24.剣の刃を渡る
校門の前には予想通り、マスコミ関係者が押し寄せていた。登校する生徒を捕まえては神妙な顔付きで、死んだ大佐和と麻田の関係をあれこれと詮索している。幾ら箝口令が敷かれていても、学区内を教師が見回りしても殆ど意味など無いだろう。
林檎と共に登校した霖雨は重い鞄を背負い直す。教科書を置きっぱなしにしている林檎から見れば馬鹿げた行為らしいが、幼少の頃から大切なものは手放してはならないと解っている。忘れて置きっぱなしにした教科書がどんな目に遭ったかと、忘れる霖雨ではなかった。
門前払いを受けたマスコミが、霖雨と林檎に気付いて声を掛ける。テレビカメラとマイクが此方に向いた。このまま大佐和と麻田のことを軽々しく語れる程に無神経ではなかったので、校内に入ってしまおうと早足に前へ進む。
「――よう」
校門に入ってすぐのところの植え込みで、驟雨と香坂が揃ってしゃがみ込んで此方に手を振った。見るからに柄が悪い。
驟雨は薄っぺらな鞄を抱えて立ち上がり、ずり落ちそうなズボンを少しだけ上げて霖雨の隣に並んだ。
「喧しい蝿どもだな」
マスコミのことを言っているのだろう。相変わらず、驟雨にとって他人はどうだっていいようだ。煩わしいと顔が、態度が言っている。
衣替えを終えた生徒達は皆、半袖のYシャツにグレーのボトムス。人によってはネクタイやリボンをしている。初夏を迎え、太陽は日に日に強さを増して、容赦無く地上を焼いている。眩しい太陽光線を掌で遮る驟雨の目は険しい。そこで、驟雨の右腕に包帯が巻かれていることに気付いた。
「驟雨、怪我してるのか?」
訊けば、驟雨は思い出したというように右腕の包帯に目を遣った。
「ああ、バイクで転んじまった。雨の日のマンホールは滑るからよ」
けらけらと笑いながら話す驟雨の様子から、大した怪我ではないのだろうと思った。下駄箱にローファーを仕舞う右腕の動きにも違和感は無い。気をつけろよ、と言えば驟雨が苦笑した。
上履きを取り出し足を通す。林檎と香坂が先で待っていた。急ごうと上履きを突っ掛けて早足に向かおうとすると、驟雨が隣に立った。
「もう、大丈夫そうだな」
その言葉が何を指すのか何となく解って、霖雨は少し笑った。
「ありがとな、驟雨。色々と助けてくれて」
「俺は何もしてねぇよ。……何も、出来なかったよ」
困ったように眉を寄せて驟雨が言った。
大佐和と麻田を見付けたのは霖雨だ。それによって傷付いたのも霖雨で、自ら立ち直ったのも霖雨だ。労りの言葉一つ掛けてやれなかったのに、感謝される義理も無い。春馬のように傍で支え続けることも、形振り構わず守ろうとすることもしなかった。
笑顔を見せる霖雨に翳りは無いけれど、その理由など驟雨には解らない。どうして彼は笑えるのだろう。救うことの出来なかった自分への怒りはあっても、自殺なんて答えしか導き出せなかった愚かな二人を恨もうなどと微塵も考えていない。それはどうして。
「あいつ等を恨んでいるか?」
何気無くそう問い掛けると、霖雨が驚いたように目を丸くした。
「恨む? 誰を?」
「……あの二人だよ」
答えても訳が解らないように霖雨は瞠目する。
「恨む理由なんて無いよ。……あの二人が俺を恨む理由なら、あってもね」
自嘲するように言って、霖雨は目を伏せた。
それこそ、恨む理由なんて無いだろう。驟雨はそう言ってやりたかった。こいつはいつもそうだ。人から向けられる身勝手な感情を仕方がないと受け止める癖に、自分は決して人を恨んだり憎んだりしない。
自分を置いて死んでいった両親も、遺産目当てで引き取っては盥回しにした親戚連中も、皆、許すというのだ。
(なあ、春馬)
この声が届けばいい。
(こいつは強いよ。お前が思うよりも、俺が願うよりもずっと強く)
教室へと続く階段は、大きな窓から眩い程の朝日が差し込んでいる。林檎に急かされながらも、霖雨は振り返ることを忘れない。驟雨は早足に階段を駆け登った。
