22.青い鳥
相変わらず、体育館は茹だるような暑さだった。
照明は消え、締め切られた暗幕に風は入らない。けれど、演劇部員は誰一人として不平を言うことなく、リハーサルに取り組んでいる。主役の抜けた穴は部長である皆口が代役をして見事に演じ切っていた。幕引きまで残り僅かな時間をカウントダウンするように時計に目を遣る。
終了のブザーが鳴った。カットを告げる麻田がいないからだ。
途端に明るくなった視界がちかちかした。休憩を挟み、反省会。締め切られた館内から脱出していく皆口の背中を、霖雨は息を詰めて追い掛けた。脳裏に過ぎるのは、春馬の言葉だ。あいつは何かを知っている。人の秘密を暴くのは趣味ではないけれど、自分の領分は弁えているつもりだけど。
「なぁ、皆口センパイ」
何処か小馬鹿にしたように、驟雨がその背中を呼び止めた。周囲に人気は無い。
大佐和と麻田が失踪してから既に一週間が経過しているというのに、一切の進展を見せないまま状況は悪化していく。駆け落ちならば、まだましだ。もしも、何か事件に巻き込まれていたのならと、霖雨は眠れない日を過ごした。
正面切って、皆口を問い詰めようと言い出したのは当然、驟雨だ。その強引さが疎ましく、同時に、羨ましくもあった。自分には無いものだったから。
振り返った皆口は、此方に聞こえるように舌打ちをした。驟雨はそれに苛立ちを隠そうともせず、切口上で言い放つ。
「聞きてぇことがあるんだ」
「俺に答える義務は無い。先輩になんて口の利き方だ」
いかにも縦社会で生きてきた男らしい言葉だ。けれど、そんなものは驟雨にとって何の価値も無いのだろう。
「大佐和と麻田先生のことだ」
「……だから、俺は何も」
「二人は付き合っていたのか?」
沈黙を続けていた霖雨が、唐突に問い掛けた。一瞬、皆口が口篭る。
人の事情を詮索するのは趣味ではない。けれど、それでも、真実が知りたい。情報収集を趣味とする樋口に尋ねれば、やはりあの噂がかなりの信憑性を持っていると告げられた。数々の証言と証拠が、霖雨の否定しようとした可能性を現実に変えていく。
立ち止まっている訳にはいかない。ぐ、と奥歯を噛み締めた霖雨の前で、皆口は崩れ落ちるように地べたに座り込んだ。その横顔は僅か一瞬の内に年老いたように見えた。
「そうだよ」
肯定の言葉を、皆口が容易く吐き出せた筈が無い。その理由など霖雨にも驟雨にも解らない。
開き直ったかのように薄笑いすら浮かべる皆口に、驟雨は食ってかかる。
「どうして、黙っていた!」
「どうして? 言える筈無いだろう」
胸ぐらを掴まれた皆口はされるがまま、その視線は何処か遠くを見詰めている。
「生徒と教師が恋愛ごっこだなんて、笑い話にもならないだろ。そんなことが知られれば、二人だけじゃなく周囲の人間にどれだけの迷惑が掛かると思うんだ」
「それで――、どうしたんだ?」
皆口の話の先を促しながら、聞くのが怖いと思った。それでも、霖雨は皆口の言葉を待った。
「俺は、ただ、言っただけだ。これ以上、二人の関係を続けるなら、学校に暴露するって」
「何で」
「じゃあ、お前ならどうしたよ!」
叫んだ皆口の気持ちが、驟雨には少しだけ解るような気がした。
公演を間近に控えた演劇部の部長として皆口は、その日の為にこれまで必死に練習を重ねてきた筈だ。それを信じてきた教師と、後からやって来た何も知らない後輩によって壊されそうになっている。その公演は、皆口だけでなく、皆の夢だった。
自分ならどうしただろう。驟雨は考えた。皆口にとっての公演は、驟雨にとっての霖雨だ。霖雨を傷付ける者がいるなら、自分は何に変えても守ろうとするだろう。皆口と自分は相似形だ。霖雨のように問い掛ける理由も、責める権利もありはしないのだ。
「解らない、けど」
噛み締めるように呟いた霖雨の声は掠れている。
「俺は、あいつの味方でいたいから」
他の誰がどう思っても、俺は大佐和の味方でいる。それが世間から間違いだと批難されても、仲間から迫害されても、それでもいいよと受け止めてやりたい。それが、友達だろう。
「俺は、あいつの友達だから」
視線を落として、霖雨は固く目を閉じた。
部長から責められて、仲間から否定されて、自分のことすら受け入れられなくなって。大佐和は何を思っただろう。それ以上に責任感のあっただろう麻田は何を考えただろう。間違いだと解っていても、人はそれでも正解を選べない。人に言われて終われる程度のものなら、決して苦しみはしなかっただろう。
其処に、もしも時の扉が関わっていたら?
