23.袖すり合うも他生の縁






 体が、鉛のように重かった。鳴り止まない耳鳴りと、脳を直接叩くような頭痛の正体は既に気付いている。
 足元に纏わり付くのは疲労だろうか、亡者の手だろうか。鼓膜を揺らすのは悲鳴だろうか、怒号だろうか。頭蓋に響く痛みは物理的なものなのか、それとも。
 指先の震えを隠すように、強く拳を握った。無人だった自宅は、主が帰宅しても物音一つしない。傾いた西日が古い畳を焦がしていく。時計の針は垂直だ。午後六時半。こんな時刻に帰宅するのは随分と久しぶりだが、その裏で香坂が自分に代わってバイト先の居酒屋に出勤しているのだ。香坂には申し訳無いと思うけれど、それ以上に疲弊していた。身体も、精神も。
 寝ようと思った。深い森の奥、泥濘の中を手探りて藻掻いているような気分だった。布団を敷こうと押入れに手を伸ばすけれど、力が入らず崩れ落ちるようにその場に膝を突くと、もう体を起こしていることすら出来なかった。そのまま前方に倒れ込む。焼けた畳の臭いがした。
 一向に眠気は現れないのに、起き上がることが出来ない。脳が痺れるように痛む。握り締めた掌に、あの時触れた給水塔の蓋の冷たさが鮮明に蘇る。水中に漂う二人の姿が目に焼き付いて離れない。二人は死しても尚、固く手を結び、微笑んでいた。幸せだっただろうか。満足だろうか。――本当に?
 助けたかったと言うのは、烏滸がましいだろうか。友達だと訴えるのは、勝手だろうか。俺に何が出来ただろう。どうすれば、彼等を救えたのだろう。
 胸の内に黒く冷たい澱が溜まっては固まっていく。堂々巡りの思考に囚われてはいけないと解っているのに、それでも考えることを止められない。


「ごめん、な……」


 届く筈が無いと解っているのに、独り言のように呟いた。それがまるで合図だったかのように、自己満足の懺悔は津波のように一気に溢れ出た。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。気付けなくて、救えなくて、助けられなくて、届かなくて、守れなくて……!」


 握った拳が軋んだ。掌に爪が食い込み、薄い皮膚を破る。けれど、血が滲んでも力を抜くことが出来なかった。
 それはまるで何かを堪えるように、祈るように、縋るように。


「ごめん……!」


 伸ばせば届いた手が、声が、祈りが、脳内で木霊する。
 漏れそうな嗚咽を噛み殺すと、奥歯が悲鳴を上げるように軋んだ。掌からこぼれ落ちた一筋の血が畳に染み込んだ。

 玄関の外、薄い扉に背を預けながら驟雨は細く長く息を吐き出す。烏の声が遠くへ消えていく。夕焼けに浮かぶ染みのような黒点は巣に帰るのだろうか。ぼんやりと空を眺めながら、扉の向こうに聞こえる懺悔と嗚咽に胸が傷んだ。
 あの後、意識を取り戻した霖雨は何事も無かったかのように取り繕ったけれど、生気の無い面は蒼白でまるで死人のようだった。平気だとぎこちなく笑う霖雨がそのままバイトへ向かおうとするのを引き止めて、香坂が代わって出勤している。驟雨は食い下がる霖雨を無理矢理バイクの後ろに乗せて家まで送ったのだ。雨は既に上がって美しい夕焼けを見せている。
 弱音一つ吐かなくて、涙一つ見せない霖雨は、強い反面で脆いと驟雨は思った。


「お前は悪くないよ。誰もお前を恨んだりしないよ」


 この言葉が届かないと解っている。否、だからこそ呟いたのだ。
 全てを救えるとでも、思っているのだろうか。神様にでもなったつもりか。そんな考え自体が烏滸がましいと、驟雨は思う。けれど、目の前で助けを求める人がいれば何に変えても守りたいと願う霖雨の気持ちが痛い程に驟雨には解るから、口が裂けても言えなかった。
 つまり、霖雨は優し過ぎるのだ。誰がどんなに骨を砕こうと救えないものがこの世にある。努力が実るとは限らない。そう解った振りをしているから、傷付くことになるのだ。春馬はその傷から霖雨を守ろうとしたけれど、驟雨はそれをさせなかった。傷付かない人間などいない。人は失敗や挫折を繰り返しながら成長していく。傷付いて欲しくないと思うけれど、強くなって欲しいと思う。