授業開始の時刻は目の前だった。駆け足に階段を登っていく生徒達の合間を塗って、四人もまた教室へ向かう。響き渡るチャイムに香坂が「やべえ」と呟いた。遅刻常習犯の香坂と驟雨にとって遅刻は出席日数に関わる。急げ急げと呪文のように口にしながら香坂が教室に駆け込む。霖雨と林檎はその扉を通り過ぎて自分のクラスへ向かう。途中、驟雨が背中に言った。
「また後でな」
ひらひらと片手を振って教室の中に消えていく驟雨の後ろ姿を尻目に、霖雨もまた自らの教室の扉を潜る。丁度、林檎の出席が取られた瞬間で、彼女が返事をすると教室は笑いに包まれた。
穏やかで平和な日常。校門には今もマスコミが殺到しているけれど、学校生活は切り離れたように静かな日常だ。クラスメイトと挨拶を交わす林檎の後ろで、影のように歩きながら窓際の一番後ろの席へ進む。出席が取られて初めてその存在を認識されるけれど、誰も気に掛けたりしない。それが霖雨にとっての日常だった。――けれど。
「おはよう、霖雨」
掛けられず筈の無い声に振り返る。前を向いたまま、視線は動かさず固い表情でヤマケンが言った。
ヤマケンらしいな、と苦笑しながら彼にだけ届くような声量で挨拶を返す。その少し後ろからも、また。
――霖雨、おはよう
目を遣った先に、大佐和がいた。世話好きで優しいクラスメイト。此方を見て微笑むその姿は、一陣の風と共に消え失せた。後に残るのは、机の上の花瓶と菊の花。もう、いない。何処にもいない。
大佐和は死んだのだ。その遺体を見付けたのは他ならぬ自分自身で、それは要するに動かすことの出来ない事実ということだ。一抹の希望すら残さない絶対的な真実。
目を伏せて席に着く霖雨の姿を、林檎だけが見詰めていた。HRは事務的な内容の伝達のみで終了し、早々に一時間目の授業の準備を始める。数学の教科書を並べればチャイムと同時に、教師が扉を潜った。
窓の外に広がるグラウンドでは、体育の授業が行われている。サッカーのようだ。数名の男子生徒が協力してゴールを運んでいるところだった。指示を飛ばす体育教師の前に整列した女子生徒が何やら楽しげに笑い合っている。
二人組での準備運動から、リフティングの練習が始まる。そういえば、と思い出す。二人組を組めと支持されていつも溢れてしまう自分に進んで声を掛けてくれたのは、大佐和だった。相手に事欠かないだろう筈のクラスの人気者がどうして自分などを相手にするのだろうといつも不思議だった。人気稼ぎのつもりだと囁く生徒もいたけれど、そんなことはどうでもよかったのだ。ただ、存在を認めてくれたことが何よりも嬉しかった。
(なあ、大佐和。俺、今度から誰と組めばいいのかな)
準備運動も、リフティングも、独りじゃ出来ないよ。ゲーム練習は誰からパスしてもらえるのかな。
なあ、大佐和。教えてくれよ。
届かないと解っているのに、問い掛けることを止められない。給水塔の中で死んだ大佐和は何を思ったのだろう。麻田と固く手を握り合って、あの世で一緒になろうと誓い信じたのだろうか。死んだら終わりだろう。死んだら、もう、終わりだ。もう届かない。
眼窩の奥がじわりと熱くなって、そのまま何かが零れ落ちてしまいそうだった。
なあ。
呼び掛けた瞬間、遠くから明らかに違法改造されたマフラーの騒音が響き渡った。反射的に其方を向けば黒い群れが地を這うように集まっていく。否、此処へ集結しているのだ。サッカーをしていた生徒達は悲鳴と動揺の声を上げて校舎へと走っていく。あちこちのクラスから野次馬が顔を出し、校門付近のマスコミが道を開けつつもシャッターを切る。
エンジンの音がする。それは香坂や驟雨が乗り回すバイクとは違う不快な音だ。運転者は毒々しい染髪と無数のピアスを耳や鼻に空け、相乗りする者は凶器としか感じられない木刀や金属バットをぶら下げている。
「何だ、あいつ等――!」
誰かが叫んだ。それが合図だったかのように学校は混乱に包まれた。それは時の扉の影響にもよく似た地獄のような光景だった。動揺を隠せないクラスメイトを尻目に、霖雨だけが何処か冷めた目でその様を眺めている。
男性教諭が数名固まって何やら会話を試みる。その反面で既に警察には連絡してあるだろう。ざわめき立つ生徒達、ここぞとばかりにカメラを回すマスコミ陣。滑稽だな、と溜息を零したその瞬間。
