21.火の無い所に煙は立たぬ
大佐和が失踪したと聞いたのは、長い雨の止んだ清々しい朝のことだった。
何時ものように登校した学校で、林檎がクラスメイトから聞いた話を霖雨に耳打ちしたのだ。その話の通り、授業が終わっても、昼食を終えても、大佐和は姿を見せなかった。霖雨も始めは学級委員として無遅刻無欠席を謳う絵に描いたような優等生が珍しいと思った程度だったが、それが何の連絡も無いことなのだと聞いて、ただ事ではないと直感した。
昨日も遅くまで演劇部の活動があった筈だった。不安に感じて職員室で麻田を尋ねれば、其方も無断欠勤とのことだった。
事件性を疑った保護者や学校側は早々に警察へ連絡し、其処此処には警官が闊歩している。穏やかな筈の学校生活は突如、物々しい雰囲気に包まれた。
放課後になると、霖雨は素早く教室を抜け出した。バイトまで時間がある。向かった先は演劇部の活動する体育館だ。顧問と部員が一人行方不明になったとは言え、公演は目と鼻の先だ。休んでいる時間など彼等にはありはしない。主役に抜擢された霖雨も、緊急事態の為に欠席するようにと部長より直々に言われたのだ。此処に来る理由など、普通に考えれば無い筈だった。
日の傾いた体育館には目が眩むような西日が差し込んでいる。眩しさに目を細めていると、その黄金の光の中に見覚えのある光の粒子が浮かび上がった。春馬だ。
(何をする気だ?)
低く唸るような春馬の声がした。霖雨は反対されることは目に見えていたが、正直に答えた。
(大佐和を探すんだ)
(――どうして?)
発言を疑うかのような口調の春馬に、霖雨は苦笑した。
(クラスメイトだから)
(俺は反対だ。嫌な予感がする)
(でも、俺は止めないよ。大佐和はきっと今、助けを求めてる)
誘拐事件なら、自分に出来ることなど無いのだろう。けれど、もしかしたら、自分にも何かが出来るかもしれない。否、自分にしか出来ない何かを求めているのかもしれない。そう思えば、此処で立ち止まっている暇など無かった。
練習に熱が入っている。通しを行なっている中に入るのは気が引けたが、事態は一刻を争う可能性がある。台本を片手に怒声を張り上げる三年生の部長が、不在の顧問である麻田に代わって指導している。練習に区切りが着いたところで休憩を告げる。早足に踵を返した部長の額には汗の雫が張り付いていた。
部長の名は皆口と言った。長身痩躯で整った顔立ちをした男子生徒だ。体育館を出て行こうとする汗ばんだ背中を呼び止めると、振り返った皆口は怪訝そうに眉を顰めた。
「練習には来なくていいと、言っただろ」
「はい、解っています」
練習に来たのではないと、暗に告げれば皆口は何か思い当たることがあるらしく溜息を零した。
「……大佐和のことか?」
恐らく、その質問はこれまで幾度となく投げられて来たのだろう。好奇心旺盛な同級生や、心配する部員、捜査する警察関係者から絶え間なく繰り返された問いに、ほとほと疲弊したという態度を隠そうともせず、皆口は冷たく霖雨を見遣る。
それでも、此処で退く訳にはいかない霖雨は背筋を真っ直ぐ伸ばして皆口の冷たい視線と向き合った。その真っ直ぐな目に根負けしたとでも言うようにもう一度大きく溜息を吐くと、皆口は言った。
「知らないよ。俺も、何も知らないんだ」
知っていたら、何としてでも連れてくるさ。
そう言って皆口は力無く笑った。期待はしていなかったが、霖雨は肩を落とした。短く礼を告げて道を引き返す霖雨の背中を、皆口が意味深に見詰めている。その様を春馬だけが不審に眺めていた。
やがて、体育館が完全に見えなくなってから、霖雨の傍を蛍のように漂っていた光の粒子がはっきりと言った。
(あの男は、何か知っているぜ)
目を丸くした霖雨が春馬を見る。金色の光はふわりふわりと漂うだけだ。
(どうしてそう思う?)
(何となくな)
少しの沈黙に霖雨は顎に指を添えて何か考える素振りをした。その表情からは何も窺えない。そして、霖雨は独り言のように小さな声で「そうか」とだけ答えた。
そのまま進行方向を変えずに歩を進めようとする霖雨を不思議に思って、春馬は言った。
(問い詰めないのか?)