「頑張れ、霖雨」


 霖雨はきっと立ち上がれる。驟雨は口元に笑みを浮かべて、扉から離れた。

 太陽が死んだ。葬式のように夜の帷が降り、霖雨は目を開いた。気付かぬ内に眠ってしまっていたらしい。泥のようだった体が幾らか軽くなり、掌の出血は固まっていた。携帯で時刻を見れば午後十時。人をバイトに行かせておいて、怠惰な生活だなと嗤った。――そうして、自分が笑えるようになっていたことに少なからず驚いた。


(俺は笑えるのか)


 熟熟、軽薄な人間だと思う。数時間前の出来事を、既に過去のものとして忘れようとしている。それが人間の防衛機能だとしても、なんて愚かなのだろう。額を押さえながら、嗚咽に代わって自嘲を零した。
 香坂もバイトから帰っただろう。無事終わったという業務連絡と、此方を労わる内容のメールが届いていた。人が良いと言うか、良過ぎると言うか。
 家電製品が殆ど無い自宅は、時間を潰すものなど何も無い。このまま朝まで眠る気も起こらなくて、娯楽も無い。手持ち無沙汰で、補導される時刻と解っていながら何気無く玄関の扉を押し開けた。と、同時にカランと何かが転がる音がした。


「……お茶?」


 扉に押されて転げたのは、缶のお茶だった。近所にある自動販売機で買ったのだろう。見覚えのある銘柄だ。
 温い夜風に当てられて冷たくも熱くも無くなっているが、それを手に取った時、不意に驟雨の仏頂面が浮かんだ。差し入れのつもりなのだろうか。それにしても、何でお茶?
 訳が解らないところも、不器用な優しさも驟雨らしくて笑った。一段低いコンクリートをローファーで叩く。湿った風が頬を撫でた。
 夜の町は静かだった。学校であんな騒ぎがあった後で、マスコミからは相当叩かれただろう。自宅に情報機器が無いので解らないが、今ももしかすると報道されているのかも知れない。第一発見者として嵐のような取材を受けずに済んだのは驟雨や林檎のお陰なのだろう。
 雨上がりの濡れたアスファルトを自動販売機の無機質な光が照らしている。それは、時の扉とは明らかに異なる光だ。
 春馬はどう思っているだろうか。大佐和と麻田を捜索する中、ヒントをくれたのは春馬だ。後に自分を守る為に外界を遮断したのも春馬だ。彼は何時も当たり前のように守ってくれる。救ってくれる。
 俺は、あいつに何が出来るだろう。春馬は何者なのだろう。人の事情を詮索するのは趣味ではないけれど、知らなければいけないような気がしていた。
 時の扉――。嘗ての禍である人の憎悪や悲愴、憤怒や絶望を封じ込めたタイムカプセルのようなものと春馬は言っていた。だが、春馬は重症を負って生死の境をさ迷う霖雨を救う為に扉を開いた。結果として其処から漏れ出したものが禍として人々に降り注いでいる。
 影辻の時の秋水も、一打席勝負を仕掛けて来たヤマケンも、世間から追い込まれた蜜柑も、――心中した大佐和と麻田も。全ては時の扉の影響だ。それはつまり、自分のせいということだ。
 謝っても謝っても謝っても謝っても足りないのだ。全部、俺のせいだ――。
 行き先も解らぬままに歩いていた足が止まる。立っていることすら億劫になって、しゃがみ込みたい気分だった。家に篭っていればよかった。そうすれば、誰も傷付けずに済む。傷付かずに済む。辺りは静かだ。まるで、この世界に自分が独りぼっちのような気がして自嘲した。そうだ、俺は独りきりなんだ。
 その時だ。


「――てめぇ!」


 静寂を打ち破った誰かの怒声にはっとした。続け様に鈍い音がして、喧嘩だろうかと検討を付ける。五階建てのマンションの下、ゴミ置き場の中からくぐもった声がする。これまで聞こえていなかっただけで、本当はずっと聞こえていたのかも知れない。――大佐和と麻田の助けを求める声のように。
 導かれるようにして、鉄製の大きな扉を押し開ければ外灯の白い光が差し込んだ。鼻を突く腐臭と、血の臭い。闇に蠢いていた人影がざわりと揺れ動く。


「何だ、お前!」


 勇み足で此方に詰め寄る男はえらくがたいが良いが、残念ながらスポーツマンには見えない。
 やはり、喧嘩だ。興味本位で首を突っ込んでしまったが、このまま退散するべきだ。そうして黙って踵を返そうとして、光に照らされた先に見覚えのある顔があった。