乱入者の群れが、ざわりと揺れ動いた。
昇降口から現れる一人の男子生徒。
「――驟雨」
霖雨の声は悲鳴にかき消された。
狂気に包まれたグラウンドに、ポケットに手を突っ込んだまま歩み寄っていく後ろ姿は間違いなく驟雨だ。先程、後で会おうと別れたばかりのその背中は真っ直ぐに伸びて振り返ることも無い。
「桜丘だ」
傍で誰かが言った。
驟雨は先頭でバイクに跨がる男に何か話し掛けるが、その背中には隠し切れない怒気が湧き上がっているようだ。そして、一言二言、言葉を交わすと男達は先頭の男の合図でグラウンドから去っていった。驟雨は微動だにせず、その光景をじっと見ている。
再び訪れた静寂で、生徒達が口々に言った。
「隣のクラスの桜丘だろ?」
「あの、血の霧雨の?」
「怖いよ。不良同士の抗争?」
何の被害も受けていないだろう生徒達が、揃って被害者ぶる。訳の解らない状況について行けず、周囲を見回せば傍に来ていた林檎が不安そうに袖口を掴んでいた。
「……大丈夫だよ」
何の根拠も無いけれど、そう言えば林檎は力無く笑った。
驟雨はそのままグラウンドを突っ切って学校を出ていく。マスコミ陣はこの騒ぎを調べるべく動き出し、驟雨の姿など見えていないようだった。
ここから叫べば、驟雨に届くだろうか。ぐ、と喉に力を込めるが声は発されることはなかった。振り返らない驟雨の背中は街の中に消えていく。このまま二度と戻らないような気がして、胸の内に靄のようなものが満ちていくのが解った。
結局、驟雨が学校に戻っては来なかった。メールも電話も通じず、学校中では不良同士の抗争だという偏見によるデマが流れた。大佐和の一件で身勝手なデマが流れることには耐性が出来たつもりでいたけれど、それでも何も知らない人間が勝手なことを言っていれば腹が立つし、言い返してやりたい。
けれど、同時に思うのだ。自分は驟雨の何を知っているのだろう。
大佐和と麻田が自殺した屋上で昼食を取る気にはなれず、仕方無しに体育館裏の石段でコンビニの袋を広げる。誰もいない空間に、体育館からボールの弾む音がした。大方、昼休みの体育館でバスケットボールでもしているのだろう。小気味いい音を聞きながら惣菜パンを齧る。ポケットで携帯が震えた。驟雨だろうかと期待を込めて開くけれど、其処には林檎の名前があった。昼休みになってすぐに姿を消した自分を探しているのだろう。申し訳無いと思う反面で、独りになりたかった。
耳鳴りがする。脳を痺れさせるような高音に目眩がした。だが、再び震えた携帯に香坂の名前が表示された。電話だ。
「……もしもし?」
『おい、てめぇ、霖雨』
唸るような香坂の声に喉が詰まる。だが、香坂は此方の反応など気にもせず言った。
『何処にいるんだ。……この音は、体育館か?』
「いや、違う」
『じゃあ、体育館の傍だな。お前の性格からして、裏にでも隠れてんだろ。すぐに行くから、待ってろ』
勝手に切れた通話に溜息を零す。
待っている義理も無い。食べ掛けのパンを袋に戻し、重い腰を上げた。けれど、その時。
「――オメー、こんなとこで何してやがる」
背後から聞こえた声に肩が跳ねた。聞き覚えのある声に恐る恐る振り返れば、予想通りの男が仏頂面で立っている。面倒臭そうに両手はポケットに突っ込んだまま、此方を胡乱な目付きで見ている。
染められた金髪は、薄暗い体育館裏へ僅かに差し込んだ日光に透けていた。ぞんさいに言い捨てる男に、それは此方の台詞だと霖雨は苦笑した。
「メシ、食ってただけさ。それより、お前こそどうして此処に? ――佐丸」
佐丸は鼻を鳴らした。
「一服してたんだよ。お前は、食い掛けのメシぶら下げて帰るってか?」
「別にいいだろ」
「なあ、桜丘のことだけど」
その単語に動揺を隠せなかったのは不覚だった。佐丸もそれに気付いただろう。否、此方の反応を窺う為にその名を口にしたに違いない。だが、佐丸は何も言わなかった。それと当時に、香坂が到着したのだ。
「選りにも選って、こんなところでメシ食いやがって。隠れてたって言われても、仕方ないぜ。――いや、逢い引きか?」
