰宅する自分が知っている筈も無い。驟雨は此方の反応など始めから期待していなかったようで、続けた。


「有名なカウンセラーらしくってさ、もうずっと大行列。特に女はそういうの好きだよな」


 驟雨の口からカウンセラーという言葉が出ることすら意外だった。それが顔に出ていたのか、驟雨は眉間に皺を寄せて言った。


「俺は別に興味無いけど、林檎が行くってさ。独りで行くのは嫌だから、お前が来たら一緒に行きたいって」


 林檎らしいな、と思った。


「まあ、霖雨もそういうのは興味無いと思うぜって言っといたけど。そしたら、香坂引っ張って行っちまったよ」


 驟雨は誘われなかったのだろうか。それとも、誘われたけど断ったのだろうか。
 恐らくどちらも正解なのだろう。林檎は余り驟雨のことを良くは思っていないし、驟雨は興味も無いだろう。引っ張って行かれたという香坂に同情し、その状況を思い浮かべて少しだけ笑った。


「今日、バイトだったんだろ。香坂が暇だから、代わりに出てくれるって」


 有り難いような、申し訳ないような。
 驟雨は苦笑して、霖雨の額に手を載せた。


「偶にはゆっくり休めよ」


 それがまるで呪文のように、脳内に響いた。
 急激に訪れた睡魔に誘われ、瞼を下すと同時に意識は闇の中に転がり落ちて行った。





2011.5.3