葛藤が苦悶に、やがて絶望に変わったかも知れない。
ゆっくりと顔を上げた霖雨は校舎に戻ろうと踵を返し、皆口の胸ぐらを掴んでいた驟雨は彼を投げ捨てるようにして後を追った。
放課後の校舎は静かだった。昼前までは晴天だった空は再び鉛色の雲に遮られている。一雨来そうだと、思った。
階段を登ろうと角を曲がった時、壁に背を預けて座り込む樋口がいた。持ち込みの禁止されている筈のノートPCを足の上に載せて此方を見るその面に表情は無かった。
「霖雨さん」
何時もの人受けの良い笑顔を失った樋口は不気味だった。ノートPCの淡い光が、薄暗い廊下に座り込む樋口の顔を照らす。
「噂は、本当だったみたいですね」
霖雨は答えなかった。樋口に隠し事など不可能だと解っているけれど、それでも大佐和の為に黙っていた。
今は、居所不明の二人のことだけが気になった。殆ど初対面だろう驟雨が、樋口を見て怪訝そうに眉を顰める。けれど、樋口は意に介した様子も無く、無表情を保ったまま言った。
「麻田先生、相当追い込まれていたのかも知れません」
くるりとノートPCを回転させ、画面を二人に向けた。其処に浮かぶ多数のウインドウの中の文字の羅列の意味は解らないが、中央に載った画像にぎくりとした。ロープだ。現代国語を担当する女教師が、一体何に使うのだ。演劇部で使用するには余りにも半端な長さのそれに嫌な予感が全身を貫いた。
其処で漸く、樋口が微笑んだ。仮面のような微笑だった。
「それから、机の中から睡眠薬も見付けました。これは、最悪の事態も想定した方がいいでしょう」
最悪の事態とは何だ。そう問い掛けようとして、霖雨は自分の口の中がからからに乾いていることに気付いた。
「香坂さんが今、この辺りを手当り次第に捜索してくれています。尤も、警察が捜索した後ですから、見つかる可能性は殆ど無いでしょうけど」
樋口の脳内で、既に二人は死んでいるのだ。そう気付いた時、霖雨は大地震のような世界が揺れ動く程の目眩を感じた。体を支え切れなくてふらつけば、驟雨が肩を支えてくれた。その手には力が篭もり微かに震えている。
「早く、見付けてやらなきゃ」
霖雨は無意識に呟いていた。
一体何を探そうと言うのか。二人は生きていると確信を持って、はっきりと断言出来るか。死んでいると諦めて、死体を探そうというのか。――解らない。何も解らない。見付けたい、見付けたくない。
「霖雨は、此処にいろ。俺が探す」
霖雨を壁に預けて、驟雨は顔を上げた。何かを決意したようなその目には強い光が宿っている。けれど、霖雨は首を振った。
「探そうと言ったのは、俺だ。此処まで来て引き下がれない」
驟雨は何かを言おうと口を開き、噤んだ。
何時でも人に言われるがままだった霖雨には良い傾向なのかも知れない。けれど、その結果として霖雨が傷付くのは嫌なのだ。それは前世がどうとか、贖罪行為だとか、そんな訳の解らないオカルティズムな話ではない。友達として、否、親友としてそう思うのだ。
「解った。探そう」
結局、驟雨は折れた。そうなることも解っていた。霖雨に表情は無い。それどころか、今にも倒れそうに蒼白だった。
二人の居場所に心当たりは無い。先程、樋口が言った通り、既に警察は捜索しているのだ。もしも二人が生きているのなら見付かるのは時間の問題だろう。生きている痕跡を隠すのは難しいことだから。
だが、もしもそうではないのなら。
ロープと睡眠薬。連想されるものは一つだ。
頭の中で、ギシギシとロープの軋む音がする。妄想だと振り払おうとして、目眩がする。霖雨は奥歯を噛み締める。驟雨も同じものを想像しただろう。顔色悪く頷いた。
首吊り自殺。否、これは心中だろうか。校外へ向かおうと昇降口へ足を踏み出した霖雨の視界の端で、金色の光が浮かび上がる。小雨の降り出した中庭に咲き始めた紫陽花。青々とした葉が雫を弾く。その足元で、花壇の土が土砂崩れのようにこぼれ落ちている。どうして?
