19.疑心暗鬼






「常盤霖雨君を知ってるかい」


 香坂は背中を追い掛けた声に、反射的に振り返った。隣を歩く林檎の視線の先は、香坂と同様に扉の奥に立つ一人の男性教諭を捉えている。
 霖雨が熱を出して学校を休んだ。驟雨がそう話すものの、霖雨本人からの連絡は一切無い。心配した驟雨は授業もほったらかして、弾丸のように学校を飛び出して早退。残された香坂は、学校で話題の新しいカウンセラーを見物しようと林檎に引き摺られて行った。
 白を基調とした清潔感のある空間は、決して広くは無いのに隅に置かれた観賞植物のお蔭か開放的に、穏やかな気分を齎してくれる。これまで毎週水曜日に来校するカウンセラーは眼鏡を掛けた女で、美人でもなければブスでもなく、痩せてもいなければ太ってもいない、何処にでもいそうなタイプだった。そんな彼女が転勤ということで、後任に現れたのが今回話題のスクールカウンセラーだった。
 生徒相談室など、高校三年間を通して一度だって世話になるとは思っていなかったが、人生は何が起こるか解らない。
 話題のスクールカウンセラーは、所謂二枚目だ。女子が騒ぐのも無理はないと思いつつ、香坂は隣で眉一つ動かさない林檎に苦笑した。日頃、霖雨と共にいる彼女はすっかり目が肥えてしまっているのだろう。
 そんな男が、部屋を後にする二人を呼び止めた。問い掛けられた質問に眉を潜める香坂に、男は人受けの良い微笑みを浮かべたままだった。


「……知っていたら、如何なんですか?」


 質問に質問を返す香坂の眉間には谷のように深い溝が掘られ、隠し切れぬ苛立ちが浮かんでいる。
 呆けた顔をする林檎は訳が解らないというように、少し首を傾げただけだ。男は言った。


「霖雨君とは知り合いなんだ。是非、会いたいと思ってね」


 香坂は少し黙った。男の話が信じられない訳ではない。
 精神科に通院しているという霖雨が、心理学を専門に扱うこのスクールカウンセラーと繋がりがあっても何ら不自然ではない。けれど。


「……スクールカウンセラーなら、俺等に言わなくても、堂々と会いに行けるだろ」


 吐き捨てるように言うと、そこで初めて男の眉が下がった。
 その通りだ、と苦笑混じりに男が言う。その飄々とした態度すら気に喰わない。


「常盤霖雨なんて知らねーよ。知っていたって、教えねぇ」
「ふうん?」
「行こうぜ、林檎」


 踵を返して歩き出す香坂を、林檎が慌てて後を追う。手厳しいな、と男の零した独り言が背中に刺さった。
 頭の中に浮かぶのは、熱を出して学校を欠席している霖雨の顔だ。もし、話し掛けた相手が自分ではなく驟雨だったなら、あの男はただでは済まなかっただろうなと思い苦笑する。
 困ったように、半歩後ろを追う林檎が言った。


「何で、霖雨のことを黙っていたの?」
「怪し過ぎんだろ、あんな話。本当に知り合いなら、俺達に霖雨のことを訊く必要は無い」
「そうだけど……」
「仲間を売るような真似、する筈ねぇだろ」


 ぶっきら棒に言い放った香坂の言葉に、林檎は微笑んだ。
 つい最近まで、霖雨は孤独だった。それが何時の間にか、一人また一人と仲間が増えて、彼は孤独ではなくなった。それはどうしてだろう。考えても、林檎には解らなかった。解らなかったけれど、恐らくはそれが正解だ。
 嬉しそうに微笑む林檎の横で、香坂は思い出したように言った。


「そういえば、あいつの名前何だっけ?」


 あのいけ好かないスクールカウンセラーの名前が、如何しても思い出せない。
 唸りながら首を傾げる香坂に、林檎は得意げに声を張り上げた。


「――三間坂沈黙」


 聞き覚えの無い名前に、霖雨は首を傾げた。
 発熱後の倦怠感に、上半身を起こすものの布団から抜け出すことのできないまま、霖雨はその名を口の中で繰り返す。レトルトの御粥を皿に開けながら驟雨は頷いた。
 外は既に暗い。一眠りした後だというのに、豪雨は未だ止む気配を見せない。秋水は帰宅したらしいが、驟雨はずっと此処で看病してくれていたのだろう。枕元に置かれた水の張った桶に目を遣り苦笑する。
 登校していた林檎と香坂から同様のメールが届いていた。それは放課後に生徒相談室へ訪れた二人からの結果報告と感想。絵文字をたっぷり使い、無意味な小文字が多用される林檎のメールは酷く読み難く、用件がいまいち解らない。林檎らしいと苦笑しつつも、香坂のメールは絵文字など一つも使わない。