揶揄するような口調なのに、その目は欠片も笑ってはいない。香坂は霖雨を見ると共に、隣の佐丸の姿を認め舌打ちをした。
「何で、お前が此処にいる」
「侵入者はお前だぜ?」
佐丸は口角を釣り上げ、石段にどっかりと座った。忌々しそうに睨む香坂が、どうして佐丸を知っているのだろう。妙な組み合わせだな、と他人事のように霖雨は思った。
「答える義務は無いな。来い、霖雨」
「同感だ。――だが、お前の言い様は癇に触る」
懐から煙草を取り出し佐丸はそれを銜えた。手には安っぽいライターが握られている。
堂々と煙草を吹かすその様は大凡学生とは思えない。佐丸は焦げた煙草の切っ先を突き付けて笑った。
「世話焼いてるつもりか? それとも、優越感に浸ってるだけか?」
「何?」
「お前の言い草は腹が立つって言ってんだよ。話がしたいなら、此処でしろ。用があるのはテメーだろ?」
苦々しげに香坂は舌打ちを一つ零し、そして、その場に胡座を掻いた。佐丸の言葉は腹立たしいが、尤もだ。焦りの余り気に掛ける余裕が無かったけれど、此方の都合の為に霖雨を移動させるのは理不尽だ。冷静になった頭で、けれどしゃくだと香坂は溜息を零した。
「驟雨から、連絡はあったか?」
突然、香坂はそう切り出した。霖雨が首を振ると、やはりなと香坂は肩を落とす。
「あいつから何か連絡があったら、教えてくれ」
「解った。――なら、お前も俺に教えてくれ」
噛み締めるように霖雨は言った。
「驟雨は、一体何に巻き込まれているんだ?」
あの騒ぎは尋常ではない。驟雨は心配掛けまいと全てを背負い込む節がある。それが霖雨にとってどんなに悲しいことなのか、自らを省みて漸く解った。霖雨は唇を噛んだ。
そんな霖雨を見て香坂は苦笑した。
「巻き込まれるも何も無いさ。ただの喧嘩だ」
「それにしても派手だな。流石は血の霧雨、桜丘驟雨」
「喧嘩って……」
人を殴るどころか、手を挙げたことすらない霖雨にとってはその喧嘩というものは現実味を帯びない。
言葉を探す霖雨に、香坂はさらりと告げた。
「元々、あいつとお前は住む世界が違うんだよ。驟雨にとって喧嘩は日常だからな」
「それは、俺に関わるなってことか?」
「驟雨はそう思っているということだ。だから、お前に何も言わないんだろ?」
その通りだな、と霖雨は思った。自分達は何時でもそうだ。相手を信頼し、大切に思うからこそ本音を抱え込む。
言いたくないならそれでいい。話したくない相手に干渉しようとするのは悪趣味だ。だけど、それで失うのはもう嫌だ。過剰に干渉しないことで、何も出来ないまま失ってしまうのなら、何の意味も無い。
「言いたくないなら、言う必要は無い。でも、俺は放っておかない。あいつが俺を助けてくれたように」
「理解出来ねぇな。お前が助けようとする理由も、価値も、意味もな」
「解らなくていいんだよ。お前にも、驟雨にも」
困ったように霖雨が笑う。
何かを言おうと香坂が口篭った。けれど、そのまま黙りを決め込んだ様から、言う気は無いらしいと判断する。霖雨は香坂の横を通り抜けた。頬を撫でる風と共に、香坂が振り返る気配を感じたが、霖雨は背を向けたまま進んでいく。佐丸が言った。
「伊庭半司」
足を止め、振り返らない霖雨の背中に、佐丸は目も向けず独り言のように言う。
「Lsっつう暴走族のヘッドだ。さっき、あの集団の先頭にいた奴がそうだ。この界隈じゃ有名な話だが、桜丘とは随分親交が深かったみたいだぜ?」
聞き覚えのない単語だな、と霖雨は顎に指を当て考え込んだ。
血の霧雨と言わしめるまでに喧嘩で腕を鳴らしたという驟雨なら、暴走族のヘッドと親交があっても何ら不自然ではない。そして、驟雨が誰と交流があっても自分の干渉するところではない。だが、あの時の驟雨は明らかにおかしいし、学校に大勢で乗り込んで来た集団も友人に会いに来たとは到底思えない姿だった。
余計なことを、と香坂が舌打ちする。くつくつと喉を鳴らす佐丸に呟くように礼を告げて霖雨は再び歩き出した。
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