大きな石で囲って作られた花壇だ。石が無くなれば土が溢れるのは当然だろう。では、どうして石が無いのだろう。あんなに大きくて重いものが、どうして。
その瞬間、頭の中がフラッシュした。閃きと呼ぶには不謹慎で、単なる思い付きと判断するには的を得ている。
睡眠薬。ロープ。重石。雨。水。
「驟雨」
自分のものとは思えないほどに声が震えていた。昇降口に向かう驟雨が振り返る。
霖雨は口を結び、覚悟を決めて言葉を放った。
「屋上だ」
確信があった。いつも自分達が昼食をとっていたあの場所。その屋上でも更に上、天を刺すような水の詰まったタンク。
何かに取り憑かれたように霖雨は走り出した。後ろから追い掛ける驟雨の足音も、呼び止める樋口の声も耳から通り抜けていく。降り注ぐ雨の音がやけに鮮明に耳に残っていた。
勢い良く開いた屋上は雨に濡れている。滑り易くなったタイルを踏み締めて、霖雨は真っ直ぐに壁に据え付けられた梯を駆け登る。目の前にはクリーム色の大きな給水塔。長い間誰も使用していなかった筈の梯子はそれ程に汚れていなかった。それは、最近誰かが使用した証拠だった。
此処にいる。
天井の蓋。取っ手に触れたまま、動けない。雨は強さを増し、容赦なく霖雨の背中を打った。
開けなければならない。開けるのが怖い。見付けたい。見付けたくない。その手は一目で解る程にはっきりと震えていた。――けれど、その手を肉刺だらけの無骨な掌が包み込んだ。
「驟雨」
驟雨は返事をせず、頷いた。
二人の手が、蓋を持ち上げる。強い雨音、軋む金具。満タンに張った水面に浮かぶ黒い髪。
悲鳴すら上げられず、二人は数秒間、固まったまま動けなかった。ただ、その目には確かに映っていた。変わり果てた級友とあの女教師の姿が。蒼白に変わったその面が想像以上に美しく、掌は二度と離すまいと固く握られていたことが。
「やっと、見付けた……」
手を伸ばすことも出来ないまま、霖雨はその場にへたり込んだ。不安定な足場に倒れ込みそうになるのを、寸前のところで驟雨が支える。何時だって余裕綽々の驟雨が、今回ばかりは流石に真っ青になっていた。
後から来た樋口が、警察を呼んだ。給水塔の中の二人は引き上げられた。死後硬直した二人の手は決して離れなかった。その足元には予想通りロープと、花壇に使用されていたあの石があった。
「見付けたよ、大佐和……!」
ブルーシートの掛けられていく現場で、立ち上がることも出来ないまま霖雨は振り絞るように叫んだ。
もっと早く見付けてやればよかった。違う、もっと早く気付いてやればよかった。あいつはずっと苦しんでいたのに、助けを求めていたのに。
演劇部の大切な公演で、素人の自分を主役に抜擢したのはどうして。幸せの青い鳥を探す子どもの役を自分に宛てがったのは何で。それは、気付いて欲しかったからだろう。見付けて欲しかったからだろう。
ぎゅっと握り締めた拳が軋んだ。命の無い二人に縋り付くことも出来ないまま、霖雨は驟雨に連れられて屋根の下へ入った。運び出されていく二人は微かに笑っていた。満足? 本当に?