「お前は」


 光に透ける金髪と、此方を睨むような鋭い目。月光を反射する無数のピアス。脳裏に焼き付いた罵声と、振り上げられた拳、木刀。こいつは。


――俺の一発を受けて立ち上がったら、この女を解放してやるよ


 林檎を拉致した男達の、リーダーだ。
 今日は仲間はいないのか独りきりで、喧嘩している。否、これはリンチと言うのだろうか。壁際に座り込んだ金髪の男は傷だらけだった。小奇麗な顔が台無しだな、なんて皮肉っぽく思った。
 出口に向かって歩いていた筈の足は、自然とその男の元へ進んでいた。動揺する男達は動けず、金髪の男は怪訝そうに眉を寄せる。


「大の男がみっともねぇ。ほら、立てよ」


 俺は何をしているのだろう。恨みこそすれ、手を差し出す義理なんて無いのに。
 驚いたように金髪の男が目を丸くする。取り囲む男達は口々に汚い罵声を浴びせるが、聞き取れなかった。


(なあ、春馬)


 この声が届くのかは解らない。


(お前は馬鹿だって笑うかも知れないけど)


 差し出した手は取られない。取り囲んでいた内の一人が乱暴に肩口を掴み、体が揺れた。
 金髪の男が何か言おうと口を開く。全てがスローモーションのように見えた。


(全てが救えるだなんて、思っちゃいないよ。それでも、目の前の一人は、救えると信じたいから)


 男の拳が霖雨に向けて振り上げられた。金髪の男が何かを叫ぶ。霖雨は手を差し伸ばしたまま動かない。苛立ったように金髪の男が霖雨の手を掴み、引き寄せた。拳が空を切り、霖雨は汚れた床に倒れ込む。


「馬鹿か、てめぇは!」


 金髪の男が怒鳴る。霖雨はゆっくりと体を起こしながら笑った。


「馬鹿じゃねぇよ。俺はただ、待ってたんだ」


 誰もを魅了するような美しい相貌は、泥に汚れていた。けれど、微笑みさえ浮かべる霖雨の大きな瞳には蛍光灯の反射とは明らかに異なる光が宿っている。
 霖雨は言った。


「お前が、手を取るのを――」


 言われて、金髪の男はその手を見た。霖雨の手を掴んだ感触が確かに残っている。
 訳が解らなかった。どうして、こいつが此処にいる。どうして、自分に手を差し出す。どうして。
 霖雨の後ろで男達が拳を、足を振り上げる。それまで動かなかった体が、スイッチでも入ったかのように軽々と動き出し、鈍間な彼等の手足を掻い潜ってその腹を抉った。
 背後で呻き声がして反射的に振り返る。見ればしゃがみ込んだ霖雨の上で、男達が互いの顔に重い一発を入れて倒れるところだった。霖雨が白い歯を見せて子どもっぽく笑う。
 素早く二人で背中を合わせた。金髪の男が忌々しそうに言った。


「何で、こんなところに」
「知らねぇよ。偶然、此処に来んだ」
「何で、俺を助ける」
「当たり前だろ。――お前が俺の手を取ったんだから」


 取り囲む男達がじりじりと距離を詰める。絶体絶命の状況で、霖雨は笑っている、釣られるようにして、金髪の男も笑った。






「――ほらよ」


 ぶっきらぼうに、金髪の男が言った。投げ渡された缶コーヒーを受け取って霖雨は苦笑する。ポケットにはもう一つ、驟雨が差し入れた温い茶が入っていた。
 ゴミ置き場で倒れた男達に目を遣って、金髪の男は手元の缶コーヒーに目を落とす。プルタブを起こすと微かにコーヒーの匂いがした。扉に凭れ掛かる霖雨は片膝を立てて、ぼんやりと遠くを眺めている。草木も眠る丑三つ時。出歩く人間はろくな人間ではないだろう。白い外灯に照らされながら金髪の男は言った。


「お前、訳解んねぇな」


 呆れを含んだ口調で男は言う。霖雨は苦笑するばかりだった。
 人の喧嘩に首を突っ込んで、助けに来たのかと思えば霖雨は一度だってその拳を振り上げなかった。同士討ちを誘うような動きはしていたものの、実質、奴等を倒したのは金髪の男だ。霖雨は言った。


「暴力は嫌いなんだ」
「はっ、馬鹿馬鹿しい。なら、余計なことしてんじゃねぇよ」
「その余計なことをしなかったら、今頃あそこで倒れているのはお前だっただろ」


 皮肉っぽく言って霖雨は笑う。整った顔に悪童のような笑顔が浮かび、男は眉を顰めた。
 霖雨を初めて見た時、人形のようだと思ったのだ。感情一つ表さず、何もかも諦めて、自分が世界の不幸を背負い込んだかのような顔で独り空を眺めていた。林檎の一件が無くても、何時か自分はこいつを殴ってやろうと思っていたのだ。それが何の因果か、こうして肩を並べている。