『生徒相談室に行って来た。俺の性に合わない。カウンセラーの三間坂沈黙が、霖雨と知り合いとのことだが?』


 同じメールが届いたのだろう、驟雨が携帯をポケットに押し込みながら言った。


「知らねぇか? 三間坂って」
「解らないなぁ……」


 春馬なら、何か知っているだろうか。霖雨は自分の考えを否定する。春馬に頼ってばかりではいけないのだ。
 そうだよな、と唸るような低い声で肯定する驟雨の背中に目を遣る。どうやらコップに水を汲んでいるらしい。
 御粥と水を運ぶ驟雨は無表情だ。そんな驟雨を久しぶりに見たな、と思い出す。自分の見る驟雨は喜怒哀楽が激しく表情豊かだった。だからこそ、今の驟雨の胸中が穏やかでないと解る。


「なあ、驟雨……」
「そうだ」


 此方の声を遮って、驟雨が声を上げた。
 布団の横に皿を置きながら、玄関の靴箱の上に置かれた数枚の紙を持って来る。


「お前が寝てる間にさ、ほらこれ」


 渡される無数の紙は、恐らく学校で配布されたプリントだろう。だが、学校を早退した驟雨がそれを持っている筈が無い。


「お前のクラスメイトってやつが、届けてくれたよ」
「クラスメイト……」


 果たして、俺にプリントを届けてくれるようなクラスメイトがいたかな。
 皮肉っぽく考えながら受け取ったプリントに目を落とす。驟雨が言った。


「大佐和竜次って言ったかな。知ってる?」
「大佐和……、ああ」


 聞き覚えがあると思えば、クラスの学級委員だ。こんな自分にも声を掛けてくれる面倒見の良い溌剌とした少年だ。名前を聞いて納得した。


「どんな奴?」
「学級委員だよ。世話焼きでさ、真面目で、結構良い奴。如何した?」
「――いや。お前から俺の知らない奴の名前聞くのは珍しいから」
「そう?」


 仏頂面の驟雨は何処か納得していない様子だった。


「その親切な大佐和竜次君、お前に何か話があるみたいだったぜ」
「俺に?」
「うん。何か、神妙な顔付きだったけど?」
「うーん。覚えはないな。明日、訊いてみるよ」
「面倒事はきちんと断れよ。そうでなくとも、俺に言え」
「何でだよ」


 苦笑混じりに言うと、驟雨は目を細めた。不機嫌さが滲み出ている。


「決まってるだろ。――俺は、お前を守る為に此処にいるんだ」
「え――?」


 驟雨の言葉に耳を疑う。この男は何を言っているのだろう。
 だが、同じように驟雨自身が驚いていた。


「驟雨、お前、何、言って……」
「霖雨、違うんだ、俺は」


 友達というものがどういうものなのか自信は無いが、驟雨が自分に対して過保護なのは知っていた。けれど、それはただ単に驟雨が面倒見が良く、心配性なだけだと思っていた。
 おかしい。驟雨はおかしい。否、驟雨だけじゃない。春馬だっておかしい。如何して、そんなにも必死に自分を守ろうとするのだろう。そんなに自分は頼りないだろうか。普通、友達に対してそんな態度を取るだろうか。庇護対象としか見られていない。それは、つまり。
 友達と思っているのは――、俺だけか?


「……そう、か」


 落胆。諦観。絶望。胸の内にじわじわと広がって行く冷たいものが何なのか解らない。
 もう、慣れただろう。信じれば騙される、期待すれば裏切られる。そんなこと、もうとっくに解っていた筈だ。
 驟雨が何か言おうと口を開く。


「霖雨、聞いてくれ」
「いいんだ、大丈夫だよ。知ってる、解ってるよ」
「霖雨!」


 これ以上、驟雨の口から何も聞きたくない。


「明日も学校だ。遅いし、もう帰っていいよ。熱も下がったから、明日は登校するよ。看病してくれて、ありがとな」
「霖雨!」
「……ごめん、帰って欲しい」
「霖雨……」
「頼むから」


 絞り出すように言えば、驟雨はそれ以上何も言わなかった。静かに仕度を整えて立ち上がった驟雨の様子は、見ることができなかった。
 靴を履く音に目を遣ると、驟雨の背中が見えた。