(俺にそんな権利無い。言いたくないことなら、俺には何も言えないよ)
困ったように笑う霖雨に、春馬は訳が解らなくて首を傾げる。
助けたいと、自分の疲れすら隠して足を運ぶ癖に、人の拒絶には酷く敏感だ。優しいのか、諦めが早いのか、強いのか、弱いのか。振り返らない霖雨がこれから何処に向かおうとするのか春馬には解らない。もしかすると、行き先を見失っているのに強がりで歩き続けているのかも知れない。
何処に行ったって、お前の満足する答えは転がっていないよ。そう言いたいのを呑み込んで、春馬は表情の失せた霖雨の精巧な人形のような横顔を見詰めた。
その時だ。
「――霖雨」
階段を登ろうとした霖雨の足が止まる。振り返った先に驟雨がいた。
鞄を肩に担いで、きょとんと目を丸くするその様は血の霧雨などと呼ばれる男には見えない。踵の潰れた上履きでぺたぺたとリノリウムの廊下を叩きながら、驟雨は霖雨の傍まで歩み寄る。
「お前、帰ったんじゃなかったのか? 今日、バイトは?」
「あ、ああ。これから向かう」
「ふうん。昇降口は反対方向だぜ?」
不敵な笑みを浮かべる驟雨は、恐らくきっと此方の事情など解り切っているのだろう。観念したように霖雨が肩を落とすと、驟雨が悪童のように笑った。
驟雨は他人には余り興味の無い人間だ。部外者なら名前どころか顔すら覚えようとしない。そんな彼が大佐和と麻田の失踪を知っているとは思わなかったので、事の顛末を簡単に告げると驟雨は平然と頷いた。
「ああ、知っているよ」
その言葉に霖雨は少なからず驚いた。驟雨は言った。
「だから、警官が彷徨いてたんだろ? 鬱陶しいよなぁ、全く」
傍に誰がいるとも知れない中、平然とそんなことを言ってのける驟雨はやはり、他人に興味が無いのだ。誰が自分を罵っても、悪評価しても構わないのだ。そんな驟雨に呆れる反面で、羨ましいと霖雨は思う。
「でも、お前はその大佐和を探してる訳か」
「クラスメイトだからね」
付け加えるように繋げた言葉は、些か言い訳臭かっただろうか。そんなことが気になるが、驟雨は大して興味も無さそうに鼻を鳴らすだけだった。
腕を組んで、驟雨は考え事をするように唸りながら首を傾けた。
「何て言ったっけ? その大佐和と一緒に、いなくなったやつ」
「麻田先生のこと? 麻田響子だよ」
「そうそう、その麻田センセ」
何処か馬鹿にするような口調なのは、驟雨が教師という生き物を毛嫌いしているからだろう。驟雨は無表情を崩さないままで言った。
「生徒と出来てるって、噂があったらしいぜ」
「はあ?」
意味の解らない出鱈目な、女子生徒の好みそうな不愉快極まりない相手を貶めるだけのゴシップだ。驟雨の口からそんな言葉が出たこと事態が信じられないし、不快に思った。けれど、驟雨はそんな霖雨の内心を察したように慌てて弁解した。
「俺だってそんな噂、興味の欠片も無ェけどさ」
そう前置きして、驟雨は続けた。
「その相手が大佐和だって言うからさ、この失踪とは無関係じゃないんじゃないかって思うだろ」
酷く、不愉快だ。
根も葉もない噂話は此方を不快にさせるだけでなく、多くの人を傷付ける。これ以上、驟雨の口からそんな無意味に人を貶める言葉を聞きたくなくて背を向ければ頭上から声が落とされた。
「ただの噂じゃねぇと思うけど」
顔を上げれば、階段の手摺に手を掛ける香坂が此方を見下ろしていた。狼狽えた様子で驟雨が香坂の名を呼ぶ。
香坂までそんなことを言うのか、と批判したい気持ちを抑えて階段を下るその足元を睨む。驟雨と同様に踵を潰した上履きに、歩きづらいだろうにどうしてそんな履き方をするのかと、そんなどうでもいいことが気になった。
「火の無いところに煙は立たねぇよ。否定したい気持ちは解らなくもねぇけど、可能性は零じゃない」
「零だろ。俺は信じない」
「お前が信じるかどうかと、真実は無関係だ。大体、何でそんなに否定する」
「決まってんだろ」
霖雨は答えるより早く、驟雨が遮って言った。
「――友達だから?」
言おうとした言葉を先に言われ、霖雨は口篭った。驟雨が呆れたように、わざとらしく盛大な溜息を零す。
「否定したい気持ちは解らなくもねぇけど、それじゃ何時まで経っても答えは出ないだろ。信じてぇなら、そうじゃないって証拠を探し回れよ」
それを邪魔したのはお前だろ。
霖雨はその言葉を呑み込んで驟雨を睨んだ。言われなくともそのつもりだ。勇み足で霖雨が歩き出そうとすると、すれ違いざまに香坂が言った。
「お前が否定してるのは、何?」