「お前、名前は?」


 唐突に霖雨が言った。教える義理も無かったが、男は口を開いた。


「……佐丸だ。佐丸、燈悟」
「佐丸か。改めて、俺は常盤霖雨だ」
「知ってるっつうの」
「挨拶は基本だろ?」


 悪戯っぽく笑う霖雨に、佐丸は呆れたように溜息を零した。
 こいつ、こんなに笑うんだな。そんなことを思った。


「友達になろうぜ」
「――は?」


 話の脈絡の無さについて行けず、佐丸は眉を寄せた。だが、霖雨は何でもないことのように楽しげに笑っている。


「こうして会ったのも、何かの縁だろ?」
「気持ち悪ィこと言ってんじゃねぇよ! 大体、俺は」


 お前に恨みがあるんだぜ、と言おうとして佐丸は黙った。恨みなど無い。あるとすればあの日、霖雨を助けに来た驟雨に対する逆恨みだけだ。
 笑顔を崩さない霖雨を横目に見て、佐丸は気付いた。こいつ、さっきからずっと笑ってるな。
 先程は、笑えるんだなと思った。けれど、今は笑うことしか出来ないんだなと気付いた。この男の内心がどうなっているのかは解らないけれど。


「……手を伸ばしたのは、お前だろ」


 そして、手を取ったのは自分だ。
 そう言って佐丸は照れ隠しのように缶コーヒーに口を付ける。霖雨が一瞬驚いたような顔をして、また、笑った。


「明日も学校だっつうのによ。こりゃ、居眠りは確実だな」


 学校という単語で、互いに同級生だったことを思い出した。佐丸はそういえば、と口を開く。


「そういえば、今日、警察が来てやがったな」


 そう言った瞬間、霖雨の表情が固まったのを佐丸は見逃さなかった。それに気付かない振りをして話を続ける。


「何でも、生徒と教師の心中とか。その二人は出来てたらしいじゃねぇか。ったく、昼ドラかっつうの」


 霖雨がぎこちなく笑おうとするその様が、余りも痛々しくて佐丸は黙った。見る見る内に霖雨の表情は曇り、俯いてしまう。この一件に霖雨が絡んでいることは誰の目にも明白だった。


「お前、何か知っているのか?」


 はっきりと佐丸が問い掛けると、霖雨は膝を抱えたまま言った。その声は微かに震えていた。


「――俺の、せいなんだ」


 聞き取りづらい声だったが、その意味を考えて佐丸は首を傾げる。この一件は、生徒と教師の心中だ。教師の机から睡眠薬が発見され、二人の足を結んだロープの先の重石からは生徒の指紋が検出されている。別れなければ学校に暴露すると、他生徒から言われたことが切欠で間違いないだろうということだが、演劇部内で起こったこの事件に霖雨がどのように関与するというのだろう。
 そういえば、今回の舞台で主役に抜擢されたのはこいつだったな、と佐丸は思い出した。見る人を選ばない美しい容姿が理由だろうと解ったが、忌々しいと思ったのも事実だ。
 何があったのかは知らない。興味も無い。けれど、独り罪悪感を抱える出来たばかりの友達を無視するほど、佐丸の神経は太くはない。こんな時こそ傍にいてやれよ、と思い出すのも胸くそ悪いが、人を食ったような驟雨の顔を頭に浮かべた。


「お前が何をやらかしたかは知らねぇが、起こっちまったもんはしょうがねぇ。謝ったって死んだ人間には届かねぇよ」


 そう言い捨てると、霖雨が何かを堪える子どものように膝を抱える手に力を込める。その様子を横目に見ながら、佐丸は続けた。


「過去をやり直すことなんざ、誰も出来ねぇよ。だがな、未来を変えることは誰にでも出来る。やろうとするか、しないかだ。其処で蹲ってりゃ楽だろうがな、それじゃ何にもならんのよ」


 此処に驟雨がいれば、知ったような口を聞くなと食ってかかるのだろうか。だが、俯いたままでいた霖雨がゆっくりと顔を上げる。満身創痍の此方とは対照的に、衣服の乱れはあっても傷一つない。


「……ありがとな、佐丸」


 その双眸には確かな光がある。佐丸は口を尖らせた。


「……感謝される謂れもねぇよ」
「はは」








2011.6.12