「俺、は、」
崩れるように座り込めば、驟雨が膝を着いて肩を抱く。霖雨は誰にとも無く言った。
「助けたかった、のに……。助けてやりたかったのに……!」
驟雨は黙って、霖雨の肩を強く抱いた。
お前が苦しむ必要なんて無い。あいつ等はお前を恨んだりしない。お前は間違ってないよ。そう言ってやりたかったけれど、今の霖雨はそれすらも茨に変えて闇の中に沈んでいくだろう。驟雨はその男子生徒にしては細い肩を抱くことしか出来なかった。
泣くこともせず、自分を責め続けるこの少年をどうしたら救えるのだろう。
その時、霖雨の足元から金色の光がふわりと浮かび上がった。蛍のような淡く優しい光に包まれながら、霖雨の瞼が下りていく。
(もう、十分だ)
春馬の声がした。ゆっくりと瞼を押し上げた瞳の中に、金色の光が宿る。春馬だ。
「霖雨……」
泣き出しそうだったのは、霖雨だろうか。それとも、春馬だろうか。
忙しなく動き回る警察関係者達には何も見えないだろう。春馬は自らの体を抱き締める。
「時の扉を、開くよ。……霖雨を救ってやりたいから」
時の扉とは謂わばタイムカプセル。その中に、霖雨が今抱えている絶望や悲愴を全て押し込めるというのだ。驟雨とて、霖雨が救われるならそれでいい。けれど、きっと霖雨は後悔する。何の感情も残せなかった自分自身を責め続ける。
驟雨は言った。
「霖雨は、きっと大丈夫だよ。あいつは必ず、向き合える。だから、何も無かったみたいに押し込めるのは止めてくれ……」
「……驟雨」
「頼むから。俺が、ずっと傍にいる。だから」
懇願するように驟雨が言葉を続ければ、春馬が苦笑した。その目には金色の光が揺れている。
「解ったよ……」
春馬がそう言った時、足元から浮かび上がっては消える金色の光が強く輝いた。ゆっくりと瞼を下ろす春馬が静かに言った。
「霖雨を頼む」
微笑んだ春馬がどうしてか、泣き出しそうに見えた。そして、驟雨は見たのだ。
春馬の手首を戒める金色の鎖を。その足元は泥沼のように底の見えない奈落に引き摺り込まれそうになっている。
「――春、馬」
何だこれは。
咄嗟に手を伸ばすけれど、春馬は微笑むだけで何も言わなかった。
お前は何者なんだ?
問い掛けたとしても、春馬は答えないだろう。けれど、驟雨は思い出す。以前、春馬は時の扉を封印するには霖雨の命を犠牲にしなければならないと言った。元々、時の扉は封印されていたものだ。それは、どうして?
春馬は、封印したのだ。嘗て、自らの命を犠牲にして――。
「霖雨が言ったんだ」
ぽつりと、春馬は言った。
「俺を助けたいと、言ったんだ。それだけで、俺はもう十分なんだよ。俺のことを大切だと言ってくれる。それだけで、本当に十分なんだ」
翳した掌に光が浮かび上がる。
「この場所に溢れる深い悲しみと、憎悪は俺が封印する。だから、後は頼むぜ」
一瞬、世界がスパークした。白く塗り潰された視界が再び明瞭になるまで数秒。驟雨はその目を擦りながら、雨の降り頻る何処か穏やかな屋上を呆然と眺めた。
壁に背を預けた霖雨は俯いたまま、動かない。眠っているようだった。そういえば、大佐和が失踪して以来、碌に眠っていないのだと思い出す。
春馬は、霖雨の感情は封印しなかった。目を覚ました時、霖雨はどんな顔をするだろう。取り乱して暴れるだろうか。何事も無かったかのように平然を取り繕うのだろうか。何れにしても、自分は必ずその傍にいる。
寝息を立てる霖雨を担ぐように立ち上がると、慌ただしく階段を駆け登って来る香坂と林檎が見えた。遅ぇよ、と悪態吐きながらもその口元は微かに笑っている。
大佐和が何を思ったのか、麻田が何を願ったのかは驟雨には解らない。自殺する心理など、解りたくもない。
気付いてやりたかったと霖雨は嘆くのだろう。けれど、彼等こそ、気付くべきだった。味方がいただろう。お前らが一声、助けてと言えば、こいつは何に替えてもお前らを救おうとしただろう。
チルチルとミチルは、長い旅の末に青い鳥を見付ける。
幸せは何時だってすぐ傍にあるのだ。
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