質問の意味が解らなくて、霖雨が振り返る。けれど、香坂は何も言わずに廊下の角に消えていった。
香坂の言葉が聞き取れなかったらしい驟雨が不思議そうな顔をする。霖雨はぎゅっと口元を結んで階段を駆け登った。
結局、春馬の睨んだ通り、霖雨の求める情報は何処にも無かった。代わりに耳に飛び込むのは先程、驟雨が言った根も葉もない噂ばかりだ。その噂を鵜呑みにした何処かの誰かが駆け落ちではないかと勘繰った悪質なデマが、まるで真実のように飛び交っている。
職員室にも、教室にも、体育館にも彼等の姿は存在しない。霖雨の頭に浮かぶのは誰にでも分け隔てなく優しかった大佐和の笑顔と、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった霖雨元い春馬を助けてくれた麻田の溌溂な声だ。
霖雨は、人の好意に触れたことが少ないから、それを過大に受け取ってしまうのだろうと思った。二人にしてみれば大したことではなくて、こんなことはただのお節介、有難迷惑なのかも知れない。
だけど、それでも。
「なあ」
不意に掛けられた声に、肩が跳ねた。振り返った先に、呆れたような顔で驟雨が立っている。
不愉快な噂を耳に入れた驟雨は、自分を怒らせた罪滅ぼしのつもりかただのお節介か、二人の所在を求めて学校を探し回る霖雨の後ろにずっと付いていた。驟雨に表情は無い。
「やっぱり香坂の言う通り、火の無いところに煙は立たねぇよ」
「五月蝿い」
「ただの噂だ。無視すればいい。……でも、お前はそれを否定する為の材料を必死で探してる。何で?」
お前は根底の部分で二人を疑っている。
暗にそう言われて、霖雨は言葉を失った。その通りだ。自分が果たして二人の何を知っているのかと自問し、目の前が暗くなった。
驟雨が黙り込んだ霖雨の肩を叩く。もう学校を出なければバイトは遅刻するだろう。二人の沈黙の間に聞き慣れたチャイムが響き渡る。長く尾を引いたその音が消え去る前に、驟雨は言った。
「あんまり、気負うなよ。お前が心配しなくても、明日にでもひょっこり顔を出すさ」
そんな可能性が低いことくらい、驟雨にも解っている。ただの気休めだ。
このままバイトがあるからと学校を後にすることも出来なくて、だからと言って二人の所在が解る訳でもない。八方塞がりで立ち尽くす霖雨に、驟雨はさり気無く逃げ道を提示する。興味の無い他人には傲慢無礼な驟雨は、身内とも呼べる友達や仲間にはとことん優しい。そんな驟雨の優しさに甘えて、霖雨は苦笑を漏らして帰路を辿ることにした。
遅刻寸前という時刻と気付いて、走り出そうとする霖雨を驟雨が呼び止める。学校から少し離れた先に停められた驟雨の愛車。投げ渡されたヘルメットを被りながら霖雨はいなくなった二人のことを考えた。
もし、噂の通り二人が駆け落ちなら、どうするのか。
責める権利も探る理由も存在しないのに、勝手な自己満足とお節介で首を突っ込んで、挙句に馬鹿馬鹿しいと鼻で笑うのか。耳に蘇る香坂の問いの答えを未だに探している。
自分は何を否定しているのだろうか。
教師と生徒との恋を、否定しているのだろうか。教育者としての彼女の倫理を、学生としての彼の常識を、否定しているのか。自分にはそんな権利はない。
その噂が嘘でも事実でも、二人が帰って来たら、何事も無かったように接しよう。必要なら、味方になろう。それでもいいよと、言ってやろう。
そんなことを思う霖雨を乗せながら、驟雨はエンジンを掛ける。低く唸りを上げ、マフラーから灰色の煙が吹き出す。シールドに覆われた驟雨の目は沈んでいく夕日を見詰めていた。それは何処か昏く、絶望を移す色だった。
霖雨のことを友達だと思っているし、対等でありたいと願う彼の気持ちを汲んでやりたい。けれど、それでも驟雨は霖雨を傷付ける何者からも守ってやりたいと思っている。それが例え、彼自身が望んだことだとしても、だ。
だから、今回のことに霖雨が首を突っ込むのは反対だった。嫌な予感しかしないし、どの道、彼は傷付くだろうという確信があった。それでも、救いたいと切に願う彼の純粋な優しさを守ってやりたかったのも事実だ。何もせずにただ傍観するだけなら、それは驟雨と出会う前の霖雨のままだ。何事にも諦め癖のある霖雨が少しずつ変わっていけるなら、それでいい。でも、傷付いてほしい訳ではないのだ。
(嫌な予感がする)
今日が終わろうとする西の空を眺めながら、驟雨は黙ってエンジンを吹かした。
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