「また、明日な」


 振り返らないまま驟雨が言った。咄嗟に何も返せなかった。
 扉に手を掛ける。開いた先には夜の闇と、降り止まぬ豪雨。傘は持っただろうか。家の人は心配していないだろうか。口に出そうとして呑み込む。俺に心配する権利なんてない。
 無言でいると、驟雨は黙って出て行った。部屋の中に静寂が訪れる。
 零れ落ちそうな涙は気のせいだと思おうとした。こんなことは何でもないんだ。驟雨は俺を守る為に此処にいる。それで十分じゃないか、喜ぶべきだろう。
 何度も何度も深呼吸を繰り返して、零れそうな熱を呑み込んだ。吐き出しそうな言葉を呑み込んだ。携帯が震えている。メール受信。自分にメールを送る人物は限られている。そして、このメールは十中八九、驟雨だろう。それを確認する勇気など無いけれど。
 もう、何も聞きたくない。何も知りたくない。仕方が無いんだ。俺が弱いから。
 締め切られたカーテンの向こうから、激しい雨音がする。あいつ、風邪引かないといいけど。


 降り頻る雨の中、差して来たビニール傘を片手にぶら下げながら歩いて行く。春馬が以前、雨に濡れていた日を思い出し、その気持ちが解る気がした。
 月も星も見えない空には、闇と一体化した重い雲が浮かんでいる。
 耳を支配している筈の雨音は聞こえなかった。代わりに響くのは霖雨の声。脳裏に焼き付いた霖雨の項垂れる姿。泣いてはいなかった。でも、笑ってもいなかった。絞り出すような声は確かに震えていた。
 思い出される春馬の言葉。ヤマケンとの勝負の時、霖雨は一言も相談してくれなかった。それがずっと悔しかった。けれど、春馬に言われて解った。


――あいつは、お前と対等でいたいんだよ


 それがどういう意味なのか。


――お前等と友達でいたいから


 あいつは俺と、友達になりたかったんだ。
 俺はあいつのこと、友達だと思ってた。あいつもきっと、そう思ってた。でも、俺はあいつを守らなきゃいけないと思ってた。それはつまり、あいつを対等だと思っていないということに他ならない。
 影辻の時、幾ら帰りが遅くなっても、家族さえ連絡一つしなかったのに、あいつだけはずっと探し続けてくれた。死ぬかも知れないと解っていながら、俺を助ける為に追い掛けてくれた。そんなことが、当たり前に出来る人間などそうはいない。
 あいつは当たり前に俺を信じてくれる。傍にいてくれる。友達でいてくれる。なのに。


(俺はあいつを、裏切ったのか)


 零れそうになったのは嗚咽だっただろうか、自嘲だっただろうか。もう、解らない。
 きっと、明日になれば霖雨はいつも通り接してくれる。仕方が無いと、諦めるのが習慣だった霖雨だから。
 謝ればいいだろうか。弁解すればいいだろうか。けれど、何を言っても伝わらないようなそんな気がした。
 携帯を開く。霖雨からのメールが届いているんじゃないかと期待して、裏切られる。来る筈が無い。俺はあいつを裏切ったのに。代わりに一通のメールをした。お大事に、と。返信は期待しなかった。それが裏切られるのが怖かったから。
 香坂からのメールを開く。


『生徒相談室に行って来た。俺の性に合わない。カウンセラーの三間坂沈黙が、霖雨と知り合いとのことだが?』


 その文章を改行して、空白を挟んで。


『嫌な予感がする。あいつのこと、気を付けてやってくれ』


 無理だ、と声には出さず呟く。俺にそんな権利は無い。
 香坂だって、霖雨のことを心配しているじゃないか。俺と同じじゃないか。そう言い訳をして、惨めになる。同じじゃない。香坂も林檎も、あいつを友達だと思っている。信頼もしている。
 じゃあ、俺は?
 答えの無い問いを繰り返しながら体を打ち付ける雨に身を任せた。風邪を引いてしまえば、あいつへの贖罪になるだろうか。馬鹿な考えだ。
 俺は如何して、こんなに霖雨が大切なんだろう。如何して、守りたいんだろう。
 自分自身が解らない。この思想が何処から来るものなのか解らない。
 鉛のように重い足を引き摺りながら、見上げた先は闇だ。俺と同じだな、なんて、声に出さずに自嘲した。







2